「年は暮れゆきて、その後」

 エルカリナ大陸の内陸――北方に位置する大地を、西に大きくかたむいた夕陽が、鮮やかなオレンジ色に焼いていた。

 ゆるやかな山の裾野すそのを下ってきた乾いた風に吹かれ、いっぱいの実をつけた小麦のたちが冬の平地をおおくして、黄金色の大海を作っている。フォーチュネット郡特産の早小麦はやこむぎが作る景色だ。


 大地母神だいちぼしんの力を得ている、と伝説を残すフォーチュネット郡の農地は、年に三回小麦の種まきと収穫しゅうかくり返す。しかも、休耕きゅうこうようさない――他の領主がその魔法的な地力じりきうらやむ、まさしく垂涎すいぜんの土地だった。


 地平線の向こうにまで続いているのではないか、というほどにき詰められた、金色こんじきの農地。細くまっすぐに整備された川が何本も走り、無数の風車や水車が立てられて、風と水の力でそれらがゆっくりと、しかしいつまでもくるくる、くるくると回り続けている。

 ここは、めぐみの土地だった。


 そんな、収穫の喜びを迎える静かな土地を突如とつじょ乱したのは、そこそこの太さの街道をかなりの速度で進入してきた、一台の馬車だった。

 刈り入れの準備をしていた農民たちが、砂埃すなぼこりの尾を引きながら走る馬車の猛烈もうれつな速度に手を止め、顔を上げる。それほど大きくない鉄ごしらえの重い車体を、筋肉のかたまりのような三頭の巨馬きょばで引く馬車だ。

 

 遠慮えんりょ配慮はいりょもなく、猛然もうぜんと砂煙を上げながら走る馬車は徐々じょじょに速度を落とし、小川おがわの前で完全に停車した。巻き上げていた砂塵さじんが落ち着き、馬車の後部にしがみついていた二人の姿が、そこでようやく現れた。


 御者ぎょしゃとして手綱たづなにぎっていた若い男、車体の後部のみ台で足を踏ん張らせていた中年の大男と若い女が、外れるようにして馬車から離れる。全員があえぐようにして川に駆け寄り、顔をその中に突っ込んだ。


「あーっ! キツかった――っ!!」


 鼻がけずれるほどに水でじゃぶじゃぶと顔を洗った若い男が、飛沫しぶきき散らしながらさけぶ。野営慣やえいなれしているだろう服装に、腰には長剣を差している――どこからどう見ても冒険者風の男だ。トドメを差すように、襟元えりもとにはエルカリナ冒険者ギルドの特別会員を示す徽章きしょうが貼り付けられていた。


 一緒に心ゆくまで顔を洗い、両手ですくった水を飲みした他の二人も、まるでそこがようやくたどり着いた宿の部屋であるかのように倒れ込んだ。


「ここ……着いたの……目的地に……」

「多分なぁ。おい、そこらの百姓ひゃくしょうに聞いて来いよ。ここはフォーチュネット郡ですかって」

面倒臭めんどうくさいわ。それより依頼人・・・に聞きなさいよ。答えてくれるわよ」

「んだな。――おい、おっさん! おっさん、出てきてくれ!」

「――あ?」


 ガラスもまっていない鉄ごしらえの車体。本当に細い窓のふたが内側から横にすべらされ、老年に差し掛かろうというせた男の目がそこからのぞいた。


「ガープ、お前じゃねえ、依頼人のおっさんの方だ。寝てるのか」

「ああ、揺れる馬車の中で高いびきじゃよ。今起こすからの――伯! 伯爵! 起きなされ!」

「ったく……あああ、疲れた……ひもじい……寒い……」


 馬車の中かられ聞こえる声にため息をきながら、中年の男は鉄の馬車をあおぎ見た。軍用の装甲馬車の払い下げだが、真新しい弾痕だんこんや矢が当たったあとが無数についている。

 王都エルカリナを発して五日間、五百カロメルトという距離きょりを走りに走って来たのだ――途中、何度も何度もぞく遭遇そうぐうしながら。


 襲撃しゅうげきに対して特別にあつらえた装甲馬車だが、そのいかにも貴重きちょうなものをせていますという外見が、賊の注目を集めるらしいものだった。


「残りの弾と矢はどれくらいなのよ?」

「二割ってところだな。いやー、撃ちまくってまくったな」

「冗談じゃないわよ! どこかで補給ほきゅうしなきゃいけないじゃない! 次におそわれたらおしまいよ!」


 そんなわめき声が響く中、ギィィィ……と重くきしむ音を発し、馬車の分厚い扉が開いた。


「ふぅ」


 青いチュニックを着た、中年と初老の狭間はざまにいる男が、眠そうな顔を見せて車から降りてくる。

 ログト・ヴィン・フォーチュネット伯爵、その人だった。


「着いたのか」


 五日間をぶっ通しで小さな馬車の中で揺られ続け、その間を全て車中泊で過ごしたためか、服装も髪も乱れに乱れている。それでも自分の足で歩ける気力は残っているようだった。


