「ニコルとエヴァレー」
エヴァレーは大きく口の中に息を入れた。ニコルの鼻を
「ふうっ!!」
自分の中の命を吹き入れるように、エヴァレーは奥まで重い息を吹き込んだ。
外から強制的に空気を注がれた分、ニコルの胸がわずかに上がる。少年の鼻から抜ける息が髪を揺らした。
「自分で――自分で息をするのよ! ほら!」
裸の胸の真ん中に重ねた両手を当てた。この時、押す力には思い切りが必要だと、救命処置を指導した教師はそういっていた。
「生き返りなさい!」
上体の体重を全て押し込む勢いで、皮膚の下にある心臓をもむことを意識して、腕に力を落とし込んだ。矢継ぎ早の鼓動の調子を
空気が抜けかけた人形のように、少女の手と床の間で少年の体が弾むように
「生き返るのよ! ほら! さっさと目を覚ましなさい!」
十数回の圧迫と開放を繰り返し、まだ効果がないと判断したエヴァレーは、再びニコルの唇を塞いだ。鼻をつまみ、少年の肺の位置を意識しながら息を吐く。肺の奥にまで新しい空気を送り込む。
少年の胸がまたわずかに
そんな。自分はそこまでするつもりはなかった。当てつけに死ぬなんていうのは、ひどいではないか――。
「生き返りなさい――生き返って、お願いだから!」
再び胸に両手を当て、祈るように腕を押し込んだ。肋骨に守られているはずの胸が、手応えがあるほどに沈む。呼び戻すように何度も何度も少年の胸を弾ませた。
「お嬢様!」
騎士に連れられた屋敷詰めの医師が
「かっ……は、ぁっ……!」
窒息寸前の身が水面に浮上したかのように口が開く。空気を捕まえようと唇が開き、息を吸いたいのに吐いてしまい、吐いてしまいたいのに吸ってしまう――
「呼吸したわ!」
額に浮いた汗を払うのも忘れている少女が叫んだ。
「お嬢様、お下がりください」
エヴァレーが下がり、すぐさま医師が交替する。自分で大きく
「大丈夫!? 今まで、呼吸も脈も止まっていたのよ!」
「息を吹き返しはしたようです。医務室に運びますから、男手を――」
「
訓練所を飛び出し、エヴァレーは宿舎に向かって叫んだ。
◇ ◇ ◇
ニコルの意識が戻ったのは、太陽が真上に上り詰めようかという正午の時刻、少し前だった。
深い息を繰り返して眠っていたニコルが、カーテンを小さく揺らす風の手招きに気づいたように、うっすらと目を開ける。
「…………」
「う……あ、あ……?」
「目が覚めた?」
柔らかく軽く暖かな……おそらくは羽毛の布団。それに包まれたニコルが、目だけを横に向けた。
手を
うっすらとホコリが積もった記憶の表面を払って、少年は
「エヴァレー……」
「呼び捨て?」
エヴァレーの唇が
「……まあいいわ。
「ここは……」
「
ニコルの目の焦点が、戻った。
リルルが使っているよりも二段は
「
「僕は……」
「あの連中はザージャスの騎士団に所属しているくらいしか
「おかげで連中と一緒にできなくなったじゃない。一緒に寝起きしていればいつ殺されるかわからないわ」
「……僕はどうなるんだ」
「
近衛――主人の最も近くに
「貴方は見目もいいし、腕も立つのでしょう。
「…………」
「今日からすぐになんていわないわ。今日一日は寝ていていいから、体を休めなさい。かなり痛めつけられたのでしょう」
立ち上がったエヴァレーがニコルの布団を胸元までめくった。内出血のためか、紫色に染まった自分の胸板を見てニコルは寒気を覚えた。痛みが感じられないのは、感覚が
「
「……したくなかったからだ」
「泣いて
「…………」
「
「……僕を自由にしてほしい」
「それ以外」
「……水を。昨日の夜からなにも飲んでいない」
「わかったわ。お腹も
エヴァレーが背中を向けた。金色の髪が持ち主を追うように背中で揺れた。
「今日中に歩けるようになりなさい。でないと、今夜は
◇ ◇ ◇
てっきり家来か誰かに持ってこさせるものだと思い込んでいたニコルは、エヴァレー自ら
「どうぞ」
寝台の
「う……く…………」
「なに? 起き上がれないの?」
「腹筋に力が入らないんだ……。あと、声も出しにくい……」
「……治癒魔法の副作用でしばらく動けないとあの魔導士はいっていたけれど、相当なものね」
空白の時間が流れた。
「……
「誰か別の人を……」
「面倒くさいわね、まったく」
少女が重く深いため息を
次の
「
「…………!?」
「なるべくこの寝室には家来も入れたくないし、貴方を移動させるための支度もわずらわしいわ。
ニコルがいいたいのはそういうことでもないのだが、それを言葉にするには口が上手く動いてくれなかった。
「ほら、口を開けて」
いわれるがままに口を開く。
水を飲まされ、ニコルは次にエヴァレーの手がスープのカップを手に取ったのを見て、顔をしかめた。
「なによ、嫌そうに。失礼ね。――
「っ!?」
青天の
「死にかけている貴方に、誰が人工呼吸をしたと思ってるの? 騎士団のむさい男どもの方がよかった?」
「じょ……冗談じゃ……!」
「冗談ではないけれど、別にあなたに
「それは……そうで……」
「――ふふ」
怪我人に
「どうせ今日一日は
ニコルは自分の今の心境をどう表そうか、本当に苦悩した。
◇ ◇ ◇
ニコルの苦悩は、夜になって
エヴァレーの言葉通り、本当に二人で寝ることになったからだ。
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