「金色の風、たどり着く」

「あー……リルルな、あの話な」


 夕食の時間。

 相変わらず遠いテーブルの向こうに座っているダージェは、料理と燭台しょくだい越しにリルルに向かって、ばつが悪そうな顔で語り始めた。


「戦争をやめてくれっていう話を親父に切り出したんだが、ダメだったわ」

「あぁ…………」


 給仕服を着たティコからグラスにお冷やを受けてリルルが生返事で応じる。

 落胆と安堵が半々だったかも知れない。そんな大事おおごとを、たとえ王子の立場であるとしても個人で止められるというのは非現実的であったし、期待も薄かった。


 なにより、ニコルとの心の繋がりが断たれなかったことが大きい。胸の中で渦巻いていた泥濘でいねいの流れが止まって、いくらかリルルの心を軽くし――。


「……じゃあ、このまま戦争になるのね……」

「いんや、まだそうと決まったわけじゃねぇよ」


 まるでノコギリでも使うように、平たい肉の塊にナイフを入れているダージェが口元を汚しながら答える。おい、という様に首を振ると、ティコが慌てて駆け寄りその唇の端を拭った。


「ヴィザードのおっさんが明日魔界に来るんだ。戦略の確認だってさ。あのおっさん、以前から口約束の空約束ばっかり飛ばしやがって。本当なら秋には動いているような計画だっていうのに、ずるずるいってこのザマさ。正直親父だってあのおっさんを信用してない」

「陛下が……」

「どうせ会議で一波乱あるだろ。そうしたら親父だって考えを改めるかも知れねえよ。親父も俺の提言にそんなに怒ってる風でもなかった。明後日に解けるような軽い謹慎だしな」

「そう……そうなの」

「と、いうわけだ。まだダメって決まったわけじゃねぇよ」

「……楽天的なのね」

「俺がか?」


 ダージェは最後のパンを時間をかけて咀嚼そしゃくし、それを飲み込んでからいった。


「俺はバカだからな。あんまり悩まないようにしてんのさ。悩んだって、ダメなものがダメじゃなくなったりしねぇんだ。なら、悩まない方が得だろ。ハゲなくてすむしな」

「……あなたらしいわね、ダージェ」

「バカがっていうところか?」

「……ふふ」


 リルルは笑った。自然に頬が緩んでしまうのがわかった。


「お、また笑ってくれたな。そうかそうか、もうそんなに俺に心を許してくれるようになったか」

「許してないわよ。夜中に忍んできたりしたらひどい目に遭わせるから」

「ひどい目って、どんな風にだよ」

「一生あなたをにらんでてあげる」

「……そりゃおっかねえな」


 ダージェがまたも素直な気持ちをその口いっぱいに広げて見せた。


「……ごちそうさま」


 まだ皿に料理が残っているのにも関わらず、リルルは胸のナフキンを軽く畳んでテーブルに置いた。


「ティコくん、半分残しちゃったけれど、下げてくれて構わないわ。ダージェ様は食欲が進んで全部お召し上がりになられたようだし」

「あ……リ、リルル様。その……ボクのために無理に残されなくても……」

「なんだ? 俺が気が利かないようなこというなよ」

「どうせ全然動いてないもの。これ以上食べると太っちゃうわ」


 それぞれの表情を向けてくれる男性陣を前にしてリルルは席を立った。


「――結果はどうあれ、このティコくんがなにも心配せず、お腹いっぱい食べられるようにしてあげたいわ。ここにいないティコくんのような子たちも」

「俺だってそうだよ」

「なら、そうなるように努力して欲しいわ。未来の魔王様」


 ティコがリルルの椅子を直す。またあとでね、とリルルはティコの頭を撫で、扉の方に向いた。


「――リルル、事情はどうあれ、お前はここにいた方がいいんだよ。地上に戻ったら戦場だ。お前が好きな王都だってどうなるかわかんねえ。ここがいちばん安全なんだ。いいな」