「よくわからん。方角と距離きょりからすればここだと思うんだが、どうなんだ、おっさん」

「ああ……」


 またも吹き付けてくる冷たい風に、一行は冷え切った自分の体を抱きしめた。

 その中で、ログトは両腕を広げてそれを全身で受ける。


「おお……おお、おおお……」


 眠気にれ下がっていた表情に輝きが宿やどり、生気を取り戻した目が開く。


「この風……この肌触り、冷たさ、覚えがある……覚えがあるぞ……!」

「おい、おっさん!」


 制止を振り切ってログトは走り出した。護衛ごえいとしてやとわれた四人はそれを追おうとしたが、完全にきた気力の前に、その場にくずれるようにしてしゃがみ込んだ。


「……今日こそは寝台で寝たい、風呂も浴びたい、服も着替えたいぞ」

「……ねえ、この契約ってどうなってるの。ひょっとして帰りもあたしたちが護衛するわけ」

「今はそんなのどうでもいい。どうやら目的地らしいし、食えて寝られる場所を探すぞ」


 そうはいいつつも、無茶な強行軍を突き通し、いったん休憩きゅうけいしてしまった彼等に、次のなにかをやろうという気力を回復させるには時間が必要だった。四人は吹き付けてくる風にえりを立て、陰になる馬車の側に寄って、それぞれに身をちぢめた。



   ◇   ◇   ◇



 細い道に仕切られた四角形、一面一面が広い麦畑の間を、ログトは少年のようにけていた。


「は……ははは、ははは、はははは……! このにおい、この空気、この夕陽の陽射ひざし……! 覚えている、覚えているぞ、まだ記憶にある! なつかしい……懐かしいぞ、なんて懐かしいんだ!!」


 自分の胸までの高さがある、無限に連なる小麦の穂たち。穂が揺れ、こすれ合う音はさざ波の音のように聞こえ、それはまさに黄金の海を泳いでいるとログトに錯覚さっかくさせた。


 そう、自分はこの金色の海を泳いできた。幼いころに、何度も何度も。


「夢に見た……夢にまで見たフォーチュネットの大地だ! フォーチュネットの麦の海だ! ――私は帰ってきた! 取り戻した! 取り戻したんだ! ついに、ついに、ついに、ついについについに……!! ついに私は夢を果たしたんだ……!!」


 涙を流し、鼻水を垂らしてよだれを撒き散らしながら走る、貴族かなんなのかあやしい男。まばらに見える農民たちが、その奇っ怪な男を前にして唖然あぜんとした顔を見せる。そんな視線をもろともせず、感極かんきわまったログトは手近な麦畑の中に文字通り、飛び込んでいた・・・・・・・


「ふっはぁ――――!」


 麦の穂をぎ倒し、両腕を風車のように振り回して畑の中を泳ぐ・・飛沫しぶきのように麦の実が舞い、満面の笑みを浮かべるログトはそれをいくつも浴び、麦たちをかき回しながら、畑のど真ん中に向かって泳いで、泳いで泳いで泳いだ。


「おい! そこの親父!!」


 自分の畑が踏みあららされていることに、血相けっそうを変えた中年の農夫がすきを振り回しながら駆け込んできた。


「お前、正気か!? なんのうらみがあって俺の畑荒らしやがる!!」

「おお、お前の畑だったのか。ここはフォーチュネット郡だな? フォーチュネットの麦畑だな?」

「ああそうさ! ここはエルカリナ大陸屈指くっしの穀倉地帯、フォーチュネット郡の小麦畑だ! 世界一の小麦畑だぞ!! おらぁな、ここで麦を作るのがほこりなんだ! その誇りを荒らしやがって、たたっ殺すぞ!」

「そうか! ふははは……! やっぱりフォーチュネットの畑だ! フォーチュネットの黄金の海だ! 私は帰ってきた、本当に帰ってきたんだ……! これは、これは本当に夢ではなかろうな。目が覚めたら事務机の上に突っしていた、なんてなったら私は首をるぞ!」

