「ベクトラル邸、炎上」

 夕闇の薄暗い空が、しゅオレンジ色の境目さかいめまる北の方角。明らかに凶兆きょうちょうを示すその色が、リルルとフィルフィナの心を不安にさせた。


 大規模だいきぼな火事。そしてあの方向は王城……その向こうにある、貴族の邸宅街――。


「……私、見てくるわ!」

「お嬢様!?」


 フィルフィナが声を上げた時には、リルルは右手首の腕輪から魔法のメガネを取り出していた。

 フィルフィナが止める間もない。そのメガネはリルルの目にまり、地味な色合いだった青いツーピースドレスの姿が、強烈な発光の中にき消える。


「いけません! 危険です!」

「フィルは屋敷に帰っていて!」


 光がおさまったと同時に、魔法のかさが広げられた。メイドの細い腕がびるが、その手は風に乗るようにして舞い上がる薄桃色のドレスのスカートの端さえ、つかまえることはできなかった。

 快傑令嬢リロット――リルルの体は、またたく間に細い路地ろじはさむ建物の屋上に達し、そのまま北の方角を目指して飛ぶ。


「お嬢様!」


 もう小さな点になってしまった主人を追おうか、とフィルフィナも魔法の傘を取り出そうとするが、自分の服装を思って躊躇ためった。日常の延長上のこの格好かっこうで空を飛ぶのは、目撃されれば危険だろう。しかし、追う手段が他に――。


「まったく……本当に考えがないんですから……!」


 路地から飛び出し、フィルフィナは空を見上げた。薄桃色のドレス姿は空のどこにも確認することはできないが、目的地はだいたいわかっている。


「コナス様の身になにかあったと心配になられたのでしょうが……これはちょっと、追うのはきついですね……」


 コナスの屋敷まで、距離きょりはたっぷり十二カロメルトはある――歩けば三時間、走っても一時間弱はかかるほどだ。なか途方とほうれ、それでもフィルフィナはリルルを追う――追いつけるはずはないとわかりながら。


「あら?」

「――――あ」


 惰性だせいのまま走り続け、人通りの多い通りまで足を運んだフィルフィナは、脇からかけられた声に足を止めた。

 足を止めるにあたいする声だった。


「こんな時間に、こんな所でどうしたの?」

「あなたは――」


 フィルフィナの切れ長の鋭さを気配をうかがわせる目が、細められた。



   ◇   ◇   ◇



 リルルは自分の勘の鋭さをのろっていた。

 リロットの姿で魔法の傘を広げて飛べば、王都のはしから端まで飛ぶのに十分とかからない。

 王都の北西の区域をめる、王城を取り囲むように建ち並ぶ貴族の高級住宅地。


 そこに差し掛かるはるか前に、上空のリルルからは、異変の全貌ぜんぼうを確認することができていた。


「ベクトラルていが……コナス様のお屋敷が!!」


 その一角が、地獄を思わせる猛炎もうえんに包まれていた。

 広い庭、頑丈がんじょうで分厚い塀が緩衝かんしょうとなって周囲への延焼えんしょうを食い止めているが、屋敷そのものは巨大なそのものだった。猛火もうかが発する熱に、野次馬さえも近づくことはできない。


 周辺の邸宅の人間たちが飛び出し、自分たちの屋敷の塀に水をかけている――ベクトラル邸を消火しようとする者たちはいない。消火できるとは思えない火勢かせい


「コ……コナス様はいらっしゃるの!? い、いいえ、留守であっても誰かがいるはず!」


 コナス・ヴィン・ベクトラルがあるじつとめる屋敷。伯爵邸でありながら公爵なみの規模をほこる大邸宅。ここを面会式のためにおとずれたのは何日前か――一晩を過ごすという経験さえした屋敷が今、目の前で燃えている。


 窓という窓から、無数の腕のようにびる炎がき出される。

 唯一ゆいいつ燃えずに残っているのは、中央に一本だけある尖塔せんとう――炎に巻かれていないのはそこくらいかも知れない。だが、リルルはまっすぐに一階に向けて下りていった。


