「夢、幼き日」

「僕の母は、リルルの乳母をしていた」


 ニコルは語り出した。遠い目を見せ、過去を、自分たちの大切な想い出を。

 エヴァレーはそれを聞く。少年の言葉のひとつひとつを、印象イメージの部品とし、脳裏のうりに情景を組み立てるように。


「……僕も常に母と同じ場所にいた。母はいつもリルルと僕のふたりに乳を与えていた。そして、リルルが乳離ちちばなれしても母は、リルルの世話をしていた。旦那様だんなさまは仕事、仕事、仕事でめったに屋敷にも帰ってこなかった。リルルの母上は、リルルが生まれて間もなくくなられたから、自然にそうなった……僕とリルルは同じ誕生日で、双子のように育った」


 実質、ニコルの母がリルルの母親役もねていた、それが実態だ。


「――僕とリルルが四歳の時だ。僕も物心ものごころついたばかりだというのに、その時のことは、本当によく覚えている……」


 それが、転機の時だった。


「リルルが、僕の家に遊びに来たいといいだした。母はそれを聞いてリルルを僕の家にまねき……まあ、遊びたいさかり、動きたい盛りの四歳だよ。せま居間いまを新しい遊び場のようにリルルは飛び回り、ね回って、戸棚とだなをひっくり返しそうになったんだ」

「……それで?」

「おろおろして片時かたときも目が離せなかった母が、間一髪かんいっぱつ手を伸ばし、戸棚が倒れることはまぬがれた……でも、皿やカップのいくつかはこぼれて落ち、床で割れた。バリバリ音がしたのを覚えているよ。どれも安物だったろうけれどね」

「……さぞかし派手だったでしょうね」

「そのあと、リルルはなんていったと思う?」

「……あの素直のかたまりが、その場で謝らないわけないじゃない」


 エヴァレーも思い出す。


わたくし、学校で昼寝していた猫の尻尾をリルルがんでしまって、猫に頭を下げて謝っていたの、見たことあるわよ」

「それがね」


 ニコルは微笑ほほえんだ。


「腰の小物入れから財布さいふを取り出して、一万エル札を三枚テーブルに放ったんだ」


 エヴァレーの顔の動きが、全てこおった。


「『どうせ安物でしょ? これで足りるよね。よかったね、もうかって』……そういい放って見せたんだ。ものすごく天真爛漫てんしんらんまんな笑顔だった。今でも絵に描けるくらいに覚えている……」

「……あのが?」


 別人の話をしているのではないのか、エヴァレーは本気で疑った。


「僕もなにもいえず、母もいえなかった。母はリルルに対してれ物を触るような態度だった。母も祖母そぼも働いてはいたけれど、女ひとりのかせぎなんてたかが知れている……それでも、リルルの機嫌をそこねて失業でもしたら、痛手だからね……。リルルはそんな母の心の底にあるものを、ちゃんと見抜いていたんだと思う。小さい頃からかしこい子だったから」

「…………」

「三歳くらいで物心がついたリルルは、どんどんわがままになっていった。僕もよく意地悪をされたり、いじめられたよ。僕の玩具おもちゃを取り上げて僕がくやしそうな顔をするのを楽しむんだ。玩具には最初から興味なんてない。――僕がリルルの玩具だったのかもね」


 ニコルの目が細められる。過去を懐かしむ眼差まなざしだった。


「屋敷でもリルルが女王様だ。いくら貴族として零落れいらくした身でも、お金持ちだからね。あの狭い世界の中なら彼女が絶対者で、独裁者さ。逆らう、逆らえる者なんていない。みんな、リルルが歩いてくる足音を聞くだけで震え上がっていたよ」


 その話を聞くエヴァレーには、親近感しかない内容だった。

 まるで、今の自分の話を聞かされているに等しかったからだ。


「……割れた食器の件はどうなったの」


 そんな中で、話が完全に横にれたのをエヴァレーは指摘した。


「そんなこと、他に似たような話がいくらでもあったんでしょ。ありふれてることだもの。でも貴方あなたがわざわざそんな振りをするということは、なにか特別なことがあるからじゃないの」

「そうそう。ここからが面白いんだ」


 笑えるよ、とニコルは言い足した。


「リルルにとって運が悪かったことに、家の外から、窓越しに僕の祖母がその様子を全部見ていたんだよ」

「……何故、貴方の祖母が見ていたら、リルルにとって運が悪いのかしら?」

「ノックもなしに無言で家の中にずかずかと入ってきた祖母が、丸めた新聞紙で、リルルのほおを思いっきり張り飛ばしたからね」

「…………は?」


 エヴァレーは絶句した。まさに開いた口がふさがらなかった。


「祖母は激しい人間なんだ。正義は正義、悪は悪と物事を二つに分けてしか考えない。最初の一発でリルルは泣きもせずにおどろいていたよ。たたかれてしかられたことなどなかったから。――泣いたのは、二発目を食らってからだった」


