第六部「史上最大の婚約」

プロローグ

「家なき子」

「今日限りでお前を解雇かいこする。我がを出て行ってほしい」

「――――――――」


 フィルフィナのたましいが、その言葉だけでれた。今まで美しく咲きほこっていた花が、それを手折たおった手の中で一瞬のうちにしおれ、あっという間に色を失うように。

 ログトが背を向け、屋敷の中に入っていくのをフィルフィナは、すぐには追えなかった。


 小さな体が冬の初めの風に吹きさらされ、メイド服が大きく音を立ててはためく。少女の体温が指の先まで失われていく中、アメジスト色の瞳だけがれた熱を持って大きくにじんでいた。


「だ……だ、旦那だんな様ぁっ!」


 小さなかみなりに打たれたかのように気付き、フィルフィナは屋敷に向かって走った。庭の真ん中を進み屋敷本館にもう少しでたどり着こうというログトの脇をすり抜け、玄関の扉を背にして砂利じゃりの道にひざを突き刺す。そしてそのまま地面に手を着きひたいをぶつけるまで、なんのためらいもなかった。


「解雇は、解雇だけはお許しください! 旦那様、フィルはこの屋敷にいとうございます! 給料なぞりません! ただ働きで結構です! どうか、どうかわたしをこの屋敷に置いてくださいませ!」


 エルフとしての誇りもなにも投げ捨てた嘆願たんがん、いや、哀願あいがんだった。願いを聞き入れてもらうまでは、この屋敷の中になんとしてもログトを入れはすまいという気迫きはくさえあった。

 ログトはそんなメイドに、残酷ざんこくなまでに冷静な目を向けていた。土下座どげざする相手など見慣みなれているのだ。


「お嬢様が王家にとつがれる以上、わたしが王城で奉仕ほうしすることはかないませんでしょう! わたしがお嬢様との間に持てる最後のつながりは、年に何回かお里帰さとがえりをなされるお嬢様を、このお屋敷で待つことだけなのです! 同時に、このお屋敷はわたしの家でもあるのです! どうか、どうか……どうかぁ!!」


 膝に突き刺さる砂利の冷たさも痛さも今のフィルフィナにはなんでもない。死守しなければならぬ。この望みをつらぬかなければ、自分が死ぬ、いや、それ以上に重たい恐怖が彼女を地面にいつくばらせた。


「フィル――」


 ログトがフィルフィナの前で、膝を折る。これ以上小さくできない体を震わせてせるフィルフィナの肩に、手を乗せた。


「私はな、お前が世界でいちばん有能なメイドであることを知っている。リルルと最も心を通い合わせている友だということも、知っている。だがな、今回の解雇はそんなこととは関係ないんだ。聡明そうめいかしこいお前ならわかるだろう。何故今、自分が解雇されなければならないのか、を」

「そ……それは……」


 フィルフィナにはわかっていた。わかっていたからこそ、口にするのが恐ろしかった。

 それは、どうにもできるものではなかったことだから、だ。


「わ……わたしが、わたしが、エルフだから、ということですか……」

「そうだ」


 視界の完全な外でログトが優しく微笑ほほえむのが、フィルフィナには見えなくとも、かすかな息づかいだけでわかった。


「当家はこれより、王家の外戚がいせきとなる家だ。全てにおいて外戚に相応ふさわしい家とならなければならぬ。フィル、私はお前を気に入っていたよ。お前が了承りょうしょうしてくれるのなら、後妻ごさいとしてもいいと思ったくらいだ。しかしな、もう以前の我が家ではないのだ」

「そ……そ、それでは、どうしても……」


 フィルフィナの皮膚が、肉が骨が、心がこごえ震える。ただ、目だけが焼けるように熱かった。


「この小切手こぎっての額は、私からのびの気持ちだ。お前にはすまないと思う。だからな、フィル。リルルと会うのも、やめてくれ。お前をこの屋敷から出すのはむしろ、そのことが第一義なのだ。私はエルフを差別しない。お前が優れた人物だと評価する。しかしな、世間はそう思わんのだ」


 フィルフィナはこの場で、自分の耳を引きちぎりたくなった。この耳がリルルとのきずなを断ち切るというのなら、こんなものは邪魔だった。


「お前の退去たいきょは一晩待つ。明日の日没にちぼつまでにはこの屋敷を引き払い、二度と立ち入ることは許さん。……フィル、本当にすまない。そしてありがとう」

「……だ……旦那様……」


 体を折りたたんだまま動かないフィルフィナを前にし、その脇をすり抜けることさえ不憫ふびんと思ったのか、告げるべきことは告げたログトは屋敷の中には入らず、門の方に体をひるがえした。


 あとには、曇り空の早朝の光の中で身を伏せ続けるフィルフィナの小さな姿だけが、取り残された。



   ◇   ◇   ◇



 霧雨きりさめのような弱い雨が降り出し、それが体を湿しめらせ冷たくらし始めたころに、蒼白そうはくのフィルフィナはようやく顔を上げた。

 いうことを正確に聞いてくれない体を立ち上がらせようとして、幾度いくどか失敗する。二歳の赤ん坊の方がまだ上手かったかも知れない。


「く……う、う、う…………」


 なんとか二本の脚で立つことに成功し、玄関の柱や扉に手を伝わせて体を移動させた。明日の日没には退去しないといけない――荷物をまとめるには十分過ぎるが、思い出を整理するには足りるはずのない時間だった。


 ふらつきながら、玄関大広間に入る。

 正面に見えるは二階へ上がる階段、右にはリルルの部屋や台所に浴室、便所。左は応接室にログトの私室――二階はほとんど使っていない。こもった空気を入れえ、積もったホコリを掃除するために上がるくらいしかない。


 これまでの十年と半年以上、当たり前のように見てきた、見るという意識さえなく目にしていた景色の全てが、まるで別次元のものとしてフィルフィナの目にうつった。幼いリルルに初めてこの屋敷に連れてこられた時の感覚が想起そうきされた。


「……のどかわきましたね……」


 温かいお茶でも飲もう、と台所に足が向く。

 そんなフィルフィナの脇をひとつの影――幻影げんえいが前からけ抜け後ろに通り過ぎていった気配に、フィルフィナは足を止めて振り返った。


『フィル――っ!』


 フィルフィナにしか見えないまぼろしのリルル――幼すぎるリルルが、タッ、と立ち止まってフィルフィナの方を向く。


「あ…………!」


 見開かれたフィルフィナの瞳の奥で、また熱い涙がいた。

 ――そして。


『なんですか、お嬢様。フィルは今忙しいのです。遊ぶならあとで……』

「ああ……」


 フィルフィナはその場に見ていた。まだ七歳にはなっていないだろうリルルを追うようにして現れた自分・・を。

 面倒だという感情を少しも隠さず、重たそうな表情で幻想げんそう自分・・が、ゆっくりと現実の自分の脇を歩いて行く。


『そんなこといって、フィルは私となかなか遊んでくれないだもん。ね、かくれんぼ、かくれんぼしよ!』

『かくれんぼなら、ニコルちゃまとすればいいではないですか』

『ソフィアのママが来なくなってから、ニコルもなかなか来てくれないもん。昔はきるほどかくれんぼしたのに。私、嬉しいの。フィルが来てくれてからとっても楽しい』

『わたしは働くためにいるんであって、お嬢様の遊び相手のためにいるわけでは……』

『いいのいいの。これも仕事のうち。じゃあフィル、二十数えてね』

『ああ、やっぱりわたしがおになのですか。もう、めんどうくさい』


 自分・・が壁に額をつける。大きな声で数を数え出したと同時に、にんまりと笑ったリルルがぱたぱたと足音を立てて階段を上っていった。二階にかくれると宣言せんげんしているように。

 ゆっくりと二十を数え終え、自分・・が壁から顔を離した。


『いいことを考えました。このまま探さずに家事を続けてしまいましょう。邪魔じゃまも入らずに一石二鳥。ふふふ、やはりわたしはかしこいエルフですね』


 自分・・は来た廊下ろうかを戻り、鼻歌を歌いながら洗濯場せんたくばに戻っていく。今とほとんど変わらない自分の後ろ姿――それをフィルフィナは涙ぐむ目で見送りながら、震える口元にぎこちない笑みを浮かべた。


「ダメではないですか……お嬢様をちゃんと探してあげないと……悪いメイドですね……」


 目元をにじませ、焼き、少し切れ長さを思わせる目からあふれ出しそうになった涙をフィルフィナはメイド服のそでぬぐい、前を見た。今しがたまでいたはずの自分・・は、消えていた。



   ◇   ◇   ◇



 フィルフィナは、自室としているメイド部屋に入った。窓のない部屋は、扉を閉じてしまえば夜と全く変わらぬ真の闇になる。メイドたちの中でもいちばんの新入りに回される、いちばんせまくいちばん居心地いごこちの悪い部屋。フィルフィナが十年以上、寝起きしてきた部屋だ。


 すう、と音を立て、鼻から肺いっぱいに空気を吸い込む。どれだけ掃除しても取り切れない微かなかび臭さ、それがフィルフィナの鼻を刺激する。が、それもフィルフィナの愛する匂いだった。

 ここよりいいメイド部屋はいくつもあるが、隣がリルルの寝室という位置が少女フィルフィナしばりつける。


 壁越しに気配として伝わるリルルの寝息、それを感じながら眠れるこの部屋は、フィルフィナが恋いがれてやまない部屋なのだ。それにここは、人間の襲撃しゅうげきを受けて焼かれたさとから王都に逃れてきたフィルフィナが、よごれて死にかけているところをリルルに救われ、初めて通された部屋だった。


 狭い寝台、狭い物書きづくえ、小さな箪笥タンス――それだけの部屋。

 廊下に繋がる扉を開けたまま、フィルフィナは寝台に腰掛けた。みしり、と耳に馴染なじんだ音が鳴る。廊下からの薄い光が入ってくるだけの部屋で、エルフの少女は想いに暮れた。

 うつむいているだけで、脳裏のうりにいくつもの情景が、あわあかりをともなってよみがえってくる。


 六歳のリルルが、七歳のリルルが、八歳と九歳と十歳の――そして十六歳にいたるまでのリルルが、それぞれのリルルの背丈せたけで、表情で、どの時代も変わらない自分フィルフィナと手をつないで歩いていた。


 それは、十七歳でも、十八歳でも、十九歳でも二十歳でも――ふたりのどちらかの息がまるまで、ずっとそうだと信じていた。

 たとえリルルが他の家に嫁に行ったとしても、きずなはきっと繋がっている。自分がこの屋敷にいる限り、リルルと自分は家族なのだ。


 血は繋がらず、種族さえちがっても、心は常に隣り合う。ほおと頬をつけて温め合う、温め合える。

 信じた。信じていた。

 ――今朝の、あの瞬間までは、


「お嬢様……」


 フィルフィナは膝を抱えた。膝を抱えた腕に目を押しつけて、泣いた。


「フィルは……フィルは、弱くなりました……。里にいた時まではこの弱さを知らなかったのに、戦士として生きられたのに、お嬢様に触れたから、フィルは弱くなったのです……。フィルをこんなに弱くしたのは、お嬢様です。なのにどうして、お嬢様は責任を取ってはくださらないのですか……」


 考えなくてはならない、これからのことを。やらなければならないことは文字通り山のようにある。重騎兵に連れさらわれたニコルが最後に言い残したことも実行しなければならない。寝台の布団を、いつまでもおしりで温めているわけにはいかないのだ。


 それでもフィルフィナは動けなかった。今まで当たり前のように着れていた温かい上着、それをいきなり引きがされ、外界に放り出されるのに似たせつなさが、フィルフィナの心をめ上げていた。


さびしい……お嬢様……リルルお嬢様……リルル……」


 人はあらゆる痛みや苦難に耐えるが、たったひとつだけえられないものがある。

 それは孤独こどくから来る寂しさである、ということを、フィルフィナは知った。いや、再確認した。

 王都の貧民街ひんみんがい軒下のきした、ゴミの山にまぎれて倒れ、汚れ、雨にえていた時に知った、あの認識を。

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