「ニコルとロシュ」

「ロ……ロシュ、どうしたの? まだ、その、顔が熱っぽいようだけど」


 奥手おくてにぶいニコルといえど、小さな息の熱さが触れるほどに顔を寄せてくる美少女に真正面から見つめられ、なにも反応しないはずがない。緊張きんちょうが心臓の拍動はくどうを振動でわかるくらいに早め、ニコルの顔や脳、その他の色々な・・・箇所かしょに、熱い血を供給した。


「自律維持プログラムにエラーはありません。冷却系統は正常に稼働中。現在、皮膚の表面温度は人間の平均平熱より三度高い――制限枠せいげんわくいっぱいではありますが、許容範囲内きょようはんいないです」

「平熱より三度高いって、そんなの風邪かぜを引かないとそこまで上がらないけれど――うわぁ」


 両腕をつかまれたままニコルが少女に体重をかけられ、少年の背中がソファーの背もたれをこすりながら座面に倒れた。つかまれている両腕を動かそうとするがびくともしない。まるで機械にらえられているようだとニコルは思ったが、実際そうであることを思い出した。


「ロ、ロ、ロシュ、ちょっと、これは」


 ニコルの顔に影が差す。天井の照明をさえぎってロシュの上体がニコルの視界いっぱいに広がっていた。彼女の白いはずのほおがリンゴよりも赤くまっている――それがニコルの頭に危険信号を送った時には、少女の腰とひざがニコルの腹にまたがっていた。


 ニコルが身をよじるが、手首と胴体は完全に押さえられ、微動びどうだにしなかった。


「ロシュ、その、あの、ごめん、ど、退いてほしいんだけど」

「ニコル様、ロシュはニコル様の情報をもっと把握はあくしたいです」

「はい?」

「ニコル様の心理情報は取得、分析ぶんせき処理しました。あとはニコル様の身体情報を取得させてください」

「どういうこと?」

「ニコル様の服を着ていない形状情報を取得したいです」

「待って!」


 ロシュは待ってはくれなかった。

 荒くかれる息の熱さは、明らかに冷却処理が追いついていない。顔から色が引いたニコルのシャツの襟首えりくびに少女の両手がかかると、まるで薄い紙を引き裂くようにその手が開き、本当に気持ちいいくらいに調子良く、シャツのボタンが順番に最後まで弾け飛んだ。


「うわあああ!」

「――下に肌着を確認。障害物しょうがいぶつです、邪魔じゃまです、破ります」

「待って――本当に待って! お願いだから――ひゃあっ!」


 丈夫に縫製ほうせいされているはずの綿の肌着が、薄紙のように引き裂かれた。

 今度こそ、なににも隠されていないニコルの上半身が空気にさらされる。首筋から優美ゆうびに流れる鎖骨さこつの形、薄いが確かにある胸筋きょうきんと、最低限の脂肪しぼうしかついていない白いお腹――。


「はぁ…………」


 その全ての色と輪郭りんかくにロシュが目をわせる。自分でも制御できていない息がひとつき出され、そのかすかに甘いにおいが、再びロシュに両腕を拘束こうそくされたニコルの神経をくすぐった。


「現在、身体形状の視覚情報を取得中……とても均整バランスが取れている胸部と腹部の形状です……表現語句を検索中…………美しい、そう、とても・・・美しい……」

「ロ、ロシュ、いたずらは、悪ふざけはもう、ここまでで。フィルだって、さすがにここでやめてくれるよ。だからロシュ、僕の体から退いて――」

「ニコル様、ロシュには『いたずら』や『悪ふざけ』というコマンドは存在しません」


 その言葉の三割ほどはニコルにはわからなかったが、いいたいことの趣旨しゅしはわかった。


「ニコル様、さらに深い階層に接触をいたします。よろしいですね」

「ダメだってば!」

「ロシュには自分を自律制御できません。いえ、新しく構築されたクラスタがロシュを制御しているようです。なんなのでしょうこのクラスタの稼働は。ニコル様、今からズボンをがします」

