「大事なものが刻まれる、そこ」
ゴーダム公爵家騎士団に所属する紅一点の女騎士・アリーシャは不幸だった。
いや、正確にいうならばあまり幸せではなかった、と表現するべきか。
ため息は幸せを逃がすとよくいわれるが、止まらない。これが今晩何十回目のため息だったか、もう数えてもいなかった。
「はぁぁぁ……」
王都の夜風は冷たい。太陽が落ちて温められずに冷えた内陸の風が勢いよく吹き付けてきて、女騎士の
体も寒いが、心も寒い。
今晩は、夜が明けるまで門の前で寝ずの番だ。この深夜、急な訪問者がいるかも知れないし……。
「来るわけないだろ。みんなぐっすりだよ」
空を見上げても星の数は少ない。この王都は夜でも明るい。そこかしこに街灯が明かりを
内陸の街であるゴッデムガルドとこの王都エルカリナは、どこをとってもまるで違う性格の街だった。大通りくらいにしか街灯がないゴッデムガルドでは、陽が落ちて二時間もすればみな早々に寝てしまう。夜更かしという文化がないのだ。この街の人間は本当に睡眠時間が足りているのだろうか、アリーシャは心配になる。
そんな街で徹夜をしなければならないのも不幸せだったし、わずかな期待を胸にゴーダム公爵一家に
「ニコルに会えると思ったんだけどなぁ」
二年の間、
それでもニコルの意思を変えることはできなかった。その
ここに来れば、もしかしたらニコルの顔が毎日見られるかも知れない。
だが、結果的に望みは
「それで、ザージャスとかいう公爵家に
「……アリーシャ先輩ですか?」
「ニコルが閉じ込められてる部屋からあたしが助け出してやるんだ。そうしたらニコルの奴、感激してあたしに抱きついてくるかも。奥様もいいよなぁ、いつもニコルを抱きしめられて。あたしも堂々とニコルを抱きしめたいよ」
「やっぱりアリーシャ先輩だ」
「ニコルの奴、本当に可愛いんだから。こっちにはおしゃれな喫茶店もあるんだから、ニコルと一緒にお茶でもしたいよ。でなきゃ、なんのためにここに来たのかわかんなくなる」
「アリーシャ先輩」
「そうそう、あいつに『先輩』って呼ばれるとこう胸がキュンと締め付けられるっていうか、切なくなるっていうか、
「アリーシャ先輩、お久しぶりです」
「ああ、ニコル、お久し――」
通用門の鉄格子越しにこちらを見てくる少年の姿に、アリーシャの身も心も、瞬時に
「……アリーシャ先輩?」
「ニコッ!」
カンッ!
鉄格子の存在を忘れて
「だ、大丈夫ですか?」
「ううう……」
「ニ……ニ、ニコルなのか? お前、ザージャスの家に
「無事に出て来ました。――二ヶ月ぶりです。アリーシャ先輩もこっちに来てたんですね」
「あ……ああ、そ、そ、そうだよ! ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待て、今、鍵を……いや、中に入りたいんだよな?」
「ええ、父上とお母様に目通りを」
いつもの数倍の余計な手間をかけて、アリーシャは通用門の鍵を開けた。
「あああ」
「アリーシャ先輩?」
通用門をくぐったニコルに、力なくよろけたアリーシャがすがりついた。少年の肩に
「すまん、足をくじいたみたいだ」
「頭を打っただけじゃなかったんですか?」
「……ちょっと前にくじいてたんだよ」
ニコルがゴーダム騎士団に騎士見習いとして入って来た時は、アリーシャが剣の
「ニコル、すまないけど、このままあたしの
「大丈夫ですよ。アリーシャ先輩は
「あたしのいうとおりにしろ、先輩命令だぞ」
「はあ」
◇ ◇ ◇
通された無人の応接間でニコルは迷っていた。魔鉱石ではない、
ニコルは緊張していた。
ゴーダム家の紋章を
仕方がなかった、ゴーダム公はわかってくれるはず。そう信じている。しかし、白紙に
自分は公を、父上を裏切ってしまった。それが父を失望させてはいないだろうか。父を失望させたくない。この世で父と呼べるのは、今はもう、公ただ一人なのだから――。
ソファーに座って待つようにアリーシャには
「…………」
結局、ニコルは立ったまま待つことにした。それ以外にいい方法が考えつかなかった。
アリーシャは父を呼んで来ると出て行き、そこから数分の時間が経過している。十分ほど待ったか、父が来るのが遅い――そう思って壁時計を確認したが、分針は
こんな深夜に訪問したのはやはり
ここを訪れたことは間違いだったか。やはり、謝罪の文を
扉越しの
「ちちう――」
バン! と大きな音を立てて応接間の扉が開かれ、反射的に振り向いたニコルは、息を飲む間もなく、視界の全てを
「ニコル!」
太くたくましい腕が背中に回り、全力ではないかという力で引き寄せられる。
少年の顔が厚い胸板に押しつけられ、見開いたまま
「よく――よく戻った!
