「ニコルとエヴァレー」

 エヴァレーは大きく口の中に息を入れた。ニコルの鼻をふさぎ、閉ざされたまま動かないくちびるに自分の唇を隙間すきまなく被せる。初めて感じる他人の、しかも異性の唇の感触に、修飾しゅうしょくを使っている余裕もない。息を入れるのに邪魔なふたでしかないそれを、自分の唇で開けさせた。


「ふうっ!!」


 自分の中の命を吹き入れるように、エヴァレーは奥まで重い息を吹き込んだ。

 外から強制的に空気を注がれた分、ニコルの胸がわずかに上がる。少年の鼻から抜ける息が髪を揺らした。さらにもう一度、空気が入り込む様を頭の中でえがきながら息を入れる。


「自分で――自分で息をするのよ! ほら!」


 裸の胸の真ん中に重ねた両手を当てた。この時、押す力には思い切りが必要だと、救命処置を指導した教師はそういっていた。肋骨ろっこつを折るくらいの覚悟で行け、と。


「生き返りなさい!」


 上体の体重を全て押し込む勢いで、皮膚の下にある心臓をもむことを意識して、腕に力を落とし込んだ。矢継ぎ早の鼓動の調子をきざむように両の腕を押し、胸が沈み込む深さまでの圧迫を加え、戻し、また沈ませる――この連続。


 空気が抜けかけた人形のように、少女の手と床の間で少年の体が弾むようにねる。ニコルは顔の筋肉のひとつも動かさない。死人の顔を少女に見せているだけだった。


「生き返るのよ! ほら! さっさと目を覚ましなさい!」


 十数回の圧迫と開放を繰り返し、まだ効果がないと判断したエヴァレーは、再びニコルの唇を塞いだ。鼻をつまみ、少年の肺の位置を意識しながら息を吐く。肺の奥にまで新しい空気を送り込む。

 少年の胸がまたわずかにふくらんだ。が、自発的な呼吸は戻らない。もしかして、もう遅いのか――。


 そんな。自分はそこまでするつもりはなかった。当てつけに死ぬなんていうのは、ひどいではないか――。


「生き返りなさい――生き返って、お願いだから!」


 再び胸に両手を当て、祈るように腕を押し込んだ。肋骨に守られているはずの胸が、手応えがあるほどに沈む。呼び戻すように何度も何度も少年の胸を弾ませた。


「お嬢様!」


 騎士に連れられた屋敷詰めの医師がけ込んで来たのと、ニコルののどが破れるかのように開いたのとは、同時だった。


「かっ……は、ぁっ……!」


 窒息寸前の身が水面に浮上したかのように口が開く。空気を捕まえようと唇が開き、息を吸いたいのに吐いてしまい、吐いてしまいたいのに吸ってしまう――おぼれているかのように少年の体が大きく波打った。


「呼吸したわ!」


 額に浮いた汗を払うのも忘れている少女が叫んだ。


「お嬢様、お下がりください」


 エヴァレーが下がり、すぐさま医師が交替する。自分で大きくき込み続けるニコルの呼吸が続いているのを確認し、続いて手首に指をわせた。


「大丈夫!? 今まで、呼吸も脈も止まっていたのよ!」

「息を吹き返しはしたようです。医務室に運びますから、男手を――」

担架たんかよ! 誰か担架を持ってきなさい!」


 訓練所を飛び出し、エヴァレーは宿舎に向かって叫んだ。



   ◇   ◇   ◇



 ニコルの意識が戻ったのは、太陽が真上に上り詰めようかという正午の時刻、少し前だった。

 深い息を繰り返して眠っていたニコルが、カーテンを小さく揺らす風の手招きに気づいたように、うっすらと目を開ける。


「…………」


 天蓋てんがいが目に入る――が、その目に映ったものを頭が言葉に変換できない。


「う……あ、あ……?」


 かすかに深い青の色を落とした水色の瞳が、所在しょざいなげに彷徨さまよう。まだ思考が明瞭に戻ってはいない。実際、今この瞬間、自分の名前も思い出せない空白にあり――。


「目が覚めた?」


 かたわらからかけられた声に、脳の脇腹を刺激され、ニコルは二度三度、まばたいた。きりのようにぼやけていた頭の中の世界に、確かな輪郭シルエットが戻る。

 柔らかく軽く暖かな……おそらくは羽毛の布団。それに包まれたニコルが、目だけを横に向けた。


 手をばせば届く側、そんな間合いに、少女が座っていた。

 うっすらとホコリが積もった記憶の表面を払って、少年はつぶやいた。


「エヴァレー……」

「呼び捨て?」


 エヴァレーの唇がとがめるような形にゆが――んだが、次には、それに笑みが浮いていた。


「……まあいいわ。わたくし、あなたのやんちゃにもう疲れてるの。いちいち怒るのも面倒くさいから、許してあげる。感謝するのね」

「ここは……」

わたくしの部屋よ」


 ニコルの目の焦点が、戻った。


 リルルが使っているよりも二段は豪奢ごうしゃな天蓋付きの寝台の敷布団は、まるで体が浮いているような感触しかない。大きな窓に複雑な刺繍ししゅうが編み込まれた白いカーテン。不可思議な文様もんように彩られた毛の長い絨毯じゅうたん、壁一面をめる本棚にびっしりと詰められた書籍の数々――。


貴方あなたの個室なんて用意してないんだもの。初手で騎士団の逆鱗げきりんに触れちゃって、困ったことだわ」

「僕は……」

「あの連中はザージャスの騎士団に所属しているくらいしかほこるものがないのよ。それを一言で逆上ぎゃくじょうさせるとか、貴方も悪口の才能があるのね」


 なげいているのか楽しんでいるのか、どうニコルが受け取ればいいのかわからないふくみ笑いで、エヴァレーは脇にえた小テーブルに置いてあるカップを手にした。


「おかげで連中と一緒にできなくなったじゃない。一緒に寝起きしていればいつ殺されるかわからないわ」

「……僕はどうなるんだ」

わたくし近衛このえにしてあげる」


 近衛――主人の最も近くにはべることで護衛ごえいする者。


「貴方は見目もいいし、腕も立つのでしょう。わたくしの側にいなさい」

「…………」

「今日からすぐになんていわないわ。今日一日は寝ていていいから、体を休めなさい。かなり痛めつけられたのでしょう」


 立ち上がったエヴァレーがニコルの布団を胸元までめくった。内出血のためか、紫色に染まった自分の胸板を見てニコルは寒気を覚えた。痛みが感じられないのは、感覚が麻痺マヒしているからだろうか。


治癒ちゆ魔導士まどうしを呼んできて、三時間くらい治療ちりょうさせたのよ。わかってる? 貴方、一度死んだのよ。どうしてあの連中に屈服くっぷくしなかったの」

「……したくなかったからだ」

「泣いて平伏へいふくする態度を見せれば、連中だって貴方を殺すなんてしないわ。……貴方、そんな生き方でよく今まで命が続いてたわね」

「…………」

わたくしも別に、貴方を殺せと命じたわけではないのよ。……やり過ぎたわね。その点は謝るわ。なにかしてほしいことはある? 今なら、なんでも聞いてあげる」

「……僕を自由にしてほしい」

「それ以外」

「……水を。昨日の夜からなにも飲んでいない」

「わかったわ。お腹もいてそうね。なにか持ってきてあげる」


 エヴァレーが背中を向けた。金色の髪が持ち主を追うように背中で揺れた。


「今日中に歩けるようになりなさい。でないと、今夜はわたくしと二人でそこで寝ることになるわよ」



   ◇   ◇   ◇



 てっきり家来か誰かに持ってこさせるものだと思い込んでいたニコルは、エヴァレー自らぼんを抱えて帰ってきたことに声もなくおどろいていた。


「どうぞ」


 寝台のはしに寄せられたテーブルにそれはせられた。


「う……く…………」

「なに? 起き上がれないの?」

「腹筋に力が入らないんだ……。あと、声も出しにくい……」

「……治癒魔法の副作用でしばらく動けないとあの魔導士はいっていたけれど、相当なものね」


 空白の時間が流れた。


「……わたくしが貴方に飲ませないといけないわけ?」

「誰か別の人を……」

「面倒くさいわね、まったく」


 少女が重く深いため息をいた。

 次の台詞セリフに、ニコルはそれだけが自由に動かせる目を盛大にかされた。


わたくしが飲ませてあげるわ」

「…………!?」

「なるべくこの寝室には家来も入れたくないし、貴方を移動させるための支度もわずらわしいわ。わたくしが飲ませてあげればそれだけの手間よ。違う?」


 ニコルがいいたいのはそういうことでもないのだが、それを言葉にするには口が上手く動いてくれなかった。


「ほら、口を開けて」


 いわれるがままに口を開く。のどかわいているのは事実だったし、飲ませてくれるものを拒否きょひする理由もない。

 水を飲まされ、ニコルは次にエヴァレーの手がスープのカップを手に取ったのを見て、顔をしかめた。


「なによ、嫌そうに。失礼ね。――わたくしたち、唇を合わせた仲じゃない」

「っ!?」


 青天の霹靂へきれき、というよりは青天から落雷の直撃を受けたニコルが背筋を震わせた。


「死にかけている貴方に、誰が人工呼吸をしたと思ってるの? 騎士団のむさい男どもの方がよかった?」

「じょ……冗談じゃ……!」

「冗談ではないけれど、別にあなたにわたくしの初めての唇をささげたというわけでもないのよ。ただの人命救助。当たり前でしょう」

「それは……そうで……」

「――ふふ」


 怪我人に配慮はいりょがないのか、湯気がもうもうと立っているカップの中身は相当の熱さだろう。もちろん、それをスプーンにすくったエヴァレーは今、目の前で丹念たんねんに息を吹きかけてくれている。


「どうせ今日一日はひまなのよ。わたくしの相手をさせてあげる。――貴方、からかうには面白い相手だし」


 丁寧ていねいまされたスープを満たしたスプーンが寄せられ、口を開けろという無言の視線がニコルをとらえた。

 ニコルは自分の今の心境をどう表そうか、本当に苦悩した。



   ◇   ◇   ◇



 ニコルの苦悩は、夜になってさらに深まっていた。

 エヴァレーの言葉通り、本当に二人で寝ることになったからだ。

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