「わたしはリルル」

 突進の勢いと重力の引き――ニコルともつれ合うように数百段の階段を、ものすごい回転数で転がり落ちるリルルの視界で、世界がそれこそ何百回と回転した。

 階段の全てに体を打ち付け――それが途切れた瞬間、リルルの体もまた衝撃から解き放たれた。


「うわあぁぁぁぁ――っ!?」


 階段を転がりきったと思ったら、空に投げ出されるような感触が全身を包む。皮膚の裏に寒気が走る。落ちきったはずなのに、つかまるところなどない無限の闇の先に落ちる、無限に落ち続けている――ここは何もかもが異常な空間だ!


「ニコ……ル……!」


 リルルがそう名を呼んだ直後、のどすさまじい圧力がかかってきた。ニコルの両手がリルルの細い首にかかり、その爪が肌を破り、肉に食い込みかねないほどの握力が加えられる。


「く……ぅ、うう、う…………!」


 リルルの手がニコルの手をがそうとするが、剥がれない。太い鉄格子てつごうしを難なくへし折った力を与えてくれる銀の腕輪でも、少年の細い腕を振り払えない――力は、加減していないというのに!


「や…………め、て…………!!」


 拮抗きっこうする力でニコルの圧迫をはばみ、かろうじて息ができるだけの気道が確保されているが、少しでも気を抜くだけで首がへし折られる確信があった。


 光が存在しない闇の中で、何故ニコルの、自分の姿がくっきりと見えるのかはわからない。腕をばせば顔に触れられるニコル、その表情に欠けた顔がまっすぐにリルルを見ている――リルルが知らない顔、ニコルが決して見せることはなかったはずの色……!


「やめて……ニコ……ル……! あな……たは、こんなことをして、いちゃあ……!」


 喉にかかる指の圧迫がリルルの声をゆがめる。苦痛と同時に重なる悲しみがリルルの目の端に涙の粒をふくらませるが、ニコルは動じることもない。

 恋する、愛しているはずの少女の命に手をかけて、今、その力のままに折ろうとしている――!


「く、ぅっ!」


 突然、背中に衝撃が来た。無限と思われていた落下がそこで止まる。地面――いや、地面とは違う。『ここから先には落ちることができない』という規則ルールが背にぶつかってきた、そんな認識がリルルの意識に入り込んでくる。


「ニコル!」


 ほんの一瞬、その力がゆるんだところをリルルの手がニコルの手をね飛ばした。罪悪感はあったが、ひざでニコルの腹をり、その体を引きがす。

 素早く体を転がし、体を起こしたリルルが間合いを取る――どうやら、立てる地面がある。


 目には見えない真っ平らな床が延々えんえんと続いている空間で、リルルとニコルはそれぞれに立ち上がった。少女のアイスブルーの瞳と、少年の赤くにごった瞳とが、たがいを正面に見据みすえた。


「――ニコル! 私の声が聞こえないの!?」


 無言をつらぬくニコルが一歩、踏み出した。リルルがその分、後退あとずさる。

 背中は見せられない。背中を見せた瞬間、心臓を背中から貫かれるような予感があった。

 ニコルが見せた、数十歩の間合いを一秒で詰める突進力――それから逃れる術はない!


「……そうね、無理よね……今の私のまま・・・・・・じゃ無理に違いないよね……」


 リルルの口元に、ふっと、笑みが浮かんだ。

 自嘲じちょうの色を帯びたそれが、可憐かれんくちびるゆがめていた。

 ――理解わかった。

 無から有が生まれるように、一つの認識が、リルルの心の中で咲いていた。


「ニコル、今までごめんなさい。ずっと、あなたにうそいていて」


 少年の歩が、にぶった。そこからの一歩を刻めずに、浮かんでいたその足が落ちた。


「私は悪い子だわ。あなたはなんでも私に正直に告げてくれたのに、私はあなたに隠し事しかしてこなかった。だから、神様が私にこんな罰を与えたのよ。だから、今……」

「――――」


 ニコルの次の歩が、動かない。歩もうとする足が震えて上がらない。


「――ニコル。私の大好きなニコル」


 少女の手元には、もう、手段はただ一つしか残されていない。

 この手に残された、本当にたったひとつの切り札・・・・・・・・・・・・・――。


「今だから、今しかないから、あなたに見せる。

 私の罪の形、あなたに吐いていた、嘘の全て――」


 その切り札を切った結果がどうあれ、それを使う機会タイミングはまさに今しかない。

 だからリルルは、その手をかけていた。

 その目にめられている――魔法のメガネに!


「――ニコル、よく見て!」


 メガネが、外された。

 少女の瞳にかぶさっていた透明の球面体レンズが取り払われ――何にもおおわれることのない、美しき青い瞳があらわになって、ガラスの箱から取り出された宝石の光を放つ。


 ニコルが、瞬いた。そのまぶたが瞬間閉じて、開く――この空間で初めて見せる、ニコルの人間らしい仕草。

 少女のものを思わせるくちびるが、恐れるように震えた。


「――リ……、ル……ル……?」


 その瞳の紅さが、弱まる。にごりの中に青い光が一瞬見えてきらめいた。


「――そうよ! よく聞いて、ニコル!」


 ニコルが微かに見せた理性の輝きに、リルルは、たましいの全部を込めて言葉にしていた。


「――快傑令嬢リロットの正体は、この私! リルル・ヴィン・フォーチュネットなのよ!!」

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