「大事なものが刻まれる、そこ」

 ゴーダム公爵家騎士団に所属する紅一点の女騎士・アリーシャは不幸だった。

 いや、正確にいうならばあまり幸せではなかった、と表現するべきか。

 ため息は幸せを逃がすとよくいわれるが、止まらない。これが今晩何十回目のため息だったか、もう数えてもいなかった。


「はぁぁぁ……」


 王都の夜風は冷たい。太陽が落ちて温められずに冷えた内陸の風が勢いよく吹き付けてきて、女騎士の胸甲きょうこうをこれ以上もなく冷やしてくれた。

 体も寒いが、心も寒い。

 今晩は、夜が明けるまで門の前で寝ずの番だ。この深夜、急な訪問者がいるかも知れないし……。


「来るわけないだろ。みんなぐっすりだよ」


 空を見上げても星の数は少ない。この王都は夜でも明るい。そこかしこに街灯が明かりをともしているし、少し南に行けば真夜中でもさわがしい歓楽街が昼間のような明るさに包まれている。さすがにこの貴族の居住区にその賑わいはなかったが――その光が夜空の星を隠しているのか。


 内陸の街であるゴッデムガルドとこの王都エルカリナは、どこをとってもまるで違う性格の街だった。大通りくらいにしか街灯がないゴッデムガルドでは、陽が落ちて二時間もすればみな早々に寝てしまう。夜更かしという文化がないのだ。この街の人間は本当に睡眠時間が足りているのだろうか、アリーシャは心配になる。


 そんな街で徹夜をしなければならないのも不幸せだったし、わずかな期待を胸にゴーダム公爵一家に随行ずいこうしてこの街にやってきたのに、その望みが一度もかなっていないことも不幸せだった。


「ニコルに会えると思ったんだけどなぁ」


 二年の間、せきを置いたゴーダム公爵騎士団を脱退し、みながあまりうらやましがらない王都警備騎士団に入団したニコル。薄給はっきゅうでかっこ悪く、警察に少しはくがついたくらいのもの――どうしてわざわざそんなものに入らなければならないのか。ニコルが王都に帰るといい出した時、膝詰ひざづめで止めたものだ。


 それでもニコルの意思を変えることはできなかった。そのさびしさに心をえさせていた時に、公爵一家が王都に移住するという話が持ち上がり、随行する騎士としてアリーシャは名乗りを上げた。

 ここに来れば、もしかしたらニコルの顔が毎日見られるかも知れない。


 だが、結果的に望みはかなえられていなかった。ニコルの影を見ることすらできなかった。


「それで、ザージャスとかいう公爵家に脅迫きょうはくされて、誘拐ゆうかい同然に連れていかれるとか、どういうことなんだよ……。ああ、向こうの家とり合うことになればいいのに。真っ先に志願して、ニコルを救い出してやるんだけどなぁ」

「……アリーシャ先輩ですか?」

「ニコルが閉じ込められてる部屋からあたしが助け出してやるんだ。そうしたらニコルの奴、感激してあたしに抱きついてくるかも。奥様もいいよなぁ、いつもニコルを抱きしめられて。あたしも堂々とニコルを抱きしめたいよ」

「やっぱりアリーシャ先輩だ」

「ニコルの奴、本当に可愛いんだから。こっちにはおしゃれな喫茶店もあるんだから、ニコルと一緒にお茶でもしたいよ。でなきゃ、なんのためにここに来たのかわかんなくなる」

「アリーシャ先輩」

「そうそう、あいつに『先輩』って呼ばれるとこう胸がキュンと締め付けられるっていうか、切なくなるっていうか、すずしくなるっていうか、不思議な気持ちにさせられて――」

「アリーシャ先輩、お久しぶりです」

「ああ、ニコル、お久し――」


 通用門の鉄格子越しにこちらを見てくる少年の姿に、アリーシャの身も心も、瞬時に凍結とうけつした。


「……アリーシャ先輩?」

「ニコッ!」


 カンッ!

