「決断と嘲笑」
深いマルーンの色調で統一された内装も調度が行き届き、座席も走行による震動のほとんどを減じてくれる馬車はさすが、公爵家が所有するものというべきものかも知れなかった。
「く…………」
ニコルの内心の
両側に肩を接するように座ってくれている男たちの圧迫感に、ニコルは息苦しさを覚え――さりげなくこちらの
つい数日前も、こうして夜の街を連れ回されたなと考える……が、今夜は少し勝手が
馬車は王都を東西に両断する大運河に
『いったい、どういうつもりなんだ……』
今は亡き父が作ったとされた借金など、
どういう
千二百万エル。ニコルの年収の二年分を軽く超えてくれる額だ。裕福でない我が家にそんな
現実的にどう対処するべきか。ここは
「伯爵令嬢と公爵令嬢に泣きつけば、なんとかなると思ってるな?」
ニコルは、
「なるほど、あの伯爵令嬢の家は金だけは持ってるし、公爵令嬢の家の方は権力も持ってる。いい知り合いに
「なに……」
「こんな目に
ニコルの息が、止まった。
「お前の近所の家々にも同じような話をふっかけてる。十軒ほどかな」
「なんだって!?」
ニコルの浮き上がった
「話の内容も額も似たり寄ったりだ。あの
「どうしてそんなことを……!」
「お前は、自分の家族よりも
運命が知りきっている小動物を追い詰める肉食獣のような笑みが、男の口の
「いくらお前のような男でも、いや、お前のような騎士道にガチガチの人間であればこそ、他人は巻き込めないだろ。――簡単なんだよ、お前のように自分の生き方にお堅い
「
「そりゃあ
話している間に馬車が少しずつ減速し、やがて停止した。
ニコルを挟んでいた二人の男が同時に扉を開けて馬車から降り、ニコルが腰を浮かす暇もなく扉を閉じた。外から
「――僕を閉じ込めるのか!」
とても体を入れられそうにはない大きさの窓が外から開かれ、口数が多い方の男が顔を見せた。
「ちょっとの間だけだ。ここで待ちな。エヴァレー公爵令嬢を連れてきてやる。ま、向こうさんが来る気になったらの話だがな」
「お前たちは、公爵令嬢の……」
「
男の顔が消えた。車がついた
窓からはよく整備された公園が、街灯の青白い光に照らされているのがほのかに見えた。
大規模災害の
馬車が走っていた速度と時間、曲がった方向と回数に景色を重ね合わせれば、ここが貴族の屋敷が集まる区画なのは明らかだった。王城の影が見えないのは、馬車が
待つしかない、という
一分が十分に、十分が一時間に思えるような心に長い長い時間を経て、少年の苛立ちが抑えきれなくなる
一台の馬車がニコルが乗る馬車にほとんど側面をこすりつけるほどの間合いで接近し、ピタリと隣り合わせに停車する。
窓と窓が見事なくらいにちょうど向かい合う位置に重なり、ニコルの目の前で、隣の馬車の窓が開いた。
「こんばんは。いい夜ね?」
「…………」
予告された通りの人物の顔が、窓の向こうに見えた。
「あら、最近の紳士は
馬車の窓と窓を挟んでエヴァレー・ヴィン・ザージャス公爵令嬢がその口元に
「これだけのことをされていれば、
「うふふふ! ずいぶんご
「――要求はなんだ!」
「いやね、夜の
エヴァレーの
「そうしたら、貴方が今直面している問題は、何故かきれいさっぱりなくなるわ。そういうカラクリになっているの」
「自分は、リルル嬢の……!」
「そのオモチャみたいなフォーチュネットの騎士団
扇がエヴァレーの顔の半分を隠しているが、その目の色と形だけで、表情の想像は
「伯爵令嬢や公爵令嬢に気に入られているからといい気になって、
「これは……!」
「断ってもいいのよ」
かばうように左襟の徽章に手を当てたニコルに、エヴァレーの冷たい瞳がその眼光を向けていた。
「貴方が住んでいる家を中心とした半径、十軒ほどが
「ぐ……!」
「返答のない場合は、
「わかった!」
叫んだ。喉から、裂けた心が流す血が出ないのが不思議だった。
「エヴァレー嬢、貴女のいう通りにする! だから、母や近所の人々を苦境に追いやるのだけはやめてくれ!」
「――いう通りにします、やめてください、でしょうが。敬語もロクに使えないの」
「貴女のいう通りにいたします! ですから、他のみんなを苦しめるのだけはやめてください!」
「物分かりがいいのね。感心だわ。――よろしいでしょう、証文に関しては全部無効だと触れ回ってあげる。これで貴方の近所の人間たちも、今夜は胸を
「…………!」
ニコルの体が、前に折れた。口元が制御できない震えに
今、自分がどんな顔色をしているのか、確かめたくもなかった。
「もう真夜中に近いけれど、屋敷の門は開けておいてあげる。今夜中にザージャスの屋敷までいらっしゃい。その前にひとつ、しておかなければならないことがあるわよね」
「しておかなければ、ならないこと……!?」
「その胸の徽章――ああ、時間がないからゴーダムの方は勘弁してあげる、外すだけでいいわ。そのフォーチュネット騎士団の徽章の方よ」
ニコルの心臓が氷に変わる。血管を通じて、
「リルルに直接返してきなさい」
ニコルの視界で、色が消えた。
「最後のお別れよ。きちんと挨拶をして、今まで世話になった礼をいうのね? それまで馬車は自由に使わせてあげる。ラミア列車の最終がなくなったなんて言い訳は聞きたくないから。
うつむいた顔を上げることのできないニコルの耳に、隣の馬車が走り出す音が響いた。
時間がない。早くすることをしてしまわなければ、間に合わないかも知れない。
「リ……ル、ル…………!!」
――そうはわかっていても、ニコルには、すぐにこの馬車を出させるという決断が、なかなかつかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます