「ふたつの咆哮」

 ニコルが、えた。

 声にならない周波数しゅうはすうの声を上げて、吠えた。


「――――――――!」


 リルルの首を片手でつかみながら、立ち上がる勢いで少女の体を高々とかかげる。

 その顔にかぶされていた仮面が割れ、怒りの、いきどおりの、憎しみの、悲しみの色彩しきさいが渦を巻く表情が現れ、その口が大きく開いて声をほとばしらせた。


 少年の腕一本でられるリルルは、両方の腕をらし、あらがいもしない。

 息の一滴も肺に入れられなくても、その顔は、慈愛じあいをたたえた微笑みに満ちていた。

 あらゆる運命を受け容れるように、次に来るだろう局面に、存在の全てをさらしていた。


 音として響かないニコルの声が、感情の色に汚れて、音となった。


「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ――――――――!!」


 少女の体を吊っていた腕が大きく旋回せんかいし、つかんでいた体を遠くに投げ捨てる。リルルの体はねもせずに倒れた。

 おおかみのように歯をき出しにしてうなったニコルはもう一度大きく吠え――そして、その首を拘束こうそくしている金の首輪に手をかけた。


『――あなた!?』


 おびえた声が金の首輪から発せられる。驚愕きょうがくが音として震えているのがわかる。


『なにを――なにをしようとしているの!? やめなさい!! 自分で死にたいの!?』


 青に戻っていたニコルの瞳が再び、赤に染まる。裏から光を通しているかのように、濁った激しい赤の光に輝く。


『首輪の暗示に逆らえるはずがないわ! 狂い死にしたくないなら、やめるのよ!!』


 だが、その色を帯びながらもニコルは再び、吠えた。


「うあ……ああ、ああ、あああああああああああぁぁぁぁぁ――――――――!!」


 指がかかっていた金の首輪――細い鎖と鎖の繋ぎ目が大きくゆがんだ見えた瞬間、輪は二つに引きかれた。首から細い輪がもぎ取られるように外れ、少年の手がそれをちゅうに放り投げた。


「――――――――」


 その瞳から光を失ったニコルの体が、全ての力を失いゆっくりとかしぎ――倒れた。


『バ……馬鹿な……!』


 空中高く投げ上げられた金の首輪のかけらが、まだ声を発していた。自分の身に起こったことを理解できないというように。


『ただの人間に、ただの人間にこんなことができるわけが……!』

「それもまた、人間である――」


 上から声が降りそそぐ。――今まで、この場には存在しなかった声!


「それを理解ろうとしなかったあなたの、それが限界なのですよ!」


 次の瞬間、流星よりも速く放たれた二本の矢が空中の首輪を直撃し、その破片を粉砕ふんさいした。


「フィル!」


 体を起こしたリルルが声を上げる。救いの主が来た、という喜びがその顔にあふれていた。

 大きく宙を飛んできたフィルフィナが地面に降り立つ。弓を手にしたその小さな体がすっくと立ち上がり、覆面が払われた。


「お嬢様、よくがんばりました! ニコル様を!」


 フィルフィナの声に背中を押され、リルルは走った。うつ伏せに倒れているニコルを抱き起こす。


「ニコル、ニコル! しっかり、しっかりして――!」

「お嬢様、あまり揺さぶってはいけません」


 け寄ってきたフィルフィナがかたわらでひざを着く。もう声すららさず、まぶたを固く閉ざして微動びどうだにしないニコルの呼吸を確かめて脈を取り、そのまぶたを指でこじ開けて瞳を観察する――瞳孔どうこうは、さほどひろがってはいない。


「――大丈夫、意識を失っているだけです」

「ああ……」


 リルルはニコルの瞳の色に、緊張きんちょうの全てが雪のように溶けていくのを感じた。瞳は少し大きくなっていたが、その色はいつものニコルのもの、湖面を思わせるい水色のそれに戻っていた。


