「決断と嘲笑」

 深いマルーンの色調で統一された内装も調度が行き届き、座席も走行による震動のほとんどを減じてくれる馬車はさすが、公爵家が所有するものというべきものかも知れなかった。


「く…………」


 ニコルの内心の苛立いらだちとあせりにはおかまいなしに、走りだけは快適に馬車は夜の王都の街を進んでいった。


 両側に肩を接するように座ってくれている男たちの圧迫感に、ニコルは息苦しさを覚え――さりげなくこちらの抜刀ばっとうふうじてくれている油断のなさにもくちびるんだ。まあ、始めから剣を抜く気などはなかったが。


 つい数日前も、こうして夜の街を連れ回されたなと考える……が、今夜は少し勝手がちがうようだった。

 馬車は王都を東西に両断する大運河にかった鉄橋を渡り、西部に入ったようだった。二人の大柄な男にはさまれ、窓の外はよく見えないが、王都に住みれたニコルには、外に感じる気配でだいたいの推測すいそくはついた。


『いったい、どういうつもりなんだ……』


 今は亡き父が作ったとされた借金など、うそっぱちのものにちがいないとわかりきってはいたが、真実に法律が必ずしも真っ当に応えてくれるものでないことも、少年は知っている。

 どういう悪辣あくらつな手を使ったかは知らないが、あの紙切れには正当な効力があるらしい。


 千二百万エル。ニコルの年収の二年分を軽く超えてくれる額だ。裕福でない我が家にそんなたくわえがあるはずがない。が、応じなければ家屋も土地も取り上げられる。

 現実的にどう対処するべきか。ここははじしのんで、知り合いに借金を――。


「伯爵令嬢と公爵令嬢に泣きつけば、なんとかなると思ってるな?」


 ニコルは、あごね上がるのをおさえきれなかった。主導的な役割をになっているらしい左の男を横目でにらんだ。


「なるほど、あの伯爵令嬢の家は金だけは持ってるし、公爵令嬢の家の方は権力も持ってる。いい知り合いにめぐまれているな。だが無駄だぞ」

「なに……」

「こんな目にっているのが自分だけだと思ってるな?」


 ニコルの息が、止まった。まばたきが二度三度、り返された。


「お前の近所の家々にも同じような話をふっかけてる。十軒ほどかな」

「なんだって!?」


 ニコルの浮き上がったひざに、右隣の男が無言で手を被せた。太い腕の力にニコルは座席に押さえつけられた。


「話の内容も額も似たり寄ったりだ。あの界隈かいわいでなんとかその日暮らししている貧乏人どもは、今夜は心配で夜も眠れないだろうぜ」

「どうしてそんなことを……!」

「お前は、自分の家族よりも名誉めいよを取るかも知れない。自分の家が離散りさんするくらいは受け入れるかも知れない。……しかし、それが勝手知ったる知り合いが巻き込まれるとしたら? お前、一億エルを都合する自信があるか? いや、あってもいいんだ。こちらはいくらでも額を上乗せできる。ま、多少手間だが、十軒を二十軒に、二十軒を三十軒に――お前がやめてくれというまでいくらでもでっち上げられるんだ。それに付き合うか?」


 運命が知りきっている小動物を追い詰める肉食獣のような笑みが、男の口のはしに浮かんでいた。


「いくらお前のような男でも、いや、お前のような騎士道にガチガチの人間であればこそ、他人は巻き込めないだろ。――簡単なんだよ、お前のように自分の生き方にお堅い規則ルールをはめたがる奴を追い詰めるのはな」

卑怯ひきょうだぞ……!」

「そりゃあめ言葉だ。俺たちは卑怯を売り物に商売としているからな。有能っていわれたに等しい」


 話している間に馬車が少しずつ減速し、やがて停止した。

 ニコルを挟んでいた二人の男が同時に扉を開けて馬車から降り、ニコルが腰を浮かす暇もなく扉を閉じた。外からじょうがかけられる音が響く。


「――僕を閉じ込めるのか!」


 とても体を入れられそうにはない大きさの窓が外から開かれ、口数が多い方の男が顔を見せた。


「ちょっとの間だけだ。ここで待ちな。エヴァレー公爵令嬢を連れてきてやる。ま、向こうさんが来る気になったらの話だがな」

「お前たちは、公爵令嬢の……」

やとわれ者さ。俺たちゃ金で誰のためにでも働く。もちろんお前のためにも働くさ――向こうよりも金を払うことができたらな?」


 男の顔が消えた。車がついたおりに閉じ込められるようになったニコルは、頭痛がする額に手を当てながら息をしぼり出した。なにからなにまで向こうの手の内の中にある。

 窓からはよく整備された公園が、街灯の青白い光に照らされているのがほのかに見えた。


 大規模災害の避難ひなんのための空間スペースなのか、遊具などはない。噴水付きの池に整えられた花壇かだんが見える。明るい時間であれば色とりどりの花々が目を楽しませてくれるのだろうが、今は薄暗うすぐらさのさびしさしかなかった。


 馬車が走っていた速度と時間、曲がった方向と回数に景色を重ね合わせれば、ここが貴族の屋敷が集まる区画なのは明らかだった。王城の影が見えないのは、馬車がめられている方向のせいなのか。


 待つしかない、という状況じょうきょうは、想像以上に人の心をけずり、せさせる。

 一分が十分に、十分が一時間に思えるような心に長い長い時間を経て、少年の苛立ちが抑えきれなくなる頃合ころあいを計ったように、馬蹄ばてい石畳いしだたみたたく音が遠くから響いて来た。