「うるせぇ! 首を吊る前に俺がボコボコにしてやる! このわけのわからん親父が――!!」

「まあ、まあまあ、そんなに興奮するな。これで気をしずめてくれ」


 ログトはふところから無造作むぞうさに引っつかんだそれを、厚みも確かめずに農夫に向かって投げつけた。きばきそうになった農夫が、次には目を剥く――それは白いふうたばねられた札束さつたばだったからだ。


「ひゃっ……百万エル……!!」

「それだけあれば足りるだろ。りはいらん、とっとけ。その代わり、しばらく好きにさせてもらうぞ」

「あ……あんた、何者なんだ、いったい」

「私か? 私はな、ここの新しい領主だ」


 ログトは笑った。心からの、心底からの笑みがそこにあった。


「いや――ちがうな、違う、違うぞ! 私は、ここの正しい領主だ! 正統な領主なんだ!! 私がぐべきだった領地を、いままさに、この手に取り戻したんだ! が高い、頭が高いぞ! ははは、ははははは!!」


 喜びを制御できないように笑い続けるログトは、再び小麦の海に飛び込んだ。実と穂を波飛沫なみしぶきのようにして一直線に泳いでいくその姿を、農夫は呆然ぼうぜんと見送るしかなかった。領主と名乗った男がなにをわめいたのか、半分も理解することができず――冬の空に響き渡る笑い声を、困惑こんわくの中で聞いていた。


「フォーチュネットの風よ! フォーチュネットの雲よ! フォーチュネットの太陽よ!! 私は……ログト・ヴィン・フォーチュネット伯爵は今、帰ってきたぞ!!」


 ある冬の、夕暮れ時の光景だった。

 そしてこの約一月後、このフォーチュネット郡の大地がどのような状況じょうきょうになるのか、それを想像できる者はこの世に一人も存在しなかった。



   ◇   ◇   ◇



 エルカリナ暦四五三年が、終わろうとしていた。


 リルルはおよそ一ヶ月の間、エルカリナ城の尖塔せんとうの中で息を詰め、様々に思いを巡らせていた。

 一年の最後の夜、土砂降りの雨が王都の全域ぜんいきを襲うのを窓ガラス越しに見つめながら、リルルはその暗がりの中にひとつの予感を見ていた。


 王都で最も高い位置にある尖塔に幾度いくど落雷らくらいが走り、そのたびすさまじい雷轟らいごうが鳴り響く。

 雷雨らいうの叫びを聞き、時折ときおりすさまじい光に一瞬、白くめ上げられる王都。

 その照り返しに自分の顔も白く色をうばわれるリルルは、ぽつりと呟いた。


「風向きが……変わるわ……」


 それは予感とも呼べないかも知れない、小さな勘のささやきだ。

 しかしリルルはそれを信じた。快傑令嬢リロットとして戦った中でつちかった自分の感性の声を。


「――間もなくかも知れない……」



   ◇   ◇   ◇



 ――エルカリナ城の地下深く、深奥部分にある『結節の空間』。

 そこは、闇しかない世界だった。

 その中で唯一の例外のように、まるで精密な機械時計のように幾重いくえにも輪を重ね、ぼんやりとした紫の光をともす魔法陣が、闇色の地面でゆっくりと回転を行っている。


 最も外の輪は直径ちょっけい十メルトほど――時計の秒針よりもはるかに遅い速度で回転し続けるそれを前にし、真っ黒な外套ローブに身を包んだ魔界皇子まかいのおうじ、ダージェはつばを飛ばしてさけんだ、


「どうなってんだこりゃあ!!」


 怒気どきはらんだ喚きに、従う二人の長身の影がかすかに肩を揺らした。


「ほぼ一ヶ月待っても、大してひろがってねぇ! あの国王おっさん、やる気あんのか!!」


 声をらして叫ぶが、それでどうなるというものでもない。三人しかいないこの広大な――広大過ぎる空間の中でむなしさだけが、余韻よいんを残して消えて行った。


「これが拡がらねぇと魔界から軍勢が出れねぇ! 俺たち魔力が抜きん出る者だけ出ても、戦争になりゃしねぇ! あの国王にも都合が悪いだろうに、なにをもたついてやがるんだ!」

「若、どうします」

「――どうもこうもねぇ! 親父に報告だ。魔界ももう、二月ふたつきたねぇ――なんとかさせるぞ!」


 ダージェは目をつぶり、強く念を浮かべる。他の二人もそれにならって一斉に『輪』の中に足をみ入れると、三人の影はまたたく間に吸い込まれた。



   ◇   ◇   ◇



 明かりのひとつも灯されない玉座の間。雷光らいこうに何度もひらめくその奥に一人座る国王、ヴィザード一世が、静かに両眼を開けた。


「――もうそろそろ、頃合ころあいだな……」

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