「深夜」

 そこは閉鎖された酒場だった。


 正確に表現すれば、一階の大きな酒場に宿屋も併設へいせつされていた五階建ての建造物だ。訪れた客に浴びるほどに酒を飲ませ、つぶれたら宿泊部屋にたたき込むという手法で、店が閉まる前は大勢の宿泊客兼酔客すいきゃくにぎわったものだった。


 今は建物も老朽化ろうきゅうかし、新たな店舗てんぽが別の場所に建設されて、この建物は解体を待つ身だった。店の入口は厳重げんじゅう閉鎖へいさされ、『解体工事準備中につき、関係者以外の立ち入りを禁ず』と札がかけられている。


 だから、両隣の店が盛大にあかりをともしていたとしても、その店は死んだように静まりかえっている――はずだった。


 注意深い人間ならば、その店を子細しさいに観察すれば、無数に存在する窓からほんのわずか、ほんのわずかに光がれていることに気づいただろう。入念に裏から黒い紙で目張りしていても、窓枠からにじむようにして光がこぼれている――無人のはずの店が、生きている・・・・・


 そして、その店は実際、無人ではなかった。


 店内を見てみよう。

 一階から三階まで吹き抜けの空間は、ここが閉鎖された店とはとても信じられないほどの熱気に包まれていた。


 一階は存在しないはずの人間たちでくされ、大勢の人間たちが床が見えないほどの密度で立っている。中の一人がもよおして外に出ようとしても、この人の海をき分けて脱出するのは難しいだろう。


 二階や三階の廊下ろうかや階段にも興奮した人があふれ、吹き抜けの階下――一階の一点に視線を落として注目を向けていた。


 全員で千人は大きく超えるだろう。ほとんどが男で、身なりもとても調ととのっているとは言いがたい。人間たちは労働者階級の全く垢抜あかぬけない格好のものばかりで、フードをかぶりマントを羽織はおって全身を隠している亜人たちも少なくない数がいた。


 そんな連中の注目を一身に受ける形となった一階の真ん中には、小さな演題がもうけられていた。以前なら見目みめのいい歌い手が酒飲み相手に上手くない歌を披露ひろうするために上がっていた舞台だ。


 そこには今、歌い手ではない、一人の男が上がっていた。


 中肉中背、街を歩いてすれ違ったとしても、印象を残さない男だった。短く刈り上げられた黒い髪もありふれていたが、その男の特徴はなにかと問われれば、誰もが返答に困るだろう。


 役人にも見えるし、肉体労働者にも見える。商店で帳面をつけているような男に見えないこともない。


 若くもなく年寄りでもない。鼻は高くもなく低くもなく、あごは鋭くもなく丸くもなく――。


 何故そんな男が演台に立ち、一切のテーブルも椅子も取り払われた空間を、座りもできないのに一切の文句をいわない千人の者たちでぎっしりと埋めさせているのか。


「――諸君、今更いまさらり返しくどくど説明する必要もないだろう」


 取り囲んでいる群衆の中で、そんなことを不思議に思う者もいない。全員が、その特徴のない男のために集まっているのだから。


「エルカリナ王家による五百年という長きの統治。……五百年! 今まで、このように長く続いた王朝は存在しない。この大陸に王国が誕生して五百年が過ぎ、外敵の侵入もなくこの国は平和な時を過ごしてきた。……しかし!」


 脳に突き刺さるような甲高い演説が店舗内に響く。交響楽団の指揮者が振る指揮棒のようにその両手が振り回され、拡声器も使っていないにも関わらず、その声は全員の耳に届いてその鼓膜を震わせ、頭の奥をわしづかみにするようにして揺らしていた。


「外からの侵入はなくとも、怠惰たいだという心の害虫がこの国の屋台骨やたいぼねむしばんでいる。外面そとづらは見栄えのいい鉄筋てっきんコンクリートの王都。しかしその鉄筋はとうの昔にさびび付き、コンクリートの内部はヒビだらけだ。――そんな老朽化した建物に王家は必死にペンキをり重ね、その塗料の臭いで皆意識がおかしくなっている」