 一台の馬車がニコルが乗る馬車にほとんど側面をこすりつけるほどの間合いで接近し、ピタリと隣り合わせに停車する。

 窓と窓が見事なくらいにちょうど向かい合う位置に重なり、ニコルの目の前で、隣の馬車の窓が開いた。


「こんばんは。いい夜ね?」

「…………」


 予告された通りの人物の顔が、窓の向こうに見えた。


「あら、最近の紳士は挨拶あいさつもできないの」


 馬車の窓と窓を挟んでエヴァレー・ヴィン・ザージャス公爵令嬢がその口元におうぎを当てながら、心底に愉快ゆかいそうな笑みを目に浮かべていた。


「これだけのことをされていれば、貴女あなたにそんなことをする気にはなれない。エヴァレー嬢」

「うふふふ! ずいぶんご立腹りっぷくなのね。まあ、仕方ないわね。二週間後には確実に路頭ろとうに迷う身ですもの。とてもとても同情するわ」

「――要求はなんだ!」

「いやね、夜のい引きだというのに風情ふぜいのないこと。まあ、いいわ。貴方あなたも時間のない身ですもの。単刀直入に申し上げるわ。――ザージャスの騎士団にいらっしゃいな」


 エヴァレーの不興ふきょうを買った経緯いきさつからそんなところだろうとは思っていた。ニコルの想像を超えるものではなかった。


「そうしたら、貴方が今直面している問題は、何故かきれいさっぱりなくなるわ。そういうカラクリになっているの」

「自分は、リルル嬢の……!」

「そのオモチャみたいなフォーチュネットの騎士団徽章きしょうを引きがすのが目的だもの。貴方はわたくしわれることになる。個人的にリルルとうことなどもってのほか。犬みたいなあつかいを与えてあげるわ――まさか、断る気ではないわよね?」


 扇がエヴァレーの顔の半分を隠しているが、その目の色と形だけで、表情の想像は容易よういだった。


「伯爵令嬢や公爵令嬢に気に入られているからといい気になって、わたくし矜持プライドに触れたりするからよ。ああ、そのゴーダム公爵ゆかりの徽章も外してくださる? そんなものを見るのも不愉快なの」

「これは……!」

「断ってもいいのよ」


 かばうように左襟の徽章に手を当てたニコルに、エヴァレーの冷たい瞳がその眼光を向けていた。


「貴方が住んでいる家を中心とした半径、十軒ほどが更地さらちに変わるだけ。あのゴミためみたいな界隈がさぞかしすっきりするでしょうね。それだけの近所の知り合いを困らせる気? 貴方のわがままで? わたくしはどちらでもいいわ。――あと、一分で決断しなさい」


「ぐ……!」


 喉元のどもとやいばを突き立てられている心地に、腹の底からのうめきが出た。二人の愛し、敬愛する少女との決別を迫られているという事態に、心がはがねの糸でめ上げられた。


「返答のない場合は、拒否きょひと受け取ってわたくしはこのまま帰らせてもらうから。どうなさるの? ――あと三十秒しかないわよ」

「わかった!」


 叫んだ。喉から、裂けた心が流す血が出ないのが不思議だった。


「エヴァレー嬢、貴女のいう通りにする! だから、母や近所の人々を苦境に追いやるのだけはやめてくれ!」

「――いう通りにします、やめてください、でしょうが。敬語もロクに使えないの」

「貴女のいう通りにいたします! ですから、他のみんなを苦しめるのだけはやめてください!」

「物分かりがいいのね。感心だわ。――よろしいでしょう、証文に関しては全部無効だと触れ回ってあげる。これで貴方の近所の人間たちも、今夜は胸をで下ろして眠れるというわけね」

「…………!」


 ニコルの体が、前に折れた。口元が制御できない震えに戦慄わななき、歯の根が打ち鳴らされるのが止められない。鼓動こどうは乱れに乱れ、髪の生え際からは汗がみ出し、頭を抱えるニコルの手の平をらした。

 今、自分がどんな顔色をしているのか、確かめたくもなかった。


「もう真夜中に近いけれど、屋敷の門は開けておいてあげる。今夜中にザージャスの屋敷までいらっしゃい。その前にひとつ、しておかなければならないことがあるわよね」

「しておかなければ、ならないこと……!?」

「その胸の徽章――ああ、時間がないからゴーダムの方は勘弁してあげる、外すだけでいいわ。そのフォーチュネット騎士団の徽章の方よ」


 ニコルの心臓が氷に変わる。血管を通じて、氷水こおりみずが通い出した錯覚を覚えた。


「リルルに直接返してきなさい」


 ニコルの視界で、色が消えた。光と影の世界モノクロに変わった。


「最後のお別れよ。きちんと挨拶をして、今まで世話になった礼をいうのね? それまで馬車は自由に使わせてあげる。ラミア列車の最終がなくなったなんて言い訳は聞きたくないから。わたくしが待ちくたびれて眠ってしまう前に来るのよ――おわかりね?」


 うつむいた顔を上げることのできないニコルの耳に、隣の馬車が走り出す音が響いた。

 時間がない。早くすることをしてしまわなければ、間に合わないかも知れない。


「リ……ル、ル…………!!」


 ――そうはわかっていても、ニコルには、すぐにこの馬車を出させるという決断が、なかなかつかなかった。

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