 左腕の銀の腕輪の力を意識しながら、扉が焼けくずれ、その向こうが炎に満たされている玄関に飛び込む。


「――誰か! 逃げ遅れている方はいませんか!」


 ものすごい密度の炎と煙は、わざわざ自分から飛び込んでくる格好かっこう獲物えものに巻き付こうとするが、リルルの周囲に張られた見えない壁がそれを弾き飛ばす。


「な……なんて熱さなの…………!」

 

 体を焼きにくる熱気で邸内は充満している。魔法のドレス、その効力を増幅させる銀の腕輪の力で熱を払いけているはずなのに、体があぶられていると思える熱だった。まだ呼吸もある程度はできるが、限界に達するまでの能力はよくわからない――長居は厳禁げんきんだ。

 濃霧のうむのように立ちこめる炎、煙が視界をさえぎる。視界は腕二本分くらいの距離きょりしかない。


「っ!」


 眼前、高熱の前に崩れた建材が、割れたビスケットのように降って来る。その直撃も、リルルを包む見えない壁が弾いた。


「けふっ、けふっ…………!」


 少しずつではあるが次第に息が苦しくなってくる。見えない壁の内部の空気が、あっという間に不足してくるのがわかる。

 早くしなければ、とあせりながら玄関ホールに足をみ入れた途端とたん、リルルは見ていた――床に倒れている数人の姿を。


「しっかりして! 大丈夫ですか!」


 身だしなみがしっかりしている、執事らしい初老の男。腕を伸ばしながらうつ伏せに倒れ、身じろぎもしていない。その体を抱き起こそうと手を触れたリルルは、見開いた目で見た。


「っ…………!!」


 その体の背中に短剣が、まるで自分を見ろとばかりに深々と突き立てられているのを。


「ひぅっ……」


 のどが奥で鳴る。ものすごい炎の中で、体は冷たい――死んで・・・からいくらかっている!

 この手で触れる見知らぬ他人の死体に、寒気がリルルの神経の全てを震わせる。リロットの姿で死体を見るなど、初めてのことだった・・・・・・・・・――全く動かない体に触れ続けるのが怖くて、リルルはその体から逃げるように離れた。


「みんな……みんな、殺されている……!?」


 他に倒れている十数人も同じだった。全員が深い刺し傷を急所に受け、命をたれていた――リルルでもこの場で何があったか、わかる。

 何者かによって皆殺みなごろしにった上で、屋敷に火が放たれている!


「だ……誰か! 誰か生きている人はいませんか……!」


 救いを求めるように声を上げると同時に、激しくき込んだ。同時に、重い眩暈めまいが脳の真ん中を叩く。

 このままでは、誰かを助けるどころか、自分が焼死する前に窒息ちっそく死してしまう、その恐怖がリルルに階段をけ上らせた。おぼろげではあるが、屋敷の構造は頭の中に入っていた。


「くぅぅ、う、うう……!」


 メインホールの階段を上り切れば、尖塔に出られる。そこから飛び立てば脱出できる――息苦しさに喉をれさせながらリルルは階段を上りきり、


「――――誰っ!?」


 尖塔の最上部の物陰でうずくまっている人間の丸まった背中が見え、反射的に体をおびえさせた。


「う、うう……」


 細い息がれるような音が耳に聞こえる。体を起こすことも振り返ることもできないのか、その体は震えているだけだ。


「――あなた!?」

「き……き、君は……」


 覚えがある小太りの中肉中背の体形、これも印象にある黒い髪――それだけで頭の中の像と一致した。


「リ……リ、リロット……?」

「ああ…………!!」


 リルルは思わず声を上げていた。尖塔の端、隠れるように体をちぢめていたのは――この王都にはいないはず・・・・・・・・・・・のコナス・ヴィン・ベクトラルだったからだ。

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