「ですが、安静にさせておかなければなりませんよ」

「……ニコル……よかった、よかった……」


 その上体を抱き寄せ、リルルはニコルの頭をその胸と腕で抱きしめた。


「ああ……ニコル、ニコル、ニコル……私のニコル、私だけのニコル……」

「お嬢様、ひとめはよくありませんよ。独占禁止法を知らないのですか」

「だって、ニコルは私のものよ。私だけのものだもの……」

「ですから、たまにはメイドにもお裾分すそわけを下さいませ」


 主人の了解を得る前に、フィルフィナも反対側からニコルの頭を腕と胸で抱きしめた。


「ああ……ニコル様、ようやくこのフィルフィナの胸に帰ってきて下さって……」

「いつあなたの胸にニコルがいたの!」

「六歳ごろのニコル様を、おりれてぎゅっと抱きしめたりしていたんですよ。物陰とか暗がりに引きずり込んだりして――知りませんでした?」

「今初めて聞いたわ!」

「ああ……ニコル様の頭の形は、あの日抱いた時のまま……」

「うっとりしないで!」


 ニコルを抱く二人の背中で、ふぅぅぅぅん……と、遠く、彼方でなにかが共鳴し合うような音が響いた。反射的に二人は振り返る。


「あれは……」


 リルルが目をこらす。遠くでなにかが輝いている――距離きょりは遠く、よくは見えない。よくはわからないが、そこには近づいてはいけないという予感、というよりは、記憶めいたものがあった。

 フィルフィナの顔から、喜びの色ががれ落ちる。


「ここは『結節の空間』。何があってもおかしくはないですね……」

「『結節の空間』……?」

「わたしたちエルフにも言い伝えられている『魔界』との接点せってん――。それが、王城の真下に存在するとは……」

「それは……」

「ここから早く脱出しましょう。今は、ニコル様を無事に届けなければ」


 リルルの疑問を打ちきって、フィルフィナが指より少し細いくらいの円筒状の物体を取り出した。即席そくせき転移鏡てんいかがみを作るための魔法の道具だ。作った十秒後くらいには消えてしまうようなシロモノだが――。


 透明の床の面にフィルフィナがそれの先端を当てた、その途端の瞬間タイミングだった。


「えっ……!?」


 甲高かんだかい共鳴音が響いていた――という認識が、揺らぐ。鼓膜こまくを震わせていたものが次第に低い音の響きに移行していき、次には肌を、皮膚ひふを震わせる響きになっていく。

 遠くで微かにまばたいていた光がその輝きを増し、はっきりとした光の動きになっていく。


「フィル……!」

「急ぎます!」


 あわただしくフィルフィナが床に線を引き始め、長方形のうちに三辺を引きかけた所で、体を震わせてきていた音は次の形態けいたいに変化した。


「きゃぁっ!」


 音が、爆発的に震えた。鼓膜どころか体の全部を平手で叩いてくるような音、同時に足元からの激しい揺れにリルルが姿勢をくずす。腰を半分浮かせていたフィルフィナがつんのめって床に手を突いた。


「じ……地震……!? それにこの音は!?」

「これは、地震ではありません! ――なにかが来ます!!」

「なにか、って…………!!」


 全てのものを震わせる轟音ごうおんが伝わってくる方向、そこにリルルは目を向け――。


 そして、見ていた。


「――――っ!?」


 巨大な獣の腕・・・・・・が、そそり立っていた。

 巨大――巨大だろう。

 はっきりしない遠近感のために距離感が狂っていたが、それはどうひいき目に見ても、高層アパートを軽々と超えてしまう高さの、長さのものに見える!


「な、なによ、あれは!!」


 腕――いや、生物のような生々しい腕ではない。固い無機質な、建造物めいた存在感。焼きげた石材の色をした岩のような色――いて、強いていうならばそれは、『城の腕・・・』に見える!


 伸びた腕は次には振り落とされ、重い石材をつなぎ合わせたような『手』が、地面となっている境界面に叩きつけられた。凄まじい地響きにリルルたちの体がねる。


「――――!!」


 少女の目が、いっぱいに、見開かれていた。

 穴からい出すように地面をつかんで自分の体を支え、次に勢いをつけて出て来たのは――、


「あ………………!?」


 頭――頭に見える。目があり、耳があり鼻があり、耳にまで裂ける口があり、巨大な氷柱のようなきばがあって、鋭く伸びる角がある!


「ド……ド、ド、『ドラゴン』――――!?」


 それは、『城でできた竜・・・・・・』だった。


 竜そのもの、そうとしか思えない咆哮ほうこうが轟き、リルルとフィルフィナの鼓膜や髪の毛どころか、その心臓までその基盤から揺るがした。恐怖にリルルが両手で耳をふさぎ、目まで塞いで口を開き悲鳴を上げる――が、その悲鳴までもが、空間の全てを満たす咆哮ほうこうの中にき消えた。


「お嬢様っ!!」


 呼びかけも無駄だとばかりにフィルフィナは、描き上げた即席の転移鏡にリルルを押し込み、自らはニコルを抱きかかえ、床の転移鏡に飛び込んだ。

 数秒もせずにその転移鏡は消え――世界と空間を繋げていたものが、消滅しょうめつした。

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