「お風呂場の交流」

 寝台の上で酔いに微睡んでいたダージェは、大きく寝返りを打った途端に頭にぶつかってきた酒瓶の感触に、半分も開かない重たいまぶたをゆっくりとこじ開けた。


「う……うう……う……」


 まだ二日酔いには早いが、それに似た頭痛が微かにうずいているような気がする。苛立ちのために勢いに任せて早めた酒の調子によって無理矢理に寝たためか、気分がよくない。


「ティコ……おい、ティコ、水、持ってこい。……ティコー、聞こえないのか……」


 手を払うと、空の酒瓶が寝台から転げ床で重い音を立てた。


「戦争を止めて……なんて、無理、いいやがって……できるわけ、ないだろうが……」


 その斡旋あっせんができたのなら結婚してもいい、といいきったリルルの言葉が耳の裏に残っている。裏を返せば、そんな実現不可能な領域に結婚があるわけだ。事実上の拒絶、だった。


「別に……俺だって、無理に戦争を、やりたいわけじゃ……この屋敷でぬくぬくしている方が、楽で……おーい、ティコ、ご主人様が呼んでるんだ、早く来ないと親元に送り返すぞ……」

「ダージェ様?」


 入ってきたのはメイドのひとりだった。寝台の側でひざまずき、ぼんの上に載せた水入りのコップをダージェに渡す。完全に透明な水をダージェはゆっくりと飲み干し、その美味さに大きく息を吐いた。


「あぁぁ……美味ぇ……。……おい、ティコのヤツはなんで顔を見せないんだ。今は……」

「午後の八時でございます」


 ダージェはいわれて反射的に時計を確かめた。ヤケ酒をやり始めてから三十分も経っていない。寝入る寸前で目覚めてしまったのか。


「ティコはリルル……様……のお側についていますよ」

「…………そうだった、俺がそうするようにいったんだっけか……。今日はなんか、頭が内から外から痛い一日だぜ……。……んで、ティコは今、リルルの側にいるのか……?」

「はい。今はリルル様と一緒に、お風呂に入っています」


 ダージェの酔いが一撃で吹き飛んだ。


「なんだそりゃあ! なんであのガキがそんないい思いをしてんだ!? ご主人様が惨めにひとり酒してるっていうのに!?」

「知りません」


 後宮同然だったこの屋敷に異分子を招いた主人に、全員そろって反抗の意を見せるメイドのひとりはぷい、と唇を尖らせた顔を背けて見せた。



   ◇   ◇   ◇



 温かく濃い湯気が、閉ざされてはいるか広い空間をいっぱいに満たしていた。

 フォーチュネット邸のリルルの寝室の面積はある浴室。それを真ん中で単純に二つに仕切りで分けた半分が浴槽となっており、たっぷりに張られた熱い湯の中でリルルはその体を伸ばしている。


 外からの侵入は今のところ、ない。全ての衣服を脱衣所に置いているリルルも、その両手首の腕輪だけは外すことはなかった。右の黒い腕輪と左の銀の腕輪、それがあれば本当にどうにでもなった。


「いい……お湯ね……」


 状況が動かなかった一ヶ月間を取り戻すような、激動の一日だった。王城の尖塔に囚われていた身が今は、魔界の空飛ぶ屋敷に囚われている。ほとんど牢屋に囚われているのと変わらない狭い尖塔よりはこちらの方がいくらか開放感はあったかも知れない。


 あとは、側に話し相手がいるということも大きかった。


「そ……そ、そうですね……」

「ティコくん、ちゃんとあったまってる? ぬるくない?」

「あ……あたたま、あたたまっています……」

「そう、よかった」


 する、と首筋を通して滑るように回ってきた少女の腕の感触に少年の心臓が跳ね、ぎゅ、とそれが抱きしめてくる圧力に今度は心臓があたふたと駆け回った。既に頭の奥は煮詰まりかけていて、ティコの深い蒼のはずの顔の肌はもの凄い濃さの朱が混じってきて、きつい赤紫色になっている。


「はああぁ……気持ちいい……幸せ……」

「ほ、ほほほ、ほんと気持ちいいです、幸せです……」


 仰向けに伸ばした体を沈めるリルルに背中を抱きしめられ、まるで緊急用の浮き袋かなにかのようにティコもまた裸の体を口から上だけを湯船の水面に出していた。全身を包み込む湯の熱さと背面の全部で感じる他人の体の感触に、もうわけがわからない。それが綺麗なお姉さんとくれば尚更だ。


 自分の体が内側から火照ほてりまくるのは恥ずかしさのためか羞恥しゅうちのためか――多分両方のためなのだろうが。


「みんながみんな、こうやって温かいお風呂でゆっくりできればいいのに……これだって、もの凄い贅沢なのよね……」

「そ……そそ、そそそ、そうですね……」


 魔鉱石が大量に採掘され、燃料事情に余裕があるエルカリナ王国であるから、入浴の習慣は庶民であっても普通にある。裕福とはいえない平民たちでさえ、少し大きめの共同風呂を十数軒にひとつ持っていたり、公共の銭湯などがあちこちの建物の中にあるものだ。


 地方の村であってもそれはさほど変わらない。ニコルが馬で三日はかかるというゴーダム領から王都までの道を行く時、立ち寄った村々で強引に入浴をすすめられたという話を聞いたことがある。


「本当に、戦争でしか物事は解決しないの? もっと本気で話し合って、交渉しようとしたら回避できるものではないの? 誰だって殺し合いなんかしたくないわ。平和がいちばんなはずだもの……」

「リ……リルル様……」


 半分声をあぶくにしてぶくぶくといわせているティコが口を開いていた。それ以上水面から上に上がることができなかった。


「リルル様は……その……怖くない方なのですか……?」

「あら。私がまだ怖い? 服を無理矢理脱がすのが怖かった?」

「は、はい。怖くて、恥ずかしかったです」

「ごめんごめん。でもそうしないとお風呂に入ってくれなかったもの。私はティコくんとお風呂に入りたかったの」

「どうして……ですか……? リルル様は、ボクが、魔族が怖かったりしないのですか……?」

「最初は怖かったわ。よく知らなかったから。でも、ティコくんを見て怖くなくなった。ティコくんは可愛い男の子だもの。地上にもいっぱいいる可愛い男の子と、全然変わらないの。安心した」

「……地上の人たちは、みんなリルル様のように優しいのですか? ボクは地上の人間はとても怖いものだと教えられてきました。だから……」

「地上にもね、悪い人たちはたくさんいるわ」


 リルルの目が細められた。今までに目にしてきた事件の記憶、出会ってきた人間たちの顔――頭からも忘れられつつあるそれらが刹那せつなの瞬間、よみがえった。


「私、そんな人たちを大勢見てきたから。本当に大勢、大勢……他人を傷つけたり、奪ったり、しいたげたり……そんなことに、少しも心の負い目を持たない人たち。私はそんな人と……」


 リルルははっと思い当たって、口を閉じた。体の全部を温めてくれるこの幸せな感触の中で口が滑りすぎてしまう自分を瞬間、恥じた。


「リルル様が……?」

「色々あってね……うふふ」


 リルルははにかむようにごまかした。快傑令嬢リロットなんていうものを説明してもわからないだろうし、今はその話は伏せていたい。ここにいる自分は、無力な身を捕らわれている伯爵令嬢、王妃候補のリルルなのだから。


「……ね、ティコくん。ティコくんも、魔界は地上と戦争をするべきだと思ってるの?」

「よ……よく、わかりません……」


 働いているのかどうかも怪しい頭を巡らせてティコは必死に言葉を探した。


「ボクは、ここに来てまだ贅沢をさせてもらっている方だと思います。父上や母上はボクなんかよりずっと貧乏な暮らしで、お風呂になんか入れませんし……」

「……そう」

「みんながもっと食べられるようになるのなら、それがいいんでしょうけれど……」

「……けれど?」

「……リルル様のお父上や、お母上と、ボクの両親が殺し合いをするなんていうことは、してほしくないです……どちらが殺し殺されても、リルル様はこんなに優しくしてくれなくなりますから……」

「……そうね。……そう思うわ……大切な人が傷つくだけでも悲しいのに、死んだりしたら……それが他の人の手によるものだったら、絶対に憎んだり恨んだりするものね……」


 地上に――特に王都に残してきた友人や知人のことをリルルは思う。


 メージェ島に移ったみんなはまだ影響が少ないかも知れない。サフィーナはまだ王都にいるはずだ。リルルがもうひとりの母と慕う元乳母でニコルの母のソフィア、その義理の母であるローレル。ニコルの家の近所の住人たち――他にもいる、たくさんいる。リルルの大切なひとたちは。


 ひとりとして、失うわけにはいかない。リルルの世界を支えてくれているひとたちだからだ。


「……ティコくん。あなただって、私の大切なひとなのよ」

「え……ボクが、ですか……」

「そうよ。私は大切じゃない人と、こうして一緒にお風呂になんか入ったりしないわ」

「あわわわ……」

「――さ、もうあたたまりきったわ。体を洗いましょう」


 もう完全にで上がるティコから腕を離して、リルルは立ち上がった。飛沫の柱が側で立つ気配にティコは両眼を固く閉じる。目の当たりにしたら目が潰れると本当に信じていたからだ。


「ほぅら、ティコくん、湯船から出て――どうしたの? 目にお湯が入った?」


 光の一滴も入れまいする少年の完全な闇の中、耳元で声がする。


「しようがないわね。ほら、だっこ」

「うわぁ」


 ティコの小さな体が引き抜かれるようにして湯船から出された。年齢差があるにしても、少女のものにしては強すぎないかという力で宙に足を浮かせたティコが、そのまま椅子の上に座らされる。


「さあ、頭のてっぺんから足の先まで、すみからすみまで泡だらけにするからね!」

「うわわわわわ!」


 石鹸せっけんを手にしたリルルが微笑みながら宣言し、実行した。


「くすぐったい! くすぐったい! やめて、やめてください! リルル様、お願いします!」

「やめるわけがないでしょう! どこをくんくんしても石鹸のいい匂いがするきれいきれいなティコくんにするの! リルル様の命令に従って大人しくしていなさい!」

「ひゃあっ! おしり、おしりに触らないで! こそばゆい、こそばゆい!」

「うるさぁ――い!」


 完全に興が乗ったリルルの手が宣言通り、ティコの体のすみからすみまでをはい回る。くすぐったい部分の全てを余すところなく触られ、ティコの口から変な声が漏れに漏れ出た。

 そしてその対象は、ティコが絶対死守しようとする部分までも例外ではなかった。


「ティコくん、なにを膝をぴったり閉じてるの! 大事なところが洗えないでしょう!」

「リルル様! ここだけは、ここだけは本当に許してください! お願いです、お願いです、お願いです! こんなところを洗われたらボクは、ボクは死んじゃいます!」

「ダメよ! 男の子がそこを汚くしていてどうするの! 大人しく開きなさい! 抵抗は無意味よ!」

「ひゃあああああ!」


 浴室の壁一枚向こうを通りかかったメイドのひとりが、壁の向こうから聞こえて来た少年の艶なまめかしい悲鳴を耳にして思わず目を見開き、顔を紅くして立ち止まった。

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