「裏切りの始まり」

 リルルは絶句した。あまりにも飛躍ひやくした内容に、二の句が継げなかった。

 自分の母国が魔界と手を組み、地上を征服しようとしている。

 手もつけられない料理が冷めていくのを前にし、その受け入れがたい事柄ことがらを飲み込めず、体を硬直させている。


 テーブルの向かいでグラスの水を美味そうに飲んだダージェが、拳大くらいのパンを丸ごと口の中に放り込み、それを咀嚼そしゃくして喉の奥に飲み込んだ。


「信じられない、けれど心当たりがある、っていう顔だな、そりゃあ」

「…………嘘よ、そんなはずが……」


 その少女のつぶやきは、ダージェが聞き取れるほどの音にはならなかった。否定しきれない自信のなさがリルルの唇のほんの先しか動かしはしなかった。


「俺がお前を連れ出すために尖塔せんとうに入った時、コルネリアが駆けつけてきたろ」


 エルカリナ城の尖塔に住まわされたリルルの世話と警護の責任を引き受けていたコルネリアの名前に、リルルの背筋がねるように伸びた。


「あいつ、俺の顔を見た時、どんな反応していたか覚えているか?」

「――――」


 リルルの記憶の中に、会話の細部を洗い出せるほどの鮮明なものは残ってはいない。

 ただ、思い出せることがあるとすれば――。


「……あなたの顔を、知っているような素振りだったわ……」

「ような、というか、知ってるんだよ、実際にな。そのコルネリアはお前がここにきてすぐに、お前の身柄を返せと抗議に魔界の王宮に乗り込んで来たんだぜ。追い返したけどな。エルカリナ王国と魔界の間には交流がある。そういうことだろ」

「……嘘よ……」

「いい加減現実を見ろよ。本当のことだってお前もわかってるんだろ、見た目の割りには賢いんだから。目をそむけててもなんにも進展しねえぞ」

「嘘よ……!」

「ここに連れてこられたのは幸運って思うべきだ。もうすぐ地上は戦争になる。世界の全部を巻き込んだ大戦争だ。そんな戦火を世界越しに見ながら、お前はここでぬくぬくとしていればいいんだよ。必ず俺たちが勝つ。そして、最終的には魔界が勝つ――」


 ダージェが飲み干したグラスにお代わりを注ぐティコの顔には、動揺どうようはない。とっくに知っている、もう聞き慣れている話なのだとリルルにはわかった。


「くだらん理由で先祖をロクに陽も差さない世界に押し込められ、豊かな地上を独占されるのを指をくわえて見せられていた復讐ふくしゅうってやつさ。そう考えれば、正当な行為だろ?」

「やめて!」


 血の気が引ききった顔を上げてリルルが立ち上がる。その勢いでグラスが揺れて倒れ、透明とうめいみをテーブルクロスに広げた。


「戦争なんてやめて! 勝とうが負けようが、大変なことになるわ! あちこちで殺し合いが起きるんでしょう! どうして戦争なんかしなきゃいけないの!」

「戦争で豊かな地上を分捕ぶんどらなきゃ、魔界の民が死ぬからだ」


 回答は簡潔かんけつだった。


「この世界の暗さを見たろ。こんな弱い陽の光しか届かない世界で、どれだけの作物が育つと思う? それでも魔界は細々とやってきたが、この数年は壊滅的かいめつてき飢饉ききん、飢饉、飢饉、大飢饉なんだよ。そこのティコだってやせっぽちだが、まだ食えている方だ。田舎なんかはもう調査をする意味すらない」


 名前を呼ばれたティコの肩が、びくっと震えた。


「今このテーブルにっている料理、これ自体が凄まじい贅沢ぜいたくなんだよ。お前は王族が食うものがこんなものかと思っているだろうが、魔界の貴族でもこんなものは食えてない。今お前は、この世界でいちばん豪勢ごうせいな食事をしていると思って間違いないんだぜ」

「それでも、戦争はよくないわ! ……食べ物の不足が戦争の原因になるのなら、食べ物を足りさせればいいんでしょ!」

「どうやってだよ。それができれば苦労はしてねぇんだ」

「取り引きよ!」


 リルルの叫びにも似た声に、ダージェが片眉を跳ねさせた。


「地上と魔界で取り引きをすればいいんだわ! 私の父は海産物を扱う商いをしていて、今じゃ世界有数の穀倉地帯の領主をやっているわ! それが売れる市場があれば必ず飛びつく! 父は利があれば相手はエルフだろうが魔族だろうが関係ないもの!」

「魔界には支払える対価なんてねぇぞ。この実り少ない世界に、そんな値打ちがあるものが――」

「探せばなにかあるはずよ! なんだったら労力でも問題はないわ! 魔界の人たちが地上に出て働けばいい! 作物を作って食べられれば問題はないんでしょ!? 誰も損をしない話じゃないの!」

「――――」


 今度はダージェが押し黙る番だった。


「ダージェ、お願い……! あなたはこの世界の王子で、発言力だってあるはずの人よ! ……戦争を止めてくれたら、あなたと結婚してもいい!」

「リルル……!?」


 遠い間合いからダージェはリルルの顔をのぞき込む。大きな目にいっぱいの涙を溜めて、それでもまっすぐにこちらを見据みすえようとしている少女が、唇のむ表情がそこにあった。