 床を天井を壁を震わせる千余人人のざわめきを、たった一人の声が押さえ込む。空気を震わせているのではない、次元を震わせているような声だった。手を耳でふさいでも、耳栓みみせんめてでさえも、彼の声は言葉は防げなかったに違いない。


「――諸君、この数日の混乱を思い起こすがいい! たった一人の怪人の出現が、どれほどの模倣者もほうしゃを呼んだか! この王都に怨嗟えんさの声は満ち満ちている。今まで押さえ込んできた不満が発酵はっこうし、引火性気体ガスを発生させて貧民街はおろか、中間層にまで拡がっている――その原因は、なにか!」


 天井のはりが揺れるほどの声の響きに、それを三階から見下ろすマスク姿の少女は一人、どこかめた瞳で見下ろしていた。今まさに舞台で行われている題目だいもくを、裏方は熱狂してることはできない――そんな心境だというように。


「彼、よく王都に入り込めたわね」

「死んだことになってるからな」


 マスク姿の少女――今は偽快傑令嬢のドレスにそでを通していないエヴァレーの側に、影となるように寄りっている一人の長身の男が応えた。


「海の沖で大砲の直撃を食らって肉塊にくかいになったか、海に投げ出されてサメに食われて死んだか――まあどっちでも大差ないが、そういうことになっている。あいつは死人だ。誰も死人を探したりはしない」

「……彼一人を連れてくるのにずいぶん犠牲ぎせいを出したわね」

「撃ったのは海軍だ。俺たちじゃあない」


 男が笑う。


「火種は持ってきた。空気は乾いている。あとは、着火の頃合いタイミング間違まちがわないことだ。――よく燃えることだろう。特に貧民街の連中はこの日常に絶望しきっているからな」

「不満は満ち満ちている……ね」


 顔の半分を隠すマスク越しにエヴァレーは階下の群衆をながめた。これから着火され、燃やされることになっている者たちだった。


「いつ、火を点けるの?」

「近日、うご期待」

「――そう。これ、軍資金にして」


 どこにそんなものを隠していたとおどろくほどの大きな袋を、エヴァレーは床に置いた。地面にそれが乱暴に下ろされた瞬間、ジャラッと欲望をき立てる音が鳴った。


「いつもすまんな」

「私は帰るわ」

「最後まで聞いていかないのか?」

「いつも同じことしかしゃべらないじゃない」

「ありゃあ歌劇オペラだ。歌劇もひとつの題目を繰り返し繰り返しる。それに文句をいう奴はいないだろう」

「それだって、いつかはきるわ」


 演台の男の声を熱が加速させる。己の利己心りこしんだけを追求し、犯罪に手をめる貴族、世情に関心を示さずその日暮らしにしか意識を向けない庶民しょみん無秩序むちつじょに流入してくる亜人――その理念もなにもない流れを、制御しないままにしていればどうなるか。


「この王都は崩壊ほうかいする!」


 すぐ背中で巨大な太鼓を打ち鳴らされたような衝撃に、エヴァレーは目をいた。心臓が跳ね回るような力の一撃が心に加えられていた。


「いずれ、崩壊する。……その建物の崩壊に巻き込まれないうちに、我々はこの建物を解体し、新たな建物をきずかなければならない! ――しかし、解体の時間はない。


 破壊。


 破壊という手段で一度全てを整地し、その上に新たな国家を築き上げるのだ。そのためには、犠牲ぎせいもあろう、血も流れよう。だが、五百年という膨大ぼうだい堆積たいせきは、無血では払うことはできない。

 血と涙、それを乗り越えてこそ新しい世界がひらける。覚悟を持って行進するのだ。確固たる覚悟、鋼の意志こそが我々の行いを成就じょうじゅさせる――」

「しかし、よくこんな場所でこんな危ない演説をさせるわね」


 エヴァレーはあきれた。


「警備騎士団の本部からここまで、馬で飛ばせば五分よ?」

「そんな足元で、こういうヤバいことが行われているなんてのは思わないものさ。ま、これが終わったらすぐに移動するけれどな。この王都には隠れる場所なんていくらでもある。この街全体が迷宮のようなものだ」