 想い出の輪郭りんかくを指でなぞりながら、ニコルは話し続けた。


「叩いて、叩いて、叩いて、叩いて――僕と母がもう唖然あぜんとしている前で、祖母はリルルを叩きまくった。リルルが泣き止んだのは、泣くこともできなくなったからだ。もう顔が真っ赤に腫れ上がって、リンゴかなんかのようだった。それで、祖母はそれからどうしたのか、君にはわかるかい?」

「……想像もできないわ……」

「丸めた新聞紙を、固まって動けなくなっているリルルににぎらせたんだ。――『これであたしを叩きな、自分が叩かれたように』って」


 その時の啖呵たんかの一字一句まで思い出せる。それくらいにニコルには鮮烈な事件だった。


「『痛かったろうね。痛いように叩いたからね。でも、お前はあたしたちの心を叩いたんだ。貧乏人のあたしたちの貧乏を馬鹿にしたんだ。それとね、人を叩く痛みっていうのを教えてやるよ。無抵抗の人間を叩かなきゃいけない時に、どんな痛みがするのか。さあ、あたしを叩け。本気で、やれ』」


 幼すぎるリルルの目に再び涙が浮かぶ。握らされた新聞紙をどうしたらいいのか、本気で迷う――エヴァレーの想像力がそんな光景を描いた。おそらく、間違まちがってはいないだろう。


「『鬼みたいなあたしが憎いだろう、グズグズせずにやるんだよ――それだけか、みたいな音しかしないじゃないか。あたしが叩いた時はもっといい音がしたろう。あたしがやめてくれといい出すまで叩かないと承知しょうちしないからね――このグズ、さっさとやらないか!』……もうメチャクチャだよね。あはは」

「……結末は? どうなったの?」

「リルルは新聞紙を投げ捨てて、祖母に謝ったよ。ごめんなさい、許してくださいって。……それで、祖母はすぐさまリルルの屋敷に向かった。ひとりでズカズカ行くもんだから、僕たちもあわててそれを追いかけた。屋敷にはちょうど、運良く旦那様が帰ってらした。いなかったら、勤め先まで出向いていたと思うけれど……で、祖母は旦那様の前でどっかり座り込んで、もうなんにもこわくない顔でいったんだ」

「…………」

「『おたくの娘があんまりに出来損できそこないなんで、しばき倒した。あんたも一応貴族の端くれで、不本意ふほんいで仕方ないが、平民が貴族に手を出したら重罪ってことになってる。だから、あたしのことは牢屋ろうやでも監獄かんごくでも、好きに放り込め。ただ、間違うな。嫁や孫は一切関係ない。ふたりをこの屋敷から追い出したりするな――」


 ニコルの肩が笑いに揺れた。腕を組んで玄関の前に座り込み、どちらが立場が上なのかわからないくらいに傲然ごうぜんとした顔を見せていた祖母の姿は、今だからこそ笑い話になる。


「祖母にはリルルがすがりついて『あたしが悪かったの、あたしが悪い子だからしかられたの、だから怒らないで』って、泣きながら旦那様にうったえてもう大騒ぎさ。旦那様は困った顔をしていたよ。祖母には『今回は許すから、次はもう少し手加減をしてくれ』って、無罪放免むざいほうめんだったけれど」

「……よくそんなおさばきですんだわね」

「リルルのわがままに困っていたのは、旦那様も同じだったからね。……リルルは、その日からいい子になったよ。今と変わらないようないい子になった。あとで色々と話してくれた……僕と母が、うらやましかったんだって」

「……え?」

「リルルは物心つくまで、乳母である僕の母を本当の母だと思ってた。でも、家来の誰かに吹き込まれたんだ。本当はそうじゃないって……まあ、時間がてば、母からも説明があったくらいの話なんだけれどね」


 ――心から母と慕っていた優しい女性が、実はそうではなかった。幼児にコトの機微きびなどわかりはしない。ただ、衝撃と落胆らくたんがあっただけだろう。

 そして、双子のように育った片割れは、なんの疑問もなく甘えることができる――。


「……だから、甘えるのがこわくなったと。それでもかまってほしい。いたずらをすればかまってもらえる。……かまってもらえても、甘えられない。怖いから。自分の本当の母親ではないから。顔を見ているだけではなにを考えているかわからないから、拒絶きょぜつが先に出て――」

「なによそれ」


 エヴァレーが笑った。苦笑と失笑の狭間はざまの笑いだった。


「今のわたくしじゃないの」

「だからそっくりだといったんだ」

わたくしが四歳の幼児と同じだと?」

「君は僕の祖母に会っていないだけなんだ」


 ニコルは断じた。そう信じていた。


「リルルもあの時、祖母に叩かれていなければ、君と同じようになっていた。……母も、リルルに対して歩み寄った。本当の母のように思ってくれていい、いや、本当の母と思って欲しいと。自分もお前を本当の娘だと思うから――その時からリルルは僕の母を名前でなく、『ママ』と呼ぶようになったんだ」

