「幻想将棋に運命は賭けられる」

 三分前に送り出した花嫁・・が帰ってくるのを、フェレスは昇降機エレベータ百二十階の扉の前で待っていた。


 帰って来るか来ないか、それについては不安はない。二人の令嬢はとらわれ人の格好・・に夢中で、それを取り返そうという発想も起きなかったようだし、そもそも異世界の産物の金属でできた格子こうしは、あらゆる物理的な破壊を退しりぞけるはずだった。


 閉じられた扉の向こうでヒュウウ、となにかが上がってくる音がして、拍子ひょうし抜けするほどに軽い鐘の音がひとつ鳴る。

 一拍いっぱくの間を置いて左右に合わされてた扉がひとりでに開き、オリの中に閉じ込められた一人の可憐かれんな少年の花嫁が、白目をいて倒れ――ようとして、つながれた手錠てじょうくさりで支えられているのが見えた。


 檻の格子が上下に分かれて収納され、手首の手錠がそれの引っかかりを失い、花嫁の体が全くの受け身なしで背中から倒れる。フェレスが指を鳴らすと少年の両手をいましめていた手錠が勝手に外れ、昇降機の床に転がった。


「おやおや、酸欠になってるじゃないか。サフィーナ嬢もなかなか情熱的なキスをしてくれるね。ニコルくんが風船だったら今頃全部しぼんでるよ」

「マスター、ニコル様をお運びします」


 フェレスの後ろにひかえていたロシュが、軽く頭を下げていった。


「いや、ボクが運ぼう。こんな美しく可愛い花嫁な少年をお姫様抱っこで運ぶ。いいねぇ、これだから世界というものは、面白くてきない」

「マスター、ロシュがニコル様をお運びします」

「そういう時は自分が運びたいといわなければダメだよ、ロシュ。あとで抱き上げさせてあげるから、ここは主人にゆずりたまえ」

「マスター、ニコル様に人工呼吸をほどこしてよろしいでしょうか」

「呼吸は止まってないじゃないか。とても不規則だけど」


 ニコルの体が断続的に床の上で震えている。


心拍しんぱくも非常に乱れています。救命行為のよう有りと判断します」

「本当に必要かい? キミがニコルくんに口づけしたいだけじゃないのかい?」

「ニコル様、ただいまお助けいたします」


 それ以上の主人の声を振り切り、ロシュは気を失っているニコルの側にひざを着いた。体内全ての狂いを必死に直そうと、くちびると胸を激しく震わせているニコルの顔におおかぶさる。


「白雪姫じゃあるまいし。しかし、これは本気でやられちゃってるね。用心が必要かな」


 フェレスは上着の右ポケットの中をまさぐり、固い感触があるのを確かめた。



   ◇   ◇   ◇



 扉が開き、ウェディングドレス姿の少年の背と膝に腕を通して抱えたフェレスの姿がその向こうに現れる。ロシュを従えて広い自室の空間を歩き、ソファーの上に花嫁の体を横たえた。


「もう少し人工呼吸を」

過呼吸かこきゅうになるだろう。それこそニコルくんが死んじゃうじゃないか」

「息を吹き込まなければ問題ありません」

「それは、人工呼吸とはいわないのじゃないのかい?」


 フェレスの理屈りくつを突破できなかったロシュはなにかしら考えているようだったが、あきらめてニコルの体を両腕で抱きかかえた。


「うーん……サフィーナ様、やめてください……ロシュ、そんなに唇をめないで……むにゃ……」

「ニコル様、私はロシュです。お目覚めください」

「ううう……リルル、ごめん、またサフィネルにキスをされてしまった……あれ?」


 長いまつげがばされ、いつもより少女の印象が濃くされているニコルの目が震え、開いた。


「ロシュ……?」


 水色の瞳の中で、機会生命体の表情の色にとぼしい少女の顔が、波にきざまれながら泳いでいた。


「はい、ロシュはロシュです。ニコル様、ご体調の自覚はいかがですか」

「……夢の中で、馬のロシュに唇を舐められていたんだけど、ひょっとして」

「はい、ロシュはニコル様の唇にロシュの唇を接触させました。それが意識の中で映像化されたのだと予測します」

「ダメじゃないか! ……相手の了解を得ずに、そんなことをするなんて!」

「人工呼吸です。救命行為です。ニコル様は意識を失っておられました――了解を得るのは不可能です。それにロシュが唇を接触せっしょくさせるのは、そんなに嫌悪けんおしなければならないことですか?」

