「フィルフィナの祈り」

「こんな……こんなはずがない! 私の方が力も腕もまさっているはず! こんなはずがないわ! 私が貴様などに負けるはずがぁっ!!」


 ティターニャが吐き捨てた。吐き捨てないわけにはいかなかった。千切ちぎれた腕の断面から、小さなコップで受けるにはあふれるくらいの血がどぷん、どぷんと噴き出し続け、見る見るうちに血だまりを足下に広げていった。


「まだわからないのですか? あなたが負けたのは、力とか腕とか、そういう問題ではないのですよ」

「だったら、それはなんだというの!」

「どうせあなたには、自分の命よりも大事なものなどないのでしょう……」


 フィルフィナがつぶやく――目の前にいる闇の眷属けんぞくあわれむように。


「あなたにはなく、わたしにはあった。それだけのことです」

「はああ……!?」

「わたしはそのために死ねるし、それをたすためにも死ねない。自分のためにしか力を振るえない者など、最初からわたしの敵ではないのですよ――聞いていますか?」

戯言たわごとを!」


 顔の全てをゆがめきったティターニャが身をひるがえす。


「西の森の王女――この場は退いてあげるわ! でもね、私は再び貴様の前に姿を現す! その時は貴様を私の前にひざまずかせ、自分から私の足の指にしゃぶりつかせるようにしてあげるわ――この置き土産みやげを、どうにかできたらね!」


 目の前に落ちている自分の腕を残った右腕で拾い上げ、ティターニャは鬼気迫る形相ぎょうそうでなにかをつぶやいた。それは呪詛じゅそを歌い上げる、魔の呪術師じゅじゅつしのようだった。


 五秒の時間をかけて呪文の羅列られつを並べ立て、千切れた腕を地面に叩きつける。瞬間、その左腕が黒い光を発してフィルフィナの視界の全面をおおった。


「うくっ!」


 闇とも光ともつかない閃光せんこう炸裂さくれつにフィルフィナが思わず目をまばたき、そして開いた時、そこにはダークエルフの姿はなく――代わりに、一体の黒い鎧騎士が立っていた。

 巨大な金属の塊を彫り上げた、威圧感いあつかんさえある巨躯きょく。その背はフィルフィナの二倍を軽く超える――かぶとのぞき穴の向こうに、深淵しんえんをたたえた頭部。その奥で、赤い輝きが一つ目のように灯っている。


「……置き土産ですか。ちょっと、結構すぎるシロモノですね……」


 フィルフィナは力なく、うすく笑った――もう、矢がない。

 拳銃の残弾はいくらかあったが、火薬と鉄の力でどうにかできる相手とも思えなかった。


 人の筋力では支えられないような重装甲じゅうそうこうで構成されたその甲冑かっちゅうの姿には、人の気配がない。いや、そもそもフィルフィナの背丈の二倍もあろうそれが、人間であろうはずもない。


 完全なる魔の者。魂を闇に置いたそれが、ゆっくりと歩み始めた。死までの距離きょりを詰める前進だった。


「さあ、どうしましょうか……」


 距離きょりはまだ、百メルトは優にある。フィルフィナは間合いを取ろうと足を動か――そうとして、その場でひざを折りかけた。


「……虚勢きょせいですか。まあ、実際、虚勢だったんですけれどね……」


 弓をつえにし、フィルフィナはかろうじて体を支えた。鎧騎士の前進は止まらず、ゆっくりとだが、確実に距離を詰めてくる。その右手ににぎられている大剣もフィルフィナの背丈を超える長さを持っている――たとえ刃がついていなくとも、その重量で容易よういに叩きつぶせるだろうほどのもの。


「参りましたね……これは……本物の爆弾を用意しておくべきでした……」


 弓を捨て、フィルフィナは短剣を抜いた。膝は完全に笑っていて、両の脚で体を支えるのが精一杯だ。歩くことさえ覚束おぼつかない。


「すぐに、お嬢様の援護えんごけつけたかったですが……これは、もう……」


 金属と金属がこすれ合う音が近づいてくる。おそらくは肉体が入っていないであろうあの巨大な金属のかたまりに、小兵こひょうの自分が白兵戦でどれだけあらがえるか――矢の一本でも残っていれば、あの頭を吹き飛ばしてやれるのに!