「私がいるべきところは、私が決めたいの。それにダージェ……あなたは私のもう一つの顔を知らないのよ」

「はあ?」


 口を広げて首を傾げたダージェにリルルは無言で微笑んで、食堂を辞した。



   ◇   ◇   ◇



「……リルル様。ボクは、リルル様がダージェ様と結婚してくださると、嬉しいです。ダージェ様とリルル様の両方にお仕えできますから……」

「ありがとう、ティコくん。……でも、私は帰りたいの」

「ニコル様……ですか」

「ニコルもそうだけれど、他にも大切な人たちがいるわ。ティコくん、君にも家族がいるでしょう? 私にも家族がいるの。家族と同じくらい大切な人たちも」

「リルル様……」

「これからどうなるか全然わからないけれど、私は、ティコくんとずっと仲良しでいたいな。みんなみんな、仲良しでいられるといいのにね……」

「ボ……ボクも、リルル様とずっと仲良しでいたいです」

「――ありがとう。じゃあ、ティコくん、お風呂から上がりなさい。今日も頭から石鹸せっけんまみれにしてあげるから、ちゃんと目をつむっているのよぅっ!」

「リルル様、洗って下さるのは背中だけで結構です! 前は、前は自分で洗いますからっ!」



   ◇   ◇   ◇



 夜も更け、ダージェとリルル、リルルに抱きしめられたティコがそれぞれの寝台に入る。昨日と何ら変わらない夜が時を刻んでいく。昨日と変わらない明日がやってくると信じて、次の朝がやって来るのを眠りの中で待つ。


 主人だけでなく、屋敷に詰める者も熟睡の深みにはまり込み、朝の気配も近づいて来た頃だった。

 空を一直線に走り続けるダージェの屋敷に、接近する影があったのは。



   ◇   ◇   ◇



 それはまるで氷の面を滑るような飛行だった。

 重なるようにして密着した二人の人影が、高度五百メルトという高空を真一文字に飛翔する。

 騎士姿の少年と、町娘の印象を見せる少女の二人組。


 少年は眉間に深い谷を刻んで目を閉じ、歯を食いしばってうつむいている。その代わりに、少年の背中を抱えるように背後から抱きついた少女は、気流が一方向に高速で流れ続ける回廊の中でまっすぐ正面に目を向けていた。


 この真の闇に近い暗さを飛ぶ二人を、地上から目撃できる目など存在しない。翼もなく空を駆ける二人――その中で一人だけ目を開け続ける少女は、今までなにも反応しなかったこの高度において存在するもの・・・・・・を、その機械の感覚の中で感じ取っていた。


「――前方、約五十カロメルトの距離に大構造物を探知しました。目標・・かと思われます。……お兄様、ニコルお兄様?」


 少女――ロシュは自分がしがみついている少年の反応がないことに、ずっと前を睨み続けていた目を下に向けた。自分の顔をくすぐり続けるようになびく金色の髪がロシュの目には、光がほとんどないこの暗さでもはっきりと見える。


「お兄様、ニコルお兄様、どうされました。しっかり――」

「――大丈夫だ……ロシュ……」


 少年の蚊が鳴くような声がわずかに返ってきた。ロシュは喉元まで上がって来た声を飲み込む。そもそもニコルの意識が途切れていればこんな風に飛べていない。

 だが、この飛行を成立させるためにニコルが著しく消耗しているのも確かだった。


 飛行を始めてから既に四十時間が経過している。その間、ニコルは一睡どころかほとんど休憩もしていない。ひたすらに精神を集中させ続けているのだ。一瞬の集中の途切れが推進力を失わせ、墜落の危機に陥ることもこの数時間で三回ほどあったが、それでもニコルは懸命にがんばっていた。


「脳波がかなり不安定になっています。これ以上は危険です」

「あ……あ、ああ……。でも、もう、目標が見つかったんだろう……見えるのかい……」

「いいえ、この闇ではとても視認することはできません。ですが、あと十二分後に接触します。十一分後に減速を開始しなければなりません。相対速度をゼロにしなければ着陸できません。それに失敗したら」

「……わかってる。追いかけることはできないんだよね……また、反対側に飛んで待ち構えることに……はは、それは無理だ……ロシュ、合図は、よろしく。眠っていたら、引っぱたいていいから……」

「――わかりました、ニコルお兄様」


 再びロシュが目を前に向ける。額から発振する電波が反射して返ってくる反応で対象物を捕捉し続けているが、まだ視覚では目標を捉えることができない。


「現在、相対速度時速二百四十カロメルト。六十秒間で相対速度零にまで減速。減速開始まで、あと、十分三十秒」


 もはや、飛ぶことしにしか意識を向けることができないニコルの判断を肩代わりしながら、ロシュは自分を機械に戻した・・・・・・


「減速開始まで、あと三分」


 しっかりと捕まえている兄の体は、文字通りの不眠不休で消耗しきっている。精神が摩耗まもうして判断力が低下し、身体的な疲労も相当なものどあることが予想される。そして、乗り込んだダージェの屋敷できっと大立ち回りが展開されるだろう。