「う、ううん、いや、ロシュみたいな可愛い子にキスされるのは嬉しいよ。嬉しいんだけれど……」


 ニコルはきびしい表情を作って押しだまった。ほんのりと薄化粧された頬に羞恥しゅうちに焼かれて浮かぶリンゴの色が、それを完全に台無しにしていたが。


「というか、なんでロシュが僕を抱き上げてるの! 恥ずかしいから早く降ろして!」

「わかりました、ニコル様」

「いやあ、なかなか面白いものを見させてもらったよ。すごかったねぇサフィーナ嬢は」

「面白いもの、じゃありません! ――こんな格好をリルルやサフィーナ様の前にさらすとか! なんてことをするんですかあなたは!」


 ニコルの口からき出される怒声どせいの嵐を、フェレスが春のそよ風のように受け流した。


「大好評だったじゃないか。サフィーナ嬢なんか、キミが行く直前には気力がきて、試合放棄していたんだよ。死の覚悟を決めて、リルル嬢に自分を見捨てさせていたほどだ。それがキミの花嫁姿で気力全開の大復活。敵に塩を送っちゃったかな、これは」

「……塩?」

「ああ、こっちではそういう言い回しはしないか。ま、それはいいとして――脱落寸前だったサフィーナ嬢が、今じゃリルル嬢を引きずってる。いやはや、恋の力とはすごいものだね」

「ぐ――――」


 ニコルが数十の感情を読み取れる複雑極まる表情を浮かべ、喉からあふれ出そうなものを必死にとどめながら、歯を食いしばった。


「ま、キミにそんな格好をさせたいという欲求に負けて、とてもずかしい思いをさせたことは謝るよ。許してくれ。その代わりといっちゃなんだが、キミがここに来た願いを聞こう。遊戯ゲーム規則ルール抵触ていしょくしない程度の願いをボクに届けに来たんだろう?」

「その前に、この格好をやめさせてもらっていいですか!? ――せめて、下着だけでも返して下さい!」

「それはつつしんで拒否きょひするね」



   ◇   ◇   ◇



「ふむ、将棋チェスかい」

「テーブルの上の将棋盤、僕が見慣みなれているものです。コマは勇者、戦士、騎士、竜騎士、神官、魔術師、盗賊――」


 ソファーに座ったニコルとフェレスは、自分たちの間にあるひとつの遊戯盤に視線をそそいでいた。

 十一マス四方の盤面。そのはし二行に置かれている十八個の駒が二組、合計三十六個が列を作っている。


「そしてこちら側が魔王、竜人、ケンタウロス、ドラゴン、白魔導士、黒魔導士、ゴブリンだ。規則ルールを確認しようかな」


 二人は駒の動き、特性、駒を取られ取った場合の決まりを確認し合った。


「僕が知っている将棋と全く同じですね。こういうのはどこの世界でも似るんでしょうか」

「偶然だろう。ボクがこれを手に入れた世界でも地域によって様々ちがう。それで? これはけ将棋ということかい?」

「ええ」

「なにを賭けるんだい?」

「――二人の令嬢たちの運命を」


 ぎ上げられたやいばよりも鋭い眼差まなざしで、ニコルはいいきった。

 それを受けて、フェレスが嬉しそうに微笑びしょうする。


「ニコルくん。キミが熱意とたましいを込めて口にする言葉は、いちいち胸に響くよ。キミがうるわしい花嫁姿のままでなければね」

「なら、これをがさせてください!」

「それを脱ぐなんてとんでもない。まあいい、話を聞こう」


 きばきかけたニコルはソファーから立ち上がろうとしたが、うなりながら座り直した。


「……リルルとサフィーナ様は今、九十七階に上がったところのようです」


 テーブルの表面に、庭師の塔の概略図がいりゃくずが浮かび上がった。九十七階から最上階の百二十階までが表示され、同時に残り時間もえられている――残り、四時間五十九分。


「二人はあと二十二階を上らなければならない。一階にかけられる時間は十三分と少し。ですが、その調子ペースでは時間がらない。二人の速度が遅くなることはあれ、これから速まるとは思えません」