「……お嬢様、申し訳ありません。フィルはもう、お嬢様のお役に立てないかも知れません。もっともっとお側にいたかったのに。せっかくお嬢様に拾っていただいた命を……」


 間合いが詰まる。七十、六十、五十、四十……。


「……ですが、フィルはお嬢様より先に死ぬと決めていました。お嬢様、どうかご無事で。どうかお幸せに。この罪深きフィルは、天の国に行けるお嬢様に、おつかえすることはかなわないでしょう。それが……」


 騎士の影――は差してこない。しかし、太陽がある世界ならばその影が投げかけられるほどの距離にもう、その騎士は接近していた。

 大剣がゆっくりと振り上げられる。機械的にそれが下ろされた時、フィルフィナの命はくだけ散る。


「……それが、それが本当に悲しいわ、リルル……」


 フィルフィナが、震える手で構える短剣を、下ろす。目を閉じる。

 最期に残された最後の一瞬まで、今は、ただ祈っていたかった。


「リルル、さようなら……」


 閉じられた少女の目の端から涙があふれ、こぼれ――。

 ――風が、吹いた。


「――――」


 金属が破れ、くだかれ、引き裂かれる音がフィルフィナの耳に響いた。


「あ…………!?」


 全てを受けれるつもりでうなだれていたフィルフィナが両目を開き、そのあごを上げる。

 彼女の目の前で、頭を失った鎧騎士の体がゆっくりと横にかしぎ、倒れ、呆気あっけなくその四肢ししを分解させた。


 事態を飲み込めずにアメジスト色の瞳を見開いているフィルフィナの視界の中、鎧騎士の姿が消えた向こうに――銀色の甲冑かっちゅうに身を包んだ人影があった。


「――フィル!」

「ニコル様……!?」


 フィルフィナの瞳に映るニコルの姿が、溢れ出す涙で大きくにじむ。少年の周囲をたわむれるように飛び回っていた一本の剣が少年の目の前で静止し、ニコルの手がそのつかを握った。


「よかった、間に合った! ――フィル、無事かい!」

「……ああっ」


 糸が切れたあやつり人形のように、フィルフィナがその場に倒れ込む。


「フィル!」

「ニ……ニコル様……」


 仰向あおむけに倒れ伏したフィルフィナを、側でひざを着いたニコルが抱き上げ、その小さな上体を膝に乗せる。


「フィル、しっかりして!」

「ああ、ニコル様。フィルはダメです、もう死にます」

「なにをいってるんだ! リルルの所に帰らないといけないのに!」

「ニコル様、いい残したいことが……顔を、顔を寄せてください……」

「フィル!」


 反射的にニコルがフィルフィナの顔に自分の顔を寄せ、フィルフィナがつぶやいた。


「――すきあり」


 くちびるを尖らせたフィルフィナがニコルの唇を狙って身を起こし、ニコルがフィルフィナの体の下から膝を抜いた。獲物えものをついばみそこねたフィルフィナの上体が、地面にドタッと倒れる。


「――ちっ、防御ガードかたいですね……」

「ちっ、じゃないよ! 元気じゃないか!」

「いいじゃないですか、たまにはメイドにおこぼれがあっても……。じゃあ、ニコル様がキスを交わさせてくださるなら、それで気を済ませます。ほっぺでいいです」

「……唇はダメだからね!」

「信じてください、唇は・・ねらいません」

「あああ……あとでまたリルルに謝らなくっちゃ……」


 顔を赤らめたニコルがフィルフィナの上体を起こし直し、フィルフィナが約束通りニコルのほおに唇を当てた。


「では、ニコル様も」


 軽く顔を横に向け、フィルフィナは自分の頬の一点をちょんちょんとつつく。


「……やっぱり、しないとダメかな?」

「ひどい、ニコル様は騎士でいらっしゃるのに、淑女しゅくじょとの約束を反故ほごにするのですか?」

「ううう……」


 騎士と淑女という言葉を並べれば抵抗できないだろうというフィルフィナの予想は、当たった。その片目を閉じて困り切った表情を浮かべたニコルが、はぁとため息をらしながらフィルフィナの頬に唇を寄せた。


