「裏切りのフィルフィナ」
時を少しだけ
それは、ニコルがちょうど王都の城門にたどりついた時刻
――フォーチュネット家において、ちょっとした異変が起こっていた。
◇ ◇ ◇
早朝のフォーチュネット
「出して――!!」
「お願い、ここから出して――!! 私は行かなきゃいけないの――!!」
箱に閉じ込められた猫が暴れる勢いで叩かれまくる扉。それを外側から見ているログト――リルルの父、ログト・ヴィン・フォーチュネットは髪が薄くなった頭皮にいっぱいの汗をかいて、扉が破壊されないかどうか本気で心配した。
「お、おい、すごい勢いだぞ。大丈夫か」
「平気でございます」
フィルフィナが汗の玉一つ浮かべていない、
「もうニコルが帰ってきてるかも知れないの! 私はニコルを出迎えるの! だからここから出して――!」
「リルル! 聞き分けなさい!」
「い――や――!」
聞き分ける気配など
「明日はベクトラル伯との面会式なのだ! その前日に――たとえニコルだろうと、いや、ニコルだからこそお前を彼と会わせるわけにはいかん! 万が一があるからな!」
「万が一ってなんなの! 私がニコルと駆け落ちでもするっていうの――!?」
「その万が一だ!」
扉越しに展開される父娘の怒鳴り合いを、フィルフィナはかしずきながら
「……駆け落ちしてくれるくらいの根性と度胸があってくれたら、わたしも苦労しないんですが……ね」
誰の耳にも聞こえない呟きが、エルフのメイドの口から
「苦労してまとめた話だ。不安な要素は小さくとも確実に
「大人しくしていたくない! 私はニコルに会いたいの!」
「明日の面会式だけは、なんとしても行ってもらう!」
「お父様のばかぁ!」
「大人しくしているのだぞ!」
「お父様の
これ以上の問答は
かつてはそれなりの
が、その息子、ログトには商才があった。王都の海産物を
フォーチュネット家は『金だけは持っている貴族』として有名になり、その
そして、そんなフォーチュネット家を
だから、この屋敷から切り札を出歩かせるわけにはいかないのだ。
「フィルフィナ、あとは任せてもよいのだな?」
目の前で静かに
「
メイドが頭を下げ続けている。
「このフィルフィナは、交わした
「う……む……」
ログトは返す言葉もなく――フィルフィナは心の中で舌を出した。見えないところでかなり裏切っているからだ。それを決して気づかせることはなかったが。
「……旦那様こそ、
「疑うな。商人は一にも二も信用第一だ。信用の価値は、
相も変わらず、休みなく叩き続けられる扉を背景にして、フィルフィナとログトの視線が交錯する。
「それでは……約束のものを」
ログトが鞄の中から、両手でくるめる厚さの長方形の包みを取り出した。フィルフィナがうやうやしくそれを受け取る。
「フイルフィナ……お前も
「いえいえ、旦那様ほどでは」
「ふっふっふっふっ」
「うふふふふふ」
「ふっふっふっふっふっふっ!」
「うふふふふふふふ!」
一通りのお約束な
「……行ってくる」
「お気をつけて、旦那様」
時は金なりといわんばかりに、せかせかと歩き出してこの場を
「さて、と。……お嬢様、失礼しますね」
ビリッと呪符を
「ふぎゃ!」
泣きながら爪で引っかいていた扉にリルルが体の前面全部をぶつけられ、悲鳴を上げながら部屋の真ん中までゴロゴロと転がった。
「さあさあ、寝室に戻ってくださいまし」
のびたリルルの体を雑に転がし、フィルフィナはそのまま奥の寝室に押し込んだ。
「この裏切り者――っ!!」
短い気絶から目覚めたリルルが
「まあ、なんて人聞きの悪い」
「裏切り者じゃないの! お父様の味方をして! フィルは私専属のメイドでしょう!?」
「とはいえ、わたしは旦那様からお給金をもらっている身でして。
「わかったわ! お金で解決しましょう!」
立ち上がったリルルが体勢を立て直す。服に少しゴミがついていた。
「私は今すぐここから出てニコルに会いたいの!