「…………」

「君もリルルと同じだよ。きっと根は素直な子なんだと思う。僕にはわかるんだ。色んな人を見てきたから。だから――」

「だから?」


 言葉が、切断された。口元は笑っているが、目元は泣いているような気配をかもし出したエヴァレーが、鼻を鳴らすようにして笑った。


「つまらない話を長々とありがとう。いうほど感銘かんめいは受けなかったわ。――ここで待っていなさい。すぐ戻るから」


 ガウンのすそを床にこすれさせるようにしてエヴァレーが部屋を出て行く。ニコルはその背中を見送り、寝台に座り込んだ。


 心の持ちようひとつで人は変わることができる。そういいたかった。いや、伝わってはいるはずだ。ただ、それが相手の心にみこむかどうかは、相手の心によるだろう。土ならともかく、コンクリートに水は染みこまない。


 十分ほど経過したころに、エヴァレーは戻って来た。ガウンから夜着に着替えていた。


「これが貴方への褒美ほうびよ」


 折りたたまれた紙片がひとつ、差し出された。


「これは……」

「正門で門番に提示しなさい。貴方を通してくれる」

「……エヴァレー?」

「貴方を解放してやるといっているのよ」


 ニコルの息が、数秒、止まった。


「もう貴方はらないの。どうせわたくしのものにはならないんでしょう。だから要らない。要らないものを側に置いておく理由もないわ――今すぐ出ていって」

「…………」

「貴方をしばりつけていたものも、なにもかもなしにしてあげる。貴方もつまらない人間だったわ。わたくしにお説教なんてしてくれちゃって……何様? ただの平民でしょ? 敬語もなしに話をしていたから、忘れちゃっていたのかしら? わたくしが公爵令嬢だっていうことが、すっかり頭から抜け落ちているのね。お馬鹿さん」

「……いいんだね」

「早く出ていって。顔も見たくないの。さよなら」

「ああ」


 くるりときびすを返し、エヴァレーは再び部屋を出て行った。


「――はぁ…………」


 ニコルは天井を見上げた。突然に言い渡された自由――それに沸き立つような喜びがあってもよかったが、何故か心に薄ら寒さが残った。


 立ち上がり、着替える。荷物はここに来た時と同じ袋ひとつ分しかない。荷造にづくりをする必要さえなかった。

 肩に荷物袋をげ、部屋を出た。結局は一夜さえ明かさなかった自分の部屋だった。


 人気のない廊下ろうかと階段を歩き、中庭に出て正門に足を運ぶ。案の定、門で門番に一度呼びとめられたが、エヴァレーが渡してくれた紙片の走り書きが効力を発揮はっきした。いぶかしげな視線に見送られ、ニコルは最後の関門かんもんをくぐり抜けた。


「……どうしようかな……」


 もう、列車もなにもかも止まった深夜だ。ここから実家に歩いてたどりつくには、三時間はたっぷりと歩かなければならない。それよりは深夜で恐縮ではあるが、あそこ・・・に向かおう、近いことでもあるし、なるべく早く顔を見せたくもあるし……。


 行先を定め、ニコルは歩き出した。もう自分は自由なのだ。



   ◇   ◇   ◇



「ウソでしょ……」


 ニコルの姿が正門の向こうに消えるのをカーテンの隙間すきまからうかがっていたエヴァレーが、くずれ落ちるようにひざを落とし、絨毯じゅうたんの上に腕をついた。

 意志の力でき止めていた涙が、あふれにあふれ、頬を熱くくように洗っていく。


 声がれるのもおそれて口をふさぎ、嗚咽おえつが途切れるまで、息さえも殺すようにしてすすり泣き続けた。


「サ……サフィーナは、二年間暮らして、去られて、これに耐えたというの……? わたくしなんて、まだ二日に過ぎないというのに……」


 胸の真ん中にいた空間に隙間風が入り、その寒さに心と体が震え上がる。自分の体を抱きしめても悪寒おかんが止まらない。今すぐ少年のあとを追ってすがりつきたい衝動が胸の底を裏側から突き上げていたが、それに駆られて走り出してしまいたい誘惑を、心の一部を死なせることで耐えた。


「貴方がわたくしのものになってくれたら、わたくしの側にいてくれたら、みとどまろうかもと思っていた。このままの暮らしでいいかもと思っていた。でも、貴方はわたくしを捨てて行ってしまった。……もう、わたくしには残されていないじゃない……」


 淡い恋も、希望も、今はない。

 甘い夢から覚め、苦い現実しかないことを思い知らされたうらみしかない。

 このさびしさと切なさをめ合わせる手段があるとすれば、それはもう、ただ一つしかなかった。


「――この街を、全部壊してしまうしか、自分には……」

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