「傷ついて、奪われて、死んだりしていったいどれだけの人が不幸になるかわからない戦争が起こるかどうかの前には、私の結婚なんて些細ささいな問題でしょ……! だからダージェ、どうかあなたの口から……!」

「……いまさら戦争を止めるなんて、無理な相談なんだよ!」


 いつの間にか自分がされていることに気づいたダージェが苛立いらだった声をいた。


「リルル、無理なことは二度と口にするな。魔界は地上に侵攻する。これに反対するヤツは魔界にはいないんだよ、それが成功すれば、腹一杯食えると信じているからな。俺も魔界の王子として、民草たみくさにこれ以上ひもじい思いもさせられねぇ……ちっ、食欲がなくなったぜ」


 ダージェは椅子をるようにして立ち上がった。


「おい、ティコ。この料理、全部片付けておけ!」

「え……!」


 肩をすくめきって脇にひかえていたティコが目をく。ダージェの皿は半分も手がつけられていなかった。


「そんな、もったいない……!」

「いいから捨てておけ! 捨てる先はどこでもいいんだよ! お前の胃袋の中でもな!」

「え…………!」


 ティコの目がおどろきに見開かれた。


「気分が悪い。俺はもう休む! お前はリルルの相手でもしてろ!」


 舌打ちを発してダージェは大股おおまたの足取りで食堂を出る。扉を強く閉める音が、最後の挨拶あいさつになった。


「……リルル様」


 言葉や想いをぶつける相手をなくし、表情をくもらせたリルルが座り込む。そんなリルルの側に、すっとティコが寄り添った。


「……ダージェ様は乱暴な方ですが、決して悪い方ではないんです。時々、こうして優しいところも見せてくれる方なんです。僕は、これからもダージェ様にお仕えしていたいです。ですからリルル様も、ダージェ様のために……」


 ティコがリルルがこぼしてしまったグラスの水を布巾ふきん丁寧ていねいぬぐい、乱れた食器を直す。リルルは、そのティコの目のはしに涙の輝きがあるのを見ていた。


「……あいつが見た目ほど悪い奴じゃない、というのはわかるけれどね……」


 エルカリナ王国が魔界と手を組んでいること、それが世界の征服を目的としていること、間もなく戦争が始まるだろうということ――。

 心を強く持っていなければ、胃の壁を今すぐに溶かしきってしまうようなことだらけだった。


「……料理も半分冷めかかってるわ。食事の場で話し込んでしまったのは、作法に反することね……」

「温め直すことは、できますけれど……」

「そう? じゃ、お願いしようかな、ティコくん」

「は、はいっ」


 車輪付き荷台に肉料理やスープの皿を戻すティコのあたふたとした動きを見ながら、リルルは冷え切った自分の手に視線を落とした。


「戦争を止めなければならない……でも、そんなことが本当にできるの……? 歴史の中で、何人かの人間で戦争を止められたことがひとつだってあるの? そんなのは無理なことではないの……? 今の私ひとりに、いったいどんなことができるの……?」


 ――いや、とリルルは心の中で言葉を打った。


「――私ひとりでできなければ、みんなでできればいい。そのためには……」


 早くここを脱出し、みんなの所に戻らなければならない。


「ニコルは……私を追ってくれている。きっと助けに来てくれる。それまで、私に何ができるかだわ……」


 希望は、まだある。まだ――。



   ◇   ◇   ◇



 リルルが食卓の前で祈りを捧げるように願いを抱いている頃、コルネリアが再び魔界の王宮に姿を見せていた。


「我が主君、ヴィザード一世からの伝言である。我が主君自ら会合かいごうに出向く。場所はこの王宮、日時は明後日の正午である。明日には援助物資として小麦粉などの搬入はんにゅうを開始する。総量は――」


 堅い表情で一枚の書面を読み上げるコルネリアを前にして、『魔王』の長女であるモーファレットは満足の笑みを見せた。


「結構。ヴィザード一世陛下のご誠意せいい、見せてもらいましたわ。あとはそれが空約束からやくそくでないことを証明していただくだけね」

「いまさら無駄に言葉を重ねるつもりもない。結果を見てご判断願おう」

「わかりました。明後日の会合にはあなたも来られるのかしら?」

「いや、我が主君と護衛ごえい供回ともまわり二名だけだ。私は別に仕事があるゆえ。……時に、リルル嬢の身には万全の注意を払っていただいているのだな?」

「弟の屋敷で快適に過ごされているはずよ。ご心配なく」

「……それでは、よしなに」


 コルネリアはきびすを返した。魔界の日暮れ――昼とさほど明るさも変わらない――を見ながら、地上とのつながりである魔法陣がえられている神殿に向かって足を向けた。


「そう……結果を見てご判断いただこう……」


 明日と明後日の大事件が起これば、世界は大きく揺らぐ。

 誰も予想していなかった方向に巻く渦の中に、ふたつの世界は放り込まれる。


「私も泳ぎ切らねばならない……渦の中心に巻き込まれないように……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る