「……減速開始まで、あと、一分」


 その戦闘に、この兄が耐えられるのだろうか。


「……ロシュが、やるしかありませんね……」

「…………ロシュ……?」

「なんでもありません、ニコルお兄様――目標を視認しました。距離、二カロメルト」


 ロシュが持つ二つの高精度のカメラが、夜の闇を無音で爆進する『浮遊砦』を認識していた。小城に匹敵する規模の屋敷が、小さな島に乗って本当に空を飛んでいる。それが成立している原理は不明だが、ロシュはそれを解明したい興味を心から切り落とした。


「減速を開始してください――ニコルお兄様!」

「…………りょ……う、か、い…………」


 声を絞るように出しながらも、ニコルは鞘に収めたレイピアの柄を握る手に、確実に力を込めた。

 二人の体の速度が急速に減じる。が、同時に高度も下がり始める。そもそも、着陸には微妙に足りない高度を飛んでいた上昇に転じなければならないのが、逆に降下を始めている――ロシュの腕の中のニコルの目は開いておらず、それに気づいていない!


「ニコルお兄様、高度が足りません! 上昇してください! お兄様!」


 巨大な空行く島が迫ってくる。視界の中で見る見る大きくなる。待つことなど少しも意にしない無慈悲な速度で、ニコルとロシュの頭上を掠めていくような軌道を予測させるように接近してくる。


「お兄様――ニコルお兄様! 眼を開けて――」


 二人の体が、降下から落下に転じようとし――。

 清楚な妹の仮面をかなぐり捨てるようにして、ロシュが、鮮烈な言葉を吐いていた。


「――ニコル、眼を開けなさいっ!!」

「ぐぅっ!」


 巨大な重力の渦に似た睡魔を精神力だけで振り切るようにして、ニコルが、瞳孔が開きかけたその眼を開いた。本能のままに鞘のレイピアを抜き、それを天に向けて突き上げる。その意思の弾ける力のままにニコルたちの体が砲弾の速度で空に跳ね、島の断崖に沿うようにして高空に駆け上がった。


「っ!!」


 島が二人の体をすくうようにしてギリギリ下に入り込み、次の瞬間には緩やかな丘の上でそれぞれの体を転がす。まりのように転がったニコルとロシュの体が屋敷を囲むように植わっている茂みの中に飛び込み、葉と葉、枝と枝が激しく擦り合う音を立てて止まった。


「――ニコルお兄様、お兄様、大丈夫ですか――」


 屋敷の建物はもう、少し這えば手が届くほどに近い。かなりの勢いでぶつかってくる暴風に体を弄ばれながら、ロシュは身を低くしてニコルが飛び込んだと思われる茂みに走った。


「だ……大丈夫……だ……」


 茂みからニコルの足がはみ出していた。が、声はするがその足は動かない。

 ロシュは周囲の生体反応を探りながら全方向に視線を巡らせた。普通の人間ならまだ就寝している時間帯だ。この頃合いに侵入することができたのは幸いだった。予想通り、人が動く気配はなかった。


「――ニコルお兄様!」

「ロシュ、お願いが……ある……」


 暗闇の中でニコルは茂みに体を隠す形になっていた。ロシュもまた茂みに上半身を突っ込み、ニコルが仰向けで息をしているのを確認する。その目は閉じられていたが、意識に別状はないようだ。


おっしゃってください、ニコルお兄様。大丈夫ですから」

「……五分だけで、いい……」


 ロシュが、目を瞬かせた。意図を図りかねるように。


「五分……だけ……眠らせて……くれない、かな……。五分、経った……引っぱたいて、起こし……」

「――わかりました。三百秒、眠ってください」

「――――」


 ニコルは返事をせず、寝息を立て始めた。ほぼ気絶に近いその寝入り方にロシュは一瞬だけ目を細め、次には屋敷の方に視線を向けている。

 目的地への接触は、成せた。あとはここから、リルルを救い出さなければならないのだ。


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