「まあ、現実的で妥当だとうな判断だね。今この時点で時間内に目標地点、百十九階まで上がるのはギリギリだ。冷静に考えれば、到達する可能性は限りなく低いだろう」

「ですから、賭けをいどみたいのです。――ここ、百六階」


 ニコルはテーブルの上、一点に指を置いた。


「今から一局いっきょく、あなたに将棋の勝負を挑みます。もしも僕が勝ったら、二人をこの百六階から十階上、百十六階まで昇降機で上げて下さい」

「ふむ。なら所要時間はほぼ半分になるね。体力の限界に近づきつつある二人がここまで到達するのに、いくらか現実味が生まれてくるだろう。――しかしニコルくん、ひとつ忘れてはしないかな」

「なにをです?」

「この勝負、ボクが受けなければいけない理由はないんだよ」


 フェレスが笑う。天使画に描かれている表情そのままの無垢むくさで。


「いってしまえば、ボクの勝ちはなかば確定だ。ここでキミの挑戦を断ることで勝てる。――その上でキミの挑戦を受ける必要がどこにあるというんだい?」

「必要はあると思います」

「聞かせてもらおう」

「この塔における遊戯を、時間切れなんていう幕切れですませて、あなたは満足なんですか?」


 フェレスの目から笑いが消える。静かに挑みかかる少年の顔が瞳に投影されていた。


「あなたは勝利を求めている。しかしそれ以上に、勝負の中で面白さを求めているのではないのですか? つまらない勝ち方なんてあなたがいちばん嫌うところでしょう」

「――面白いね。まだいうことがあるかな?」

「この百十八階」


 最終地点のひとつ下の階層にニコルの指が動く。


「あなたはここに、びっくりするような仕掛けを置いているのではないですか?」

「ふむ、当たってるね。しかし、どうしてそれがわかったんだい?」

「それはまたあとでお教えします。それで、この挑戦を受けてもらえるのでしょうか?」

「ニコルくん、勝負というものは対等でなければならないよ」

「わかっています。――僕が負けたら、二人を百六階から十階分、九十六階に落としてください」


 みがき上げられた鏡のように光るニコルの瞳が、フェレスの顔を真正面から映す。

 その自分の顔に笑いかけるかのごとく、フェレスが本当に満足げに微笑ほほえんだ。まるで、世界を創り上げた直後の神の微笑で。


「ふふふ! キミにその意味が理解されていないとは思わないね! 二人の令嬢の運命か――いや、逆にいえばキミとエルフたちの運命ということになるな! 負ければエルフたちはと化したまま息絶いきたえ、キミは二度と愛しの少女たちに会えない! それを承知しょうちでボクに勝負を挑むというのだね!」

「はい」

「面白い、実に面白い! 賭けるものが大きい勝負ほど面白いものはないよ! よーし、その挑戦を受けよう! ロシュ、キミはこの勝負の立会人だ。双方に不正がないかどうか確認してくれたまえ!」

「了解いたしました、マスター」

「では私は魔王側を担当させてもらおうかな。一応悪者の自覚はあるんでね」


 嬉々ききとしてフェレスが盤を反転させた。魔王以下の怪物たちがその麾下きかそろう。


「ニコルくん。キミは愛する者の運命を背負せおってボクを討ち果たしてくれたまえ。キミの健闘に期待しているよ。しかしその前にひとつ、ボクはキミにいっておきたいことがある」

「なんでしょうか」

「ボクは強いよ」


 軽い笑いが転がる。


「大昔だが、ボクは五百人を数える組織の中にいた。その五百人と将棋で散々さんざん勝負をしたが、敗北したことはただの一度もないんだよ。『不敗のマスター』。それがボクが愛する二つ名さ」


 フェレスの指が自分の正面にある魔王の駒を小さくつついた。山羊ヤギの角を生やし、肩から蝙蝠コウモリの翼を広げ長い杖を突いている魔王が、フェレスに背中を向けていた。


「ああ、キミが敗北した時のご褒美ほうびをもうひとつ追加させていただこう。キミがその格好で一夜、寝台の上でボクのいいなりになること。キミが勝ったらボクをいいなりにしていいよ」

「別に僕はりません」

「じゃあ、運命の一局を始めさせていただこうか。先手はボクがさせてもらうよ――定石じょうせき中の定石、魔王の前の竜人、一歩前に」


 竜の頭を持ち、革鎧かわよろいに身を固めたやりの戦士が一マス、前進した。

 それぞれの運命と思惑おもわくの糸で織り上げられた一枚の絨毯じゅうたんのように重い勝負は、こうして開始された。

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