「迷宮ね……」


 エヴァレーはひとつ息をくと、歩き出した。


「疲れてるみたいだな。いつもの覇気はきがないぞ」

「調子がくるうことがいくつかあってね。またこちらから連絡するわ」

「ああ」


 足元の一階からは万雷ばんらいの拍手が鳴り響いてきた。儀式は終わったようだ。それぞれの心の爆弾の導火線に、点火するという儀式は。


 今夜中に、爆弾たちは四方八方に散るだろう。

 いつ起爆するのか、させるのか。起爆したあとはどうなるのか――その結果を胸にえがきながら、それまでの時間を待つのだろう。


「それでは諸君」


 なにかが起こる前の楽しみは、全てに共通するものだ。


「革命を始めよう」



   ◇   ◇   ◇



 様々な物語が始まっては終わった一日が終わり、王都に住む人々にみな平等に、朝がやってきた。

 今日という日に起こる物語も知らずに人々は起き出し――それぞれに、幸福と絶望を知る。



   ◇   ◇   ◇



 早朝の日の光を窓越しに受け、エヴァレーは布団の中で、目を覚ました。


「う……う…………」


 明らかに寝足りていない頭で考える――自室に戻って来たのは何時だったかよく覚えていない。日も長くなってきた今は、何時なのか……。


「……六時……か……」


 眠気が重く残る頭を動かし、体を起こした。早朝のうちに確かめなければならないことがある――ニコルのことだ。

 騎士たちの拷問ごうもんめいた仕打ちに何時間えられただろうか。ともあれ、屈服しているにはちがいない。


 連中の陰湿いんしつな責めに耐え抜いた者はいない。最初は反抗的はんこうてきだった人間がいたとしても、最後には涙を流して許しをうのが当たり前だった。


「どれくらい聞き分けがよくなっているか、楽しみだわ」


 が、エヴァレーが早朝の訓練所で目撃したのは、予想外の光景だった。


「なによこれ!」


 異臭でしかないむせかえる汗の臭いに、あらかじめ鼻にハンカチを当ててみ込んだエヴァレーは、天井からいまだにり下げられ続けているニコルの姿におどろきを隠せなかった。


 気絶しているのか眠っているのか、目を閉じたニコルは身じろぎひとつしていない。その胸や腹、背中が無数の打ち身で、肌の全部が紫色に変わっていた。


「ああ、お嬢様、おはようございます」


 壁にもたれかかって一人だけうつらうつらしていた騎士が起き上がって頭を下げる。他に騎士は一人もいない。宿舎に帰ったということなのか。


「どうしてまだ吊られているの! 屈服したらやめろと――」

「ええ、こいつ、一晩中責め上げても、全然を上げないもんですから」

「――――」


 信じられない言葉だった。どんなに我慢強い者でも、二時間ほど一方的に責められ続ければ涙を流して許しをうものだ。


「先輩たちも疲れてしまって。こいつも反応しなくなったものですから、あきらめて引き上げたんです」

「――息をしてないじゃないの!」

「あれぇ?」


 おかしいな、というように騎士は首をひねった。


「今さっきまでうわごとをらしていましたよ。リルル、とかつぶやいていましたけれど」

「早く下ろしなさい! 馬鹿ね!」

「下ろすんですか?」

「下ろすのよ! 貴方あなた、わかってるの!? こいつを責め殺したりしたら、ゴーダムの家と戦争になるのよ! そうなったら貴方に先鋒せんぽうの先鋒をいいつけるからね! 真っ先に戦死してもらうわ!」

「なんでこいつが死んだら戦争になったりするんです?」


 全く事情を飲み込んでいないが、その騎士は首をひねりながらニコルを吊しているくさりを下ろした。数時間ぶりにニコルの足が床につき、自分の体重をかけらも支えられず、仰向あおむけに倒れた。


手枷てかせいて! あと医者を連れてきて! 大至急よ!!」


 憮然ぶぜんとした顔を隠さず騎士が外に飛び出していく。床に横たわったニコルはやはり息をしている様子はなかった。いったいいつから呼吸が停止しているのかわからない。裸の左胸に手を当てたが、下から押し上げてくる拍動はくどうもなかった。


「冗談じゃないわよ!」


 学校で一度習っていた記憶が色を帯びてよみがえる。

 ためらうという選択肢は消えていた。

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