「深夜」
そこは閉鎖された酒場だった。
正確に表現すれば、一階の大きな酒場に宿屋も
今は建物も
だから、両隣の店が盛大に
注意深い人間ならば、その店を
そして、その店は実際、無人ではなかった。
店内を見てみよう。
一階から三階まで吹き抜けの空間は、ここが閉鎖された店とはとても信じられないほどの熱気に包まれていた。
一階は存在しないはずの人間たちで
二階や三階の
全員で千人は大きく超えるだろう。ほとんどが男で、身なりもとても
そんな連中の注目を一身に受ける形となった一階の真ん中には、小さな演題が
そこには今、歌い手ではない、一人の男が上がっていた。
中肉中背、街を歩いてすれ違ったとしても、印象を残さない男だった。短く刈り上げられた黒い髪もありふれていたが、その男の特徴はなにかと問われれば、誰もが返答に困るだろう。
役人にも見えるし、肉体労働者にも見える。商店で帳面をつけているような男に見えないこともない。
若くもなく年寄りでもない。鼻は高くもなく低くもなく、
何故そんな男が演台に立ち、一切のテーブルも椅子も取り払われた空間を、座りもできないのに一切の文句をいわない千人の者たちでぎっしりと埋めさせているのか。
「――諸君、
取り囲んでいる群衆の中で、そんなことを不思議に思う者もいない。全員が、その特徴のない男のために集まっているのだから。
「エルカリナ王家による五百年という長きの統治。……五百年! 今まで、このように長く続いた王朝は存在しない。この大陸に王国が誕生して五百年が過ぎ、外敵の侵入もなくこの国は平和な時を過ごしてきた。……しかし!」
脳に突き刺さるような甲高い演説が店舗内に響く。交響楽団の指揮者が振る指揮棒のようにその両手が振り回され、拡声器も使っていないにも関わらず、その声は全員の耳に届いてその鼓膜を震わせ、頭の奥を
「外からの侵入はなくとも、
床を天井を壁を震わせる千余人人のざわめきを、たった一人の声が押さえ込む。空気を震わせているのではない、次元を震わせているような声だった。手を耳で
「――諸君、この数日の混乱を思い起こすがいい! たった一人の怪人の出現が、どれほどの
天井の
「彼、よく王都に入り込めたわね」
「死んだことになってるからな」
マスク姿の少女――今は偽快傑令嬢のドレスに
「海の沖で大砲の直撃を食らって
「……彼一人を連れてくるのにずいぶん
「撃ったのは海軍だ。俺たちじゃあない」
男が笑う。
「火種は持ってきた。空気は乾いている。あとは、着火の
「不満は満ち満ちている……ね」
顔の半分を隠すマスク越しにエヴァレーは階下の群衆を
「いつ、火を点けるの?」
「近日、
「――そう。これ、軍資金にして」
どこにそんなものを隠していたと
「いつもすまんな」
「私は帰るわ」
「最後まで聞いていかないのか?」
「いつも同じことしか
「ありゃあ
「それだって、いつかは
演台の男の声を熱が加速させる。己の
「この王都は
すぐ背中で巨大な太鼓を打ち鳴らされたような衝撃に、エヴァレーは目を
「いずれ、崩壊する。……その建物の崩壊に巻き込まれないうちに、我々はこの建物を解体し、新たな建物を
破壊。
破壊という手段で一度全てを整地し、その上に新たな国家を築き上げるのだ。そのためには、
血と涙、それを乗り越えてこそ新しい世界が
「しかし、よくこんな場所でこんな危ない演説をさせるわね」
エヴァレーは
「警備騎士団の本部からここまで、馬で飛ばせば五分よ?」
「そんな足元で、こういうヤバいことが行われているなんてのは思わないものさ。ま、これが終わったらすぐに移動するけれどな。この王都には隠れる場所なんていくらでもある。この街全体が迷宮のようなものだ」
「迷宮ね……」
エヴァレーはひとつ息を
「疲れてるみたいだな。いつもの
「調子が
「ああ」
足元の一階からは
今夜中に、爆弾たちは四方八方に散るだろう。
いつ起爆するのか、させるのか。起爆したあとはどうなるのか――その結果を胸に
「それでは諸君」
なにかが起こる前の楽しみは、全てに共通するものだ。
「革命を始めよう」
◇ ◇ ◇
様々な物語が始まっては終わった一日が終わり、王都に住む人々にみな平等に、朝がやってきた。
今日という日に起こる物語も知らずに人々は起き出し――それぞれに、幸福と絶望を知る。
◇ ◇ ◇
早朝の日の光を窓越しに受け、エヴァレーは布団の中で、目を覚ました。
「う……う…………」
明らかに寝足りていない頭で考える――自室に戻って来たのは何時だったかよく覚えていない。日も長くなってきた今は、何時なのか……。
「……六時……か……」
眠気が重く残る頭を動かし、体を起こした。早朝のうちに確かめなければならないことがある――ニコルのことだ。
騎士たちの
連中の
「どれくらい聞き分けがよくなっているか、楽しみだわ」
が、エヴァレーが早朝の訓練所で目撃したのは、予想外の光景だった。
「なによこれ!」
異臭でしかないむせかえる汗の臭いに、
気絶しているのか眠っているのか、目を閉じたニコルは身じろぎひとつしていない。その胸や腹、背中が無数の打ち身で、肌の全部が紫色に変わっていた。
「ああ、お嬢様、おはようございます」
壁にもたれかかって一人だけうつらうつらしていた騎士が起き上がって頭を下げる。他に騎士は一人もいない。宿舎に帰ったということなのか。
「どうしてまだ吊られているの! 屈服したらやめろと――」
「ええ、こいつ、一晩中責め上げても、全然
「――――」
信じられない言葉だった。どんなに我慢強い者でも、二時間ほど一方的に責められ続ければ涙を流して許しを
「先輩たちも疲れてしまって。こいつも反応しなくなったものですから、あきらめて引き上げたんです」
「――息をしてないじゃないの!」
「あれぇ?」
おかしいな、というように騎士は首をひねった。
「今さっきまでうわごとを
「早く下ろしなさい! 馬鹿ね!」
「下ろすんですか?」
「下ろすのよ!
「なんでこいつが死んだら戦争になったりするんです?」
全く事情を飲み込んでいないが、その騎士は首をひねりながらニコルを吊している
「
「冗談じゃないわよ!」
学校で一度習っていた記憶が色を帯びてよみがえる。
ためらうという選択肢は消えていた。
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