「飲んで、飲んで、ニコル、飲んで」
その夕日は、西の
夜の
休日という時間の中で体と心を休めた人々が、明日の用事に顔を
住宅が主であるこの
酒好き、酒が人生の
そんな店に、今夜は
◇ ◇ ◇
「エクジュの兄貴、すんません、おっくれまっした……あれ?」
調子のいい口ぶりと足取りで外から入ってきた青年――昼間にもニコルの
そこそこ広い居酒屋だ。カウンターに十人ほどは座れ、テーブルも十数
あとは、
青年は少年を見下ろす。柔らかい感触を見た目で想像させる金色の髪に包まれた後頭部がそこにあった。
「よう、イージェ、来たか。まあそこに座れ」
エクジュと呼ばれた青年が振り向く。昼間もニコルの出迎えに顔を出していた、この界隈の
「ニコル、沈没したままなんですか?」
「まだ浮上はしてないな」
青年ふたりに
「かなり酔っ払ってますね。いったい何杯飲ませたんです?」
近くのテーブルに座っている十人ほどの青年たちも、ニコルを弟のように
可愛い可愛い弟分がどうして地の底、海の底まで沈んでいるのか、その場の全員が知っていた。
「何杯か……聞いたら
「どうぞ」
「まだこれが一杯目だ」
「は――――」
かなりアルコールが効いているのか、息が熱くなっているようなニコルを見てイージェは
「ニコル、お前、飲み慣れてないのか?」
「……………………お酒飲んだのは、これが、初めてです……」
「お、生きてた」
ニコルがわずかに顔を上げた。眠たいようにまぶたが下がり、目がやや血走っていて赤い。かなり回っているようだ。体を半分伏せているのに頭が揺れている。いつもの
「お前、酒は駄目なようだな。じゃあこれは下げて――」
「くらさい!」
イージェの手を
ごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅ。
「――ふはー!」
ドン! とジョッキがカウンターを叩き、同時に酒臭い息が
未知の領域の光景だった。
「……お酒、美味しいれすねー!」
万事において控え目なはずのニコルが陽気に声を出す。イージェは目を瞬かせるばかりだった。中身が完全に誰かと入れ替わっている。これが本当にあのニコルなのか。
「お、おい、無茶な飲み方すんな」
「いいんれす! 飲むと頭の中がほわーっとして、気持ちいいれす!」
「よっしゃニコル、それでこそ男だ! マスター、こいつに特製果実酒を出してやってくれ! 作り方はこの通りだ!」
無責任に
「……この通りでいいんですね?」
「ああ、
「――わかりました。奥で作ってきます」
マスターが奥に消える。それを見届けたようにニコルの
「いい飲みっぷりだ。今夜は飲め、
エクジュの大きな手がニコルの髪をくしゃくしゃと
「まあ、俺たちは昔からお前を知っていたし、当然お前とリルルのことも知っていたからな――」
自分のジョッキを
「町のみんなを
「エクジュの兄貴のいうとおりだ。みんなお前が好きなんだ。誰もお前を悲しませたくないんだよ。わかるか? わかるな?」
「うう……」
エクジュとイージェがふたりで
――リルルとの結婚を目指して騎士になる階段を一歩上り、希望を抱えて
なかなか切り出すのに勇気が必要な
「リルル……なんで……」
「あああ、落ち込むな落ち込むな! それがリルルの本意じゃないことはみんな理解してる!」
「そうそう、リルルちゃんがお前にどれだけゾッコンかは知らない奴はいないって! あれだ、みんなフォーチュネットの
「旦那様を恨むなんて……」
コチコチと音が鳴るかのようなぎこちない
「僕は、旦那様に口を聞いてもらってゴーダム公とのご
コチコチと音が鳴るかのようなぎこちない
「おい! 特製果実酒はまだなのかよ!」
「さあ、飲め! 一気に飲め! 全部飲み干さないと俺が許さん!」
「ちょ、ちょっと、エクジュの兄貴、それはあんまりにも無茶」
「ニコル、のみます!」
ごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅ。
「ぷっはぁ~~~~!」
がん! とジョッキもカウンターも
「特製果実酒、美味しいれすねー!」
「そうか! マスター、おかわりだ!」
「ちょい、ちょいちょい、ちょい! エクジュの兄貴、本当に無茶が過ぎますって!」
「いいじゃねぇか! 人間、忘れたいことを忘れるためには酒! 基本だろうが!」
「でも、あんまり飲ませるとこいつの体が」
「いいんだよ、
うー……と唸って半目になっている弟分を、半ば
「ニコル! 実はな、お前にいい話を持ってきてやってるんだ」
「……はひ?」
「なんだかんだ事情はあるけれどな、お前はリルルにフラれたんだ! まずはそこの事実から
「……ううう……」
ニコルの目の
「だからといって、お前は人生を捨てちゃあいかん! まだまだこれからもいいとこだろうが! 男が女にフラれた時――いちばんの特効薬はなんだと思う? それはな――」
エクジュがカウンターの上に一枚の板を置いた。
「それはな、新しい女だ!」
「あたらしいおんら……?」
透明の板に挟まれているのは、一枚の写真だった。
「お前、この子知ってるか?」
「しりま……せん……」
「名前はエトワール。いい子だぞ、この子は。気立てがよくて、明るくて、元気で、働き者で――そしてなにより! さん、はい!」