「旦那様は、お嬢様がわたしを
「お父様のあほ――――っ!!」
「それにもう、手付けで七百万エルを旦那様から受け取っていますので」
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
先ほどログトから受け取った白い包みを破り、指先を舌で
「これはこれでなかなか素敵な感触ですね」
「汚い! 汚いわお父様もフィルも! 汚いお金なんかで買収してされて! それでも人間とエルフなの!?」
「お嬢様、先ほど自分がなにをしようとしたか、わかっていってます?」
「ねえ、お願い、フィル。私とあなたの仲でしょう?」
リルルがフィルフィナの手を握る。その手を引き寄せる。
「あっ……お嬢様、なにを」
「フィル……」
アイスブルーの瞳とアメジストの瞳が見つめ合う。フィルフィナの細さをうかがわせる目が大きく見開いていた。何故か心の中で無数の
「あなたはこの世にふたりといない、私の親友、私の同志。フィルならわかってくれているはずよ。私の切ない気持ち――私がニコルをどんな想いで二年間待ち続けたか。あなたなら知っているはずよ……」
「……お嬢様……」
やわらかいリルルの手がフィルフィナの小さな手を包んで、温める。エルフの少女の白い顔に朱の色が浮かんだ。最初は頬の一点が紅くなったのが、見る間に顔の全部に広がる。
「ここは私を、見逃して。ニコルと会わせて……。そうしてくれたら、私はあなたに一生の感謝を
「ああ……お嬢様……」
リルルが微笑む。花がほころぶような笑み。男性はもちろん、女性であっても心のひだをくすぐられる華やかさ。幼さの中に大人になろうとする意志を感じさせる、強い
「――そういう泣き落としは効きませんよ」
「んぎゃ!」
ぽい、とリルルをその場に投げ捨てる。
「窓も扉も、全て例の
「うわああああああああ――――ん!!」
ばたん、と寝室の扉が閉まってフィルフィナの姿が消えた。その気配が遠ざかる。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁん!! フィルなんて大っきらぁ――――い!! もう顔も見たくないわ! 一生口なんて聞いてあげないんだからぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! ………………………………なーんて、ね」
リルルが
「わかってるのよ、フィルにこんな手は通じないことなんて。でも、ふふふ……フィルも
身につけられるくらいの小さなものなら、
これがあれば、屋敷の壁などないのと同じだ。フィルの善意に
「…………あれ?」
右腕を
「えっ、あれっ、いったい、どういうこと」
嘘だ。さっき、フィルの手を握る前には確認したはずなのに――。
「……お嬢様、わたしを誰だと思っているんですか?」
扉のすぐ裏側でした声に、リルルの体が
「わたしがお嬢様のそんな手に引っかかるわけがないでしょう。お嬢様に手を握っていただいた時に、腕輪は取り上げさせていただきました」
「そんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「この寝室の扉は五分後に開くようにしておきます。でも、その先の廊下には出られませんからね」
「ごはんはぁぁぁ!?」
「
「ちょっと……お手洗い、お手洗いはどうするの! まさか、部屋の中でしろっていうんじゃないわよねぇ!?」
「そのまさかですよ」
フィルフィナの
「居間の
「いやああああああああ!!」
「懐かしいでしょう? ちゃんと
「フィルのばかぁぁぁ! もう知らない! 絶交よ!! もうフィルなんて友達でもメイドでもエルフでもないんだからぁ!」
「ちゃんと頭を使ってものをいってください。では、用事がありますのでこれで――お嬢様、くれぐれも
「もう帰ってくるなぁぁぁ!!」
奥の扉がバタン、と閉じられた音が残酷なくらいにはっきりと聞こえてきて、それが絶望の響きになった。
「嫌い! 嫌い嫌い嫌い! お父様もフィルも神様もみんなだいっきら――――い!! 死んでやる! 死んでやるんだからぁぁぁぁ!!」
◇ ◇ ◇
「……死にたいのはこちらの方ですよ」
フォーチュネット家をあとにしながら、フィルフィナは
「こんな話をニコル様に伝えなきゃいけないわたしの身にもなってください。ニコル様に会いたさで、すっかり忘れてますよね? 自分が別の男性と婚約しようとしているなんていうことを、自分の口からニコル様に伝える勇気があるんですか? ないでしょう?」
ため息を吐く――もう本当にため息しか出ない。
「お嬢様と結婚しようとがんばって王都に帰ってきたら、そのお嬢様がまさに他の誰かと結婚しようとしているとか……ね」
軽い頭痛を覚えながらフィルフィナはてくてくと歩く。今頃は、ニコルは家に帰り着いているころだろうか。
「ああ、いったいどうやって切り出せばいいものやら……」
どちらにしろ結末は絶望を呼ぶだろう。
ため息で呼吸しながらフィルフィナは歩く。ソフィアの家まで行くいつもの歩き慣れた道が、まるで
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