 鉄格子の存在を忘れてけ寄ろうとしたアリーシャが、当然のことながら格子こうしに額をしたたかに打ち付けた。


「だ、大丈夫ですか?」

「ううう……」


 頭蓋骨ずがいこつを通して響いた脳の震動がやむまで、たっぷり一分をようした。うずくまって眩暈めまいに耐えていたアリーシャが、頭を抱えながら立ち上がった。


「ニ……ニ、ニコルなのか? お前、ザージャスの家にとらわれてるんじゃなかったのか?」

「無事に出て来ました。――二ヶ月ぶりです。アリーシャ先輩もこっちに来てたんですね」

「あ……ああ、そ、そ、そうだよ! ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待て、今、鍵を……いや、中に入りたいんだよな?」

「ええ、父上とお母様に目通りを」


 いつもの数倍の余計な手間をかけて、アリーシャは通用門の鍵を開けた。


「あああ」

「アリーシャ先輩?」


 通用門をくぐったニコルに、力なくよろけたアリーシャがすがりついた。少年の肩にあごを乗せ、ごく自然をよそうって体にからみつきながら、小さな背中に腕を回した。


「すまん、足をくじいたみたいだ」

「頭を打っただけじゃなかったんですか?」

「……ちょっと前にくじいてたんだよ」


 ニコルがゴーダム騎士団に騎士見習いとして入って来た時は、アリーシャが剣の基礎きそを一から叩き込んだものだ。倒れたニコルに手を差しべて起こそうとするたびに、この少年をどんどん好きになったことをアリーシャは、大切な想い出として再生する。


「ニコル、すまないけど、このままあたしのつえになってくれ」

「大丈夫ですよ。アリーシャ先輩は詰所つめしょで休んでいてください。誰か呼んできます」

「あたしのいうとおりにしろ、先輩命令だぞ」

「はあ」


 釈然しゃくぜんとしないニコルの体に抱きついて、アリーシャは細心の注意を払いながら、さりげなくニコルの首筋に鼻を寄せた。稽古けいこの時によくいだ少年の汗の臭いが、うっすらとだが香ってくる。それが今夜のアリーシャを、ここ数ヶ月で最高に幸せにしてくれた。



   ◇   ◇   ◇



 通された無人の応接間でニコルは迷っていた。魔鉱石ではない、蝋燭ろうそくの炎で赤々とした明かりを投げかけているシャンデリア、その照明に照らされた部屋は広く立派な分、人がいない空虚くうきょさを少年の胸にせてくれた。


 ニコルは緊張していた。

 ゴーダム家の紋章をかたどった徽章きしょう――ゴーダム公爵から『我が息子』としての印としてさずけられ、決して外すなといわれていたそれを、やむを得ない理由があったとはいえ、自分は外してしまったのだ。心から父と慕う公爵の許しも得ないままに。


 仕方がなかった、ゴーダム公はわかってくれるはず。そう信じている。しかし、白紙にすみがほんのうっすらとにじんでくるような不安もある。

 自分は公を、父上を裏切ってしまった。それが父を失望させてはいないだろうか。父を失望させたくない。この世で父と呼べるのは、今はもう、公ただ一人なのだから――。


 ソファーに座って待つようにアリーシャにはすすめられたが、そこに座って待つ勇気がニコルにはなかった。自分が不遜ふそんには思われないか。しかしひざまずいて待つのもちがう。それは、自分から父との距離きょりを保つようで――。


「…………」


 結局、ニコルは立ったまま待つことにした。それ以外にいい方法が考えつかなかった。

 アリーシャは父を呼んで来ると出て行き、そこから数分の時間が経過している。十分ほど待ったか、父が来るのが遅い――そう思って壁時計を確認したが、分針は目盛めもりを二つ進んだだけだった。


 こんな深夜に訪問したのはやはり間違まちがいだったか。常識のない人間とは思われないか――一点の染みのようなはずだった不安が、次第に心を侵食してくる。

 ここを訪れたことは間違いだったか。やはり、謝罪の文を一筆いっぴつしたためてから来た方が――。


 動悸どうきが大きく早くなり、手の平と髪の間に汗がにじみ始めたころだった。

 扉越しの廊下ろうかに、早い調子の足音が響いてきたのは。


「ちちう――」


 バン! と大きな音を立てて応接間の扉が開かれ、反射的に振り向いたニコルは、息を飲む間もなく、視界の全てを羅紗ラシャのシャツに包まれた胸元にふさがれていた。


「ニコル!」


 太くたくましい腕が背中に回り、全力ではないかという力で引き寄せられる。

 少年の顔が厚い胸板に押しつけられ、見開いたまままばたきもできずにニコルは、力強く自分をめ上げてくる感触を全身に感じていた。


「よく――よく戻った! 我が息子・・・・よ!」


 ゴーダム公の弾むような快哉かいさいが耳を打った。その声の調子だけで、見えるはずもないゴーダム公の会心の笑顔が目に浮かんだ。


「私が助けなくとも、きっとお前はひとりで戻ってくると信じていた。それがこんなに早いとは! れ聞いているぞ、朝方のザージャス家での事件を。そこでもお前の活躍――銃を持った三人の男を剣一本で制圧したとか!」