「おっぱいが大きい子!」
イージェと離れたテーブルに座る仲間たちが大声で応じた。
「そうだ! 男にとってそれは大事なことだ。大きくて嫌がるやつぁいないからな……で、な? この子がお前のことをメチャメチャ気に入ってるんだよ。お前が旅立つ前からお前のことを見ていたっていってたけど、お前の視界には入ってなかったか……」
まあ、それは無理がないかも知れない。こいつの目にはリルル以外入りようがないのだから――そう思いながらエクジュは続ける。
「なにはともあれ、いい子には間違いないぞ! ……誰とはいわんがな、仲間にもこの子を
うんうん、と十数個の頭が上下に運動した。
「この子ならなんの問題もないんだ! きっといい二人になれること間違いない! 保証する! お前がこの場で
「おっぱいなんか、ろうでもいいんれす!」
ニコルが叫ぶ。エクジュとイージェが思わず肩をすくめる勢いがあった。
同時に、
「僕は別に、おっぱいと結婚するんじゃないんれす!」
三杯目。全員が固まりながらも
「……確かにリルルは小さいれすよ、ええ。二年前、最後に会った時も小さかったし、送られてきた最後の写真も小さかった……でもそれがなんれす! 僕はリルルがいいんれす! 今のリルルがいいんれす! おっぱいなんか
「らいいち、リルルのおっぱいは可愛いんれす! られもみらことないれしょう!!」
「あるわけないだろ!」
「おい、いい加減
「あーっ! 最後にみらリルルの、可愛かったなぁ――!」
「お前も見たことないんだろう! いい加減なこと抜かすんじゃねぇ!」
「ありますろ! むっつのころまれ毎晩のようにリルルとお風呂に入ってたんれすからぁ!」
「十年も前の話をするんじゃねぇ!」
「……らいらい!」
五杯目もあっという間にニコルの胃に流れ込んでいった。
「リルル以外と結婚するんらら、僕はサフィーナお嬢様の
「サフィーナお嬢様!? 求婚!?」
「ゴ……ゴーダム公の一人娘か!?」
その名前に、今まで静かにしていたテーブルの仲間たちもざわつく。
「お前、サフィーナ様に求婚されたって本当か!?」
「嘘なんかついていまれん! ころ満月の首飾りは、サフィーナお嬢様からもらったものれす!」
首に
「……僕がリルルへろ想いを
「サ……サフィーナ様と結婚するっていったら、お前、それは未来の公爵領の
「そんな話を
兄貴格の青年たちに恐怖が走る。知らず知らずのうちに、エクジュもイージェもわずかながらニコルから体を遠ざけていた。
「そんな話を蹴っれきらのら、自分なんれふ! リルルにフラれらかっれ、すぐさま他の女の子に浮気するなんれ、ありれません!」
「うわわわわわわわわん!!」
厨房から一人の女の子が泣きながら飛び出していった。迷いもなく店の扉を突き破るようにして外に向かって走り去る。
「……なんか、騒がしいれすね?」
「ばっかやろう……あの子がそのエトワールなんだよ!」
「おい! 早く追え! 今のはヤバい勢いだぞ!」
「すっ……姿が見えません!!」
青年の中でいちばん若いものが店先を見回していう。
「運河だ! 運河に行け! 橋を端から端まで探せ!」
「全員行くぞ! 辺りをくまなく探すんだ!」
「ニコル、お前はここで飲んでろ! マスター、こいつのことを頼む……絶対にあの特製果実酒以外は出すんじゃないぞ!」
「……わかってますよ」
従業員に逃げられたマスターは冷静なものだ。酔っ払いが起こすいざこざにも慣れている。これくらいは可愛いものだという顔でグラスを
「払いはここに置いてく! ニコル、じゃあな!」
紙幣を何枚かカウンターの上に叩きつけ、エクジュも仲間たちのあとを追った。
あっという間に店が静かになる。
「……マスター、特製果実酒、おかわり……」
「はいはい」
もう既に用意されていた六杯目がすぐさま出て来た。
「……ねぇ、マスター」
「なんです?」
「僕、お酒をがぶがぶ飲んでるけど、大丈夫なのかな……」
「大丈夫ですよ、この
「そっか……お酒って、美味しいれ……」
「お客さん、わたし、みなさんにお酒を飲ませている立場でいうことじゃないかも知れませんけれとね」
「……なんれふ?」
「お客さんは今夜限り、お酒を飲まない方がいいですよ」
全てに動じることを
「…………そうれふね、そうしまふ。……お酒は、これで最後にしまふ……」
「じゃあ、
「はひ……」
先ほどまで
果汁の味しかしなかった。
「……ぼく、そろそろ、かえります……」
「それがいいでしょう。お仲間にはお客さんが帰ったことを伝えておきますから。ああ、帰る前にお手洗いに行っておいた方がいいですよ――それと」
「はひ?」
「――元気出してくださいね」
立ち上がったニコルがその言葉を受けて、固まった。
「……………マスター、いろいろと、ありがろうございました……」
「毎度ありがとうございました」
少し頼りない足取りでニコルが店の便所に寄り――ややあってそこから出て来て、一礼してから去った。
「……みんな、生きるのが
少年の姿が扉の外に消えて行ったのを確認し、この店を始めてから何回
「酒は、生きる辛さを忘れさせてくれる――数時間とちょっとは、な」
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