「……くれぐれも確認するよ! 唇はダメだからね!」

「わかっています。ほら、早く早く」

「あああ、もう……」


 慎重しんちょうにフィルフィナの頬に狙いを定め、ニコルはゆっくりと唇を落としていく。

 そのフィルフィナが首を振ったのにニコルが反応できなかったのは、ニコルが警戒していた向きとは反対・・だったからだ。


「――――!」


 自分の唇が触れているものを見て、ニコルがその目をいていた。


「ふふふ……」


 横目に見えるニコルの顔が真っ赤に照れ上がっているのと、自分の耳・・・・に当てられている感触の正体を確認してフィルフィナは勝ちほこった。


「ニコル様、ついにやってしまいましたね……」


 フィルフィナの髪の間からはみ出た耳の先端が、少年の唇に触れている。尖った形状フォルムの耳を唇の先で軽くついばむような姿のまま、息がまっているニコルが、完全に固まっていた。


「ふふふふ……あとで調べておそれおののくがいいですよ――エルフの耳にキスをするということが、いったいどういうことを意味するのか!」

「事故だ! わなだ! 陰謀いんぼうだ!」

「ニコル様、人間とエルフの間は妊娠にんしんがしにくい間柄あいだがらですが、フィルははげみます! 下手な弓矢も数ちゃ当たるといいますし、ええ、それこそ毎晩毎晩毎晩毎晩試行回数を重ねに重ねれば――」

「ああ、もう!」


 ニコルは膝の上のフィルフィナを放り投げた。


「冗談はこれくらいでいいよ! フィルもちゃんとして!」

「もう、つれない。ニコル様もフィルのことを愛していらっしゃるくせに」

「いいから!」

「仕方ないですねぇ」


 いいながらフィルフィナは微笑ほほえむ。久しぶりに心がしんから暖かくなる感じがあった。

 顔の火照ほてりを冷ますのに少しの時間をかけ、わざとらしい咳払せきばらいをひとつしてから、ニコルが居住いずまいを正した。


「――フィルの反応がこっちだったということは、向こうにいるのはリロットというわけか……」

「はい、救援に向かわないと。――ここまで来られたのは、ニコル様お一人なのですか?」

「こっちに来れたのは僕だけだ。途中で国王代理殿下をお救いした。自力で王城の方に戻られていると思う」

「ああ……コナス様を! ご無事でいらっしゃったんですね……」


 フィルフィナの心がもう一つ軽くなる。単純によかった、と心から思えた。正直、その命を救うのは絶望的だと思っていたからだ。


「ここからあの竜の所までたどりつくのは、ずいぶん距離があるな……」


 ニコルが振り返る。大要塞のような威容いようを見せている竜の巨体が、距離感がわからなくなるほどの遠くにあった。


「急いで参りましょう――といいたいところですが、わたしももう、体が半分限界のようです……」

「フィル?」

「……ニコル様、先に行ってください。少し休んでから、フィルもきっと追いつきますから」

「わかった、じゃあ、僕が先行して――」


 そういったニコルが歩を進めようとして――体重をかけた足首が不自然に曲がった。自分が体勢をくずしたことに気づく前に、ニコルの体がその場で横倒しになる。


「ニコル様!」


 フィルフィナがふらつく足で駆け寄った。倒れたままの体を直せず、ニコルが疲労の色をその額にかげらせた。


「……体がどっと疲れて、力が出ないんだ。まだまだ戦いは、これからかも知れないっていうのに……」

「ニコル様、先ほどわたしを助けていただいた時に使っていた、宙を舞う剣――あれはわたしの母から渡されたものではないですか!」

「そうだよ。あれのおかげで強引に迷宮を突破できた。そうでなければ、今頃迷宮をぐるぐると彷徨さまって……」


 フィルフィナに支えられ、ニコルが体を起き上がらせる。その額と頬が汗でぐっしょりとれていた。


「あれは使うのに、持ち主の精神力と体力を相当量けずるのですよ! 無茶をなされて……!」

「そうしないと、殿下もフィルも助けられなかったよ。僕は、みんなを守らないといけないんだ……」

「わたしが肩を貸します。――リロットの元に向かいましょう。休んでいるひまはありません」

「……そうだね。フィル、すまない……」

「なにをおっしゃるのです。ニコル様、あなたは本当に立派な騎士でいらっしゃいます。このエルフの王女が――いえ、メイドが保証いたしますよ」

「ははは……心強いな……」


 ニコルとフィルフィナが、たがいを支え合うようにして歩き出す。その歩みは速くはないが、たどりつかねばならない。

 あの先ではきっと、ふたりが愛する少女が、ひとりで戦っているにちがいないのだ。

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