「ち、父上、話がられています。自分が倒したのは、ひとりです」

「うん? そうか、はははは……噂話うわさばなしは派手になるものだな! しかし、それでも大したものだ。お前はどこまで私をほこらしくしてくれるのか。末恐ろしい息子だ、ははは……」

「父上、申し訳ありません。このニコル、父上からいただいた徽章を心ならずも外してしまい、それに対するおびもできず――」

「ニコル、勘違かんちがいするな」


 ようやく少年の体を自分からがしたゴーダム公が、ニコルの心臓を皮膚ひふの上から指で押した。


「お前の徽章は、ちゃんとここにある。そして」


 次にゴーダム公は、自分の胸を指で押した。


「私の胸にも、エメスの胸にもサフィーナの胸にも――お前と同じ、有翼ゆうよく獅子ししの紋章はきざまれている。私たちが、家族であるという証だ。あの徽章は印に過ぎない。本当に大切なものは、心に刻まれる」

「ち……父上……」


 ニコルの視界の中で、豪放ごうほうな笑みに輝いているゴーダム公の精悍せいかんな顔がにじんだ。目元に熱いものが宿ったと思った時には、それは制御できないものとして目の裏側全部からき出す。


「父上、あ……ありがとうございます。僕は、嬉しくて……」

「うん? お前が泣くところなど初めて見たかも知れんな。――泣くな、ニコル。男子がやすやすと泣いてはいかん」

「ですが、ですが、僕は……父上を父上と呼べることが、本当に……」

「ははは、泣き虫め。――よし、今宵こよい限り許す。ニコル、泣け。つらいこともあったろう。涙で全て洗い流せ。そして、明日からは涙なぞ流してはならんぞ」

「は……はい……」


 再びゴーダム公はニコルを抱き寄せる。その胸元に目を押しつけ、ニコルは泣いた。不安もなにもかもが、涙に押し流されて消え失せていく。そんなものを抱いていた自分がおろかしくて仕方ないくらいに、それは簡単に流れてくれた。


「――あなた、ずるい、私にもニコルを抱きしめさせて下さい」


 いつの間に現れたのか、夜着に上っ張りを掛けた姿のエメス夫人もその場にいた。


「これは父と息子の抱擁ほうようだ。大事な儀式ぎしきなのだ。お前は少し待っていろ」

「そんな硬い胸に顔を押しつけさせられて、ニコルが可哀想ですわ。ニコルも母のやわらかな胸の方がいいでしょう。こっちにおいで」

「お……お母様」

「心配したのですよ。私自ら陣頭じんとうに立ち、ザージャスの家に兵を向け、お前を救い出そうと何度思ったか知れなかった。そのたびにこの人に邪魔をされて……ニコルや、お願いだから、私を薄情はくじょうと思わないでおくれ……」

「父上やお母様には、感謝の気持ちしかありません」


 そでで涙を拭う。それでも後から湧き出るものを止められない。


「父上は僕の言葉を信じ、手をおひかえくださいました。僕を信頼してくださったこと、ありがたく思います。そしてお母様のお見守りがあればこそ、僕も耐え忍ぶことができました。お母様、お慕い申しております」

「まああああ」


 銃で撃たれたかのように胸元を押さえ、顔の全部をで上がらせたエメス夫人がよろめいた。心が貫通かんつうされていたかも知れなかった。


「あなた、すぐに退いてください! 私もニコルを抱きしめたい!」

「少しの我慢ができんのか」

「できません!」


 ひったくるようにしてニコルを奪い、エメス夫人がくっきりと刻まれた胸の谷間に少年の顔を押し込んだ。


「ああ、そうそう、この抱き心地……! やはり王都に来て良かったわ! ニコル、今日からこの屋敷で暮らすのですよ。もう外に一歩も出てはなりませんからね!」

「お前がニコルを連れさらってどうするのだ。実家に帰してやらんといかんだろう」

「嫌です! この子は私がお腹を痛めて産んだ子なんです! どこにも帰したりしません!」

「記憶を混乱させるな、記憶を」


 やれやれ、とゴーダム公は頭に手をやる。


「ともあれ、ニコルが無事に帰ってきたという知らせは届けないとな。真夜中だがこんな知らせは早い方が良いだろう。馬をニコルの実家に走らせて――馬車も一台手配させよう」

「ば……馬車ですか? 何故?」


 やわらかな胸の中で窒息しそうになっていたニコルが、空気を求めて顔を離した。


「リルル嬢にも一刻いっこくも早く知らせなければならんだろう。今ちょうど、サフィーナも一緒にいるのでな。きっとこっちにすっ飛んで来るに違いない。――ニコル、淑女しゅくじょたちの熱烈な歓待を受けてもいいように、今のうちに風呂に入っていた方がいいぞ」

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