「夢、幼き日」
「僕の母は、リルルの乳母をしていた」
ニコルは語り出した。遠い目を見せ、過去を、自分たちの大切な想い出を。
エヴァレーはそれを聞く。少年の言葉のひとつひとつを、
「……僕も常に母と同じ場所にいた。母はいつもリルルと僕のふたりに乳を与えていた。そして、リルルが
実質、ニコルの母がリルルの母親役も
「――僕とリルルが四歳の時だ。僕も
それが、転機の時だった。
「リルルが、僕の家に遊びに来たいといいだした。母はそれを聞いてリルルを僕の家に
「……それで?」
「おろおろして
「……さぞかし派手だったでしょうね」
「そのあと、リルルはなんていったと思う?」
「……あの素直の
エヴァレーも思い出す。
「
「それがね」
ニコルは
「腰の小物入れから
エヴァレーの顔の動きが、全て
「『どうせ安物でしょ? これで足りるよね。よかったね、
「……あの
別人の話をしているのではないのか、エヴァレーは本気で疑った。
「僕もなにもいえず、母もいえなかった。母はリルルに対して
「…………」
「三歳くらいで物心がついたリルルは、どんどんわがままになっていった。僕もよく意地悪をされたり、いじめられたよ。僕の
ニコルの目が細められる。過去を懐かしむ
「屋敷でもリルルが女王様だ。いくら貴族として
その話を聞くエヴァレーには、親近感しかない内容だった。
まるで、今の自分の話を聞かされているに等しかったからだ。
「……割れた食器の件はどうなったの」
そんな中で、話が完全に横に
「そんなこと、他に似たような話がいくらでもあったんでしょ。ありふれてることだもの。でも
「そうそう。ここからが面白いんだ」
笑えるよ、とニコルは言い足した。
「リルルにとって運が悪かったことに、家の外から、窓越しに僕の祖母がその様子を全部見ていたんだよ」
「……何故、貴方の祖母が見ていたら、リルルにとって運が悪いのかしら?」
「ノックもなしに無言で家の中にずかずかと入ってきた祖母が、丸めた新聞紙で、リルルの
「…………は?」
エヴァレーは絶句した。まさに開いた口が
「祖母は激しい人間なんだ。正義は正義、悪は悪と物事を二つに分けてしか考えない。最初の一発でリルルは泣きもせずに
想い出の
「叩いて、叩いて、叩いて、叩いて――僕と母がもう
「……想像もできないわ……」
「丸めた新聞紙を、固まって動けなくなっているリルルに
その時の
「『痛かったろうね。痛いように叩いたからね。でも、お前はあたしたちの心を叩いたんだ。貧乏人のあたしたちの貧乏を馬鹿にしたんだ。それとね、人を叩く痛みっていうのを教えてやるよ。無抵抗の人間を叩かなきゃいけない時に、どんな痛みがするのか。さあ、あたしを叩け。本気で、やれ』」
幼すぎるリルルの目に再び涙が浮かぶ。握らされた新聞紙をどうしたらいいのか、本気で迷う――エヴァレーの想像力がそんな光景を描いた。おそらく、
「『鬼みたいなあたしが憎いだろう、グズグズせずにやるんだよ――それだけか、
「……結末は? どうなったの?」
「リルルは新聞紙を投げ捨てて、祖母に謝ったよ。ごめんなさい、許してくださいって。……それで、祖母はすぐさまリルルの屋敷に向かった。ひとりでズカズカ行くもんだから、僕たちも
「…………」
「『お
ニコルの肩が笑いに揺れた。腕を組んで玄関の前に座り込み、どちらが立場が上なのかわからないくらいに
「祖母にはリルルがすがりついて『あたしが悪かったの、あたしが悪い子だからしかられたの、だから怒らないで』って、泣きながら旦那様に
「……よくそんなお
「リルルのわがままに困っていたのは、旦那様も同じだったからね。……リルルは、その日からいい子になったよ。今と変わらないようないい子になった。あとで色々と話してくれた……僕と母が、
「……え?」
「リルルは物心つくまで、乳母である僕の母を本当の母だと思ってた。でも、家来の誰かに吹き込まれたんだ。本当はそうじゃないって……まあ、時間が
――心から母と慕っていた優しい女性が、実はそうではなかった。幼児にコトの
そして、双子のように育った片割れは、なんの疑問もなく甘えることができる――。
「……だから、甘えるのが
「なによそれ」
エヴァレーが笑った。苦笑と失笑の
「今の
「だからそっくりだといったんだ」
「
「君は僕の祖母に会っていないだけなんだ」
ニコルは断じた。そう信じていた。
「リルルもあの時、祖母に叩かれていなければ、君と同じようになっていた。……母も、リルルに対して歩み寄った。本当の母のように思ってくれていい、いや、本当の母と思って欲しいと。自分もお前を本当の娘だと思うから――その時からリルルは僕の母を名前でなく、『ママ』と呼ぶようになったんだ」
「…………」
「君もリルルと同じだよ。きっと根は素直な子なんだと思う。僕にはわかるんだ。色んな人を見てきたから。だから――」
「だから?」
言葉が、切断された。口元は笑っているが、目元は泣いているような気配を
「つまらない話を長々とありがとう。いうほど
ガウンの
心の持ちようひとつで人は変わることができる。そういいたかった。いや、伝わってはいるはずだ。ただ、それが相手の心に
十分ほど経過したころに、エヴァレーは戻って来た。ガウンから夜着に着替えていた。
「これが貴方への
折り
「これは……」
「正門で門番に提示しなさい。貴方を通してくれる」
「……エヴァレー?」
「貴方を解放してやるといっているのよ」
ニコルの息が、数秒、止まった。
「もう貴方は
「…………」
「貴方を
「……いいんだね」
「早く出ていって。顔も見たくないの。さよなら」
「ああ」
くるりと
「――はぁ…………」
ニコルは天井を見上げた。突然に言い渡された自由――それに沸き立つような喜びがあってもよかったが、何故か心に薄ら寒さが残った。
立ち上がり、着替える。荷物はここに来た時と同じ袋ひとつ分しかない。
肩に荷物袋を
人気のない
「……どうしようかな……」
もう、列車もなにもかも止まった深夜だ。ここから実家に歩いてたどりつくには、三時間はたっぷりと歩かなければならない。それよりは深夜で恐縮ではあるが、
行先を定め、ニコルは歩き出した。もう自分は自由なのだ。
◇ ◇ ◇
「ウソでしょ……」
ニコルの姿が正門の向こうに消えるのをカーテンの
意志の力で
声が
「サ……サフィーナは、二年間暮らして、去られて、これに耐えたというの……?
胸の真ん中に
「貴方が
淡い恋も、希望も、今はない。
甘い夢から覚め、苦い現実しかないことを思い知らされた
この
「――この街を、全部壊してしまうしか、自分には……」
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