第六部「史上最大の婚約」
プロローグ
「家なき子」
「今日限りでお前を
「――――――――」
フィルフィナの
ログトが背を向け、屋敷の中に入っていくのをフィルフィナは、すぐには追えなかった。
小さな体が冬の初めの風に吹きさらされ、メイド服が大きく音を立ててはためく。少女の体温が指の先まで失われていく中、アメジスト色の瞳だけが
「だ……だ、
小さな
「解雇は、解雇だけはお許しください! 旦那様、フィルはこの屋敷にいとうございます! 給料なぞ
エルフとしての誇りもなにも投げ捨てた
ログトはそんなメイドに、
「お嬢様が王家に
膝に突き刺さる砂利の冷たさも痛さも今のフィルフィナにはなんでもない。死守しなければならぬ。この望みを
「フィル――」
ログトがフィルフィナの前で、膝を折る。これ以上小さくできない体を震わせて
「私はな、お前が世界でいちばん有能なメイドであることを知っている。リルルと最も心を通い合わせている友だということも、知っている。だがな、今回の解雇はそんなこととは関係ないんだ。
「そ……それは……」
フィルフィナにはわかっていた。わかっていたからこそ、口にするのが恐ろしかった。
それは、どうにもできるものではなかったことだから、だ。
「わ……わたしが、わたしが、エルフだから、ということですか……」
「そうだ」
視界の完全な外でログトが優しく
「当家はこれより、王家の
「そ……そ、それでは、どうしても……」
フィルフィナの皮膚が、肉が骨が、心が
「この
フィルフィナはこの場で、自分の耳を引きちぎりたくなった。この耳がリルルとの
「お前の
「……だ……旦那様……」
体を折りたたんだまま動かないフィルフィナを前にし、その脇をすり抜けることさえ
あとには、曇り空の早朝の光の中で身を伏せ続けるフィルフィナの小さな姿だけが、取り残された。
◇ ◇ ◇
いうことを正確に聞いてくれない体を立ち上がらせようとして、
「く……う、う、う…………」
なんとか二本の脚で立つことに成功し、玄関の柱や扉に手を伝わせて体を移動させた。明日の日没には退去しないといけない――荷物をまとめるには十分過ぎるが、思い出を整理するには足りるはずのない時間だった。
ふらつきながら、玄関大広間に入る。
正面に見えるは二階へ上がる階段、右にはリルルの部屋や台所に浴室、便所。左は応接室にログトの私室――二階はほとんど使っていない。こもった空気を入れ
これまでの十年と半年以上、当たり前のように見てきた、見るという意識さえなく目にしていた景色の全てが、まるで別次元のものとしてフィルフィナの目に
「……
温かいお茶でも飲もう、と台所に足が向く。
そんなフィルフィナの脇をひとつの影――
『フィル――っ!』
フィルフィナにしか見えない
「あ…………!」
見開かれたフィルフィナの瞳の奥で、また熱い涙が
――そして。
『なんですか、お嬢様。フィルは今忙しいのです。遊ぶならあとで……』
「ああ……」
フィルフィナはその場に見ていた。まだ七歳にはなっていないだろうリルルを追うようにして現れた
面倒だという感情を少しも隠さず、重たそうな表情で
『そんなこといって、フィルは私となかなか遊んでくれないだもん。ね、かくれんぼ、かくれんぼしよ!』
『かくれんぼなら、ニコルちゃまとすればいいではないですか』
『ソフィアのママが来なくなってから、ニコルもなかなか来てくれないもん。昔は
『わたしは働くためにいるんであって、お嬢様の遊び相手のためにいるわけでは……』
『いいのいいの。これも仕事のうち。じゃあフィル、二十数えてね』
『ああ、やっぱりわたしが
ゆっくりと二十を数え終え、
『いいことを考えました。このまま探さずに家事を続けてしまいましょう。
「ダメではないですか……お嬢様をちゃんと探してあげないと……悪いメイドですね……」
目元をにじませ、焼き、少し切れ長さを思わせる目からあふれ出しそうになった涙をフィルフィナはメイド服の
◇ ◇ ◇
フィルフィナは、自室としているメイド部屋に入った。窓のない部屋は、扉を閉じてしまえば夜と全く変わらぬ真の闇になる。メイドたちの中でもいちばんの新入りに回される、いちばん
すう、と音を立て、鼻から肺いっぱいに空気を吸い込む。どれだけ掃除しても取り切れない微かなかび臭さ、それがフィルフィナの鼻を刺激する。が、それもフィルフィナの愛する匂いだった。
ここよりいいメイド部屋はいくつもあるが、隣がリルルの寝室という位置が
壁越しに気配として伝わるリルルの寝息、それを感じながら眠れるこの部屋は、フィルフィナが恋い
狭い寝台、狭い物書き
廊下に繋がる扉を開けたまま、フィルフィナは寝台に腰掛けた。みしり、と耳に
うつむいているだけで、
六歳のリルルが、七歳のリルルが、八歳と九歳と十歳の――そして十六歳に
それは、十七歳でも、十八歳でも、十九歳でも二十歳でも――ふたりのどちらかの息が
たとえリルルが他の家に嫁に行ったとしても、
血は繋がらず、種族さえ
信じた。信じていた。
――今朝の、あの瞬間までは、
「お嬢様……」
フィルフィナは膝を抱えた。膝を抱えた腕に目を押しつけて、泣いた。
「フィルは……フィルは、弱くなりました……。里にいた時まではこの弱さを知らなかったのに、戦士として生きられたのに、お嬢様に触れたから、フィルは弱くなったのです……。フィルをこんなに弱くしたのは、お嬢様です。なのにどうして、お嬢様は責任を取ってはくださらないのですか……」
考えなくてはならない、これからのことを。やらなければならないことは文字通り山のようにある。重騎兵に連れさらわれたニコルが最後に言い残したことも実行しなければならない。寝台の布団を、いつまでもおしりで温めているわけにはいかないのだ。
それでもフィルフィナは動けなかった。今まで当たり前のように着れていた温かい上着、それをいきなり引き
「
人はあらゆる痛みや苦難に耐えるが、たったひとつだけ
それは
王都の
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