「なんでそれとズボンを、脱がすのが関係あるの!?」

「ニコル様の服を着ていない姿を確認したいと申し上げました。それが実行されれば、この新しいクラスタの機能がわかるかも知れません。ニコル様、どうか抵抗をおやめください。行動に支障ししょうが出ています」

「うあ」


 ニコルの首筋にロシュの人差し指が触れた瞬間、そこから短いが弱くない電流の波が送られてニコルの体が一度、大きくねた。ロシュの手をけようとしていた腕にも力が入らなくなる。


「う……うご、うごけ、動けない……!?」


 首から下の感覚がなくなる。まるで、自分が頭だけの生き物になったような――。


「ニコル様の体臭を検知しました。採取中……比較ひかくサンプルのデータがないので詳細な分析不可能……ですが、もっと検知、採取、分析したくなります……ニコル様、ロシュにニコル様をもっと分析させてください。ニコル様の体の全てを分析したいです――失礼します」


 がっ、とロシュの手がニコルのズボンにかかった。ベルトを外そうという発想がないのか、そのまま強引にずり降ろそうとし、ベルトが骨盤こつばんにぶつかり引っかかって、少年の体を揺らす。ニコルはうめき、頭の中がしんから冷えていくような感覚に、その顔をゆがめさせた。


「や――やめて……ロシュ……」


 音色が変わったニコルの声に、ロシュの手が止まった。

 視線が上を向いて少年の顔に焦点しょうてんが合わされ、その目のはしから涙のかわを流しているのを、オレンジ色の瞳がとらえる。機械の少女の中で、少年が震えながら細い声を上げていた。


「それ以上は、本当にダメだよ。それ以上されたら、僕はロシュを嫌いになるしかなくなる……」


 嫌い、という音がロシュの聴覚に刺さった。

 それが言葉として人工頭脳に伝達され、少女の形をした機械は顔をそむけている少年を見つめながら意味を解析する。


 数秒の間を要して出力された結果に、ロシュの目が開いた。頬の赤みが吸い込まれるように消えた。


「ニ――ニコルさまっ!」


 バネ仕掛けのようにロシュがニコルから飛び退いた。突然のいさぎよすぎる反応に、ニコルがおどろくほどだった。


「ニコル様の、涙を検知しました。表情と声から判断すると、ニコル様に『悲しい』という感情を持たせたと認識します。ニコル様を『悲しく』させた原因は、このロシュです。ニコル様の心を悲しくさせるなど、ロシュはロシュ失格です。ロシュと呼んでもらう価値を認識しません」


 ロシュがメイド服のポケットに手を突っ込む。ニコルの頭に嫌な予感――いや、確信に近いものが突き刺さった。


「ニコル様、ロシュは、ニコル様に涙を流させた原因を破壊します」

「待って!」


 案の定現れた拳銃――形状からしておそらくは――の銃口が少女の側頭部に当てられたのを、全身の筋肉を振り絞るようにして体を跳ねさせたニコルがもぎ取った。引き金トリガーが引きしぼられる前に少女の手からそれは離れ、ニコルは勢いのままに体を床に投げ出した。


「あ――あぶ、危ないなぁ……! なんてことをするんだ、ロシュ! 自分で自分を撃とうとするなんて! しかもなんの躊躇ためらいもなく!」


 まだよくは動かない体、ソファーから少女に飛びかかられたのが奇跡だと思える状態でニコルは拳銃を抱え込んだ。

 ロシュはその場で停止している――うつむいているためか、表情のない顔に濃い影が差しているようにニコルには見えた。


「もう、二度とこんなことをしてはいけないよ! お願い――いや、命令だ! ロシュ、僕の命令にしたがうんだ! わかったね!」

「――――ロシュは、ニコル様の命令に従います。もう、二度とこんなことはしません。わかりました」

「じゃあ、この拳銃を返しても大丈夫かい?」

「大丈夫です、ニコル様。ロシュは命令にそむきません」


 ニコルは一拍いっぱくの間を置いて考えたが、銃身をつかんだ拳銃をロシュに手渡した。ロシュはそれを素直にポケットにしまい――しまいながら、ニコルに聞いていた。


「――ニコル様、ロシュの自壊じかいをニコル様が阻止そしした理由が、ロシュには理解できません。ロシュはニコル様の監視役です。ロシュが行動不能になれば、ニコル様は脱出の可能性が増える。ニコル様は、ここからの脱出を望んではいないのですか?」

「ここから出たいけれど、そうしたら助かるのは僕の命だけだ。フィルやウィルウィナ様たちは、樹から元に戻してもらえないよ」


 いてて、とうめきながらニコルはソファーににじり寄って体を乗せた。


「……それに、僕は」

「ニコル様?」

「――僕は、夢の中で別れをげに現れてくれたロシュネールと同じ顔をした君の頭が、目の前で吹き飛ぶところなんて、見たくないんだ」


 今まで一度もまばたかなかったロシュの目が、瞬いた。


「僕の勝手な感傷かんしょうだけれど……」

「……ニコル様」

「君と僕の知っているロシュが……僕が夢で見たロシュがそっくりなんて、ただの偶然ぐうぜんなのにね。いや、もしかしたら、ちがうのかも知れない。僕がそう思い込んでいるだけなのかも。なら……」

「……ニコル様、ロシュは認識しています。あなたの記憶にあるロシュネールが、あなたの記憶の中で重要なプライオリティに位置していることを。私はあなたにロシュと呼ばれることを希望します。可能ならば、ロシュはロシュネールと同じプライオリティに……」

「……ごめん、プライオリティって、なに?」

「重要度、優先度という意味です。ニコル様、ロシュをロシュネールのように認識してください。ロシュは、ニコル様にそうされると……この新しいクラスタが、とても良好に稼働するだろうと予測します……」


 ぺたんと床におしりを落とし、うったえかけるように話すロシュの姿に、ニコルは心臓を裏側からくすぐられる感触を覚えた。ぽぉ、と頭に熱が上がるのを、あわてて振り払う。


「……ロ、ロシュはよくわからない言葉をポンポンと出すね。異世界で作られたっていうのは本当なんだ……まあ、それが本当でもうそでも、あまり変わりはしないんだけど」

「ニコル様。ロシュはもう、決してニコル様を無理矢理に拘束したりはいたしません。必ずお約束いたします。ですから、どうか、ニコル様のひざにロシュの頭部を乗せてもよろしいでしょうか」

「僕の膝に?」

「――失礼します」


 膝でニコルの側ににじり寄ったロシュが、その頭をニコルの膝の上に乗せた。目を閉じ、少年の膝の形を確かめるようにロシュが顔を押しつける。その横顔の可愛さに、ニコルの心と体が反応した。


「――膝の感触を検知、ニコル様の体温を検出します。ニコル様の体臭も検出……新実装クラスタが活発に稼働します……分析できませんが、ロシュの体温が上がっているという誤情報がたくさん発生しています。センサーには反応していないのに……ニコル様も体温が上がっていますね……」

「う、うん、ちょ、ちょっとね……血流がよくなっているからかな、あははは……」

「ロシュはしばらくニコル様の情報を調査いたします。このままでお待ちください」

「う――うん」


 まるでニコルの膝枕ひざまくらに甘えるようにしてひとときの眠りを得ようとしている少女の頭を、ニコルは軽くでた。

 愛馬ロシュネールのたてがみを撫でた感触が心によみがえってきた。

 それと同時に、効いている空調が肌寒さを感じさせ、ニコルは震えた。そして改めて、自分の姿を確認した。


「……ね、肌着とシャツの替わり、あるかな」

「ご用意いたします。しばらく後に」

「……お願いするよ……」

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