ゴーダム公の弾むような
「私が助けなくとも、きっとお前はひとりで戻ってくると信じていた。それがこんなに早いとは!
「ち、父上、話が
「うん? そうか、はははは……
「父上、申し訳ありません。このニコル、父上からいただいた徽章を心ならずも外してしまい、それに対するお
「ニコル、
ようやく少年の体を自分から
「お前の徽章は、ちゃんとここにある。そして」
次にゴーダム公は、自分の胸を指で押した。
「私の胸にも、エメスの胸にもサフィーナの胸にも――お前と同じ、
「ち……父上……」
ニコルの視界の中で、
「父上、あ……ありがとうございます。僕は、嬉しくて……」
「うん? お前が泣くところなど初めて見たかも知れんな。――泣くな、ニコル。男子がやすやすと泣いてはいかん」
「ですが、ですが、僕は……父上を父上と呼べることが、本当に……」
「ははは、泣き虫め。――よし、
「は……はい……」
再びゴーダム公はニコルを抱き寄せる。その胸元に目を押しつけ、ニコルは泣いた。不安もなにもかもが、涙に押し流されて消え失せていく。そんなものを抱いていた自分が
「――あなた、ずるい、私にもニコルを抱きしめさせて下さい」
いつの間に現れたのか、夜着に上っ張りを掛けた姿のエメス夫人もその場にいた。
「これは父と息子の
「そんな硬い胸に顔を押しつけさせられて、ニコルが可哀想ですわ。ニコルも母のやわらかな胸の方がいいでしょう。こっちにおいで」
「お……お母様」
「心配したのですよ。私自ら
「父上やお母様には、感謝の気持ちしかありません」
「父上は僕の言葉を信じ、手をお
「まああああ」
銃で撃たれたかのように胸元を押さえ、顔の全部を
「あなた、すぐに
「少しの我慢ができんのか」
「できません!」
ひったくるようにしてニコルを奪い、エメス夫人がくっきりと刻まれた胸の谷間に少年の顔を押し込んだ。
「ああ、そうそう、この抱き心地……! やはり王都に来て良かったわ! ニコル、今日からこの屋敷で暮らすのですよ。もう外に一歩も出てはなりませんからね!」
「お前がニコルを連れさらってどうするのだ。実家に帰してやらんといかんだろう」
「嫌です! この子は私がお腹を痛めて産んだ子なんです! どこにも帰したりしません!」
「記憶を混乱させるな、記憶を」
やれやれ、とゴーダム公は頭に手をやる。
「ともあれ、ニコルが無事に帰ってきたという知らせは届けないとな。真夜中だがこんな知らせは早い方が良いだろう。馬をニコルの実家に走らせて――馬車も一台手配させよう」
「ば……馬車ですか? 何故?」
やわらかな胸の中で窒息しそうになっていたニコルが、空気を求めて顔を離した。
「リルル嬢にも
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます