「飲んで、飲んで、ニコル、飲んで」

 その夕日は、西の彼方かなたにまるで引きずられるにして落ちていった。

 夜のとばりが重々しく下りる。

 休日という時間の中で体と心を休めた人々が、明日の用事に顔をくもらせながらも準備を始める、時刻。


 住宅が主であるこの界隈かいわいすみっこに看板かんばんかかげる居酒屋いざかや『首なし美人亭』の店先にランプの明かりが煌々こうこうと灯っていた。

 酒好き、酒が人生の潤滑油じゅんかつゆのように、それなしでは日々生きることがきしむようにそれを求める人々がつどう店。

 そんな店に、今夜はめずしい客がおとずれていた。



   ◇   ◇   ◇



「エクジュの兄貴、すんません、おっくれまっした……あれ?」


 調子のいい口ぶりと足取りで外から入ってきた青年――昼間にもニコルの歓迎会かんげいかいに顔を見せていた――が、カウンターに座っているふたりの姿を見てその口を止めた。


 そこそこ広い居酒屋だ。カウンターに十人ほどは座れ、テーブルも十数たくはある。それにして従業員は少ない――手間を軽減するためか、提供される料理の種類がかなり少ない。食べ物に限れば、作り置きのつまみと大鍋おおなべの日替わりシチュー、簡単に焼ける肉料理くらい。


 あとは、うなるほどめ込まれている酒、酒、酒。それらこの店で飲み食いできるものの全てだった。そんな単純な店だけに、安い。取りあえず腹が満たされて酒が飲めればいい、あまり裕福ゆうふくではない人間たちが集まってくる、そんな店だった。


 小綺麗こぎれいとも小洒落こじゃれているともいえない、木の色がき出されたような素朴そぼくな店。その中を歩きながら青年はカウンターに近づき、酒と料理の間で突っ伏している背の低い少年の隣に立った。

 青年は少年を見下ろす。柔らかい感触を見た目で想像させる金色の髪に包まれた後頭部がそこにあった。


「よう、イージェ、来たか。まあそこに座れ」


 エクジュと呼ばれた青年が振り向く。昼間もニコルの出迎えに顔を出していた、この界隈の若衆わかしゅうかしら的存在。ガキ大将がそのまま大人になったような若者だった。


「ニコル、沈没したままなんですか?」

「まだ浮上はしてないな」


 青年ふたりにはさまれて、ニコルはカウンターにひたいを着けたまま動かない。息をしているから放っておかれているだけのようなものだ。ほおどころか耳の先まで真っ赤になっている。ガラスのジョッキには果実酒かじつしゅなのか、葡萄ぶどう色の液体が半分残っていた。


「かなり酔っ払ってますね。いったい何杯飲ませたんです?」


 近くのテーブルに座っている十人ほどの青年たちも、ニコルを弟のように可愛かわいがっている街の若者たちだ、声をかけてやりたい気持ちをおさえ、雑談に話をかせることもできずに静かに見守っている。


 可愛い可愛い弟分がどうして地の底、海の底まで沈んでいるのか、その場の全員が知っていた。


「何杯か……聞いたらおどろくぞ」

「どうぞ」

「まだこれが一杯目だ」

「は――――」


 かなりアルコールが効いているのか、息が熱くなっているようなニコルを見てイージェはあきれた。ジョッキ半分ほどでか。かなり弱いな。こいつにこれ以上飲ませるのはヤバそうだ。


「ニコル、お前、飲み慣れてないのか?」

「……………………お酒飲んだのは、これが、初めてです……」

「お、生きてた」


 ニコルがわずかに顔を上げた。眠たいようにまぶたが下がり、目がやや血走っていて赤い。かなり回っているようだ。体を半分伏せているのに頭が揺れている。いつものさわやかな雰囲気ふんいきはどこかに消えてしまったかのように、印象がまるでちがっていた。


「お前、酒は駄目なようだな。じゃあこれは下げて――」

「くらさい!」


 イージェの手をさえぎり、ニコルの手がジョッキをうばうように取る。そのふちに口をつけ、底が天井を向かんばかりに大きくそれをかたむけた。


 ごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅ。


「――ふはー!」


 ドン! とジョッキがカウンターを叩き、同時に酒臭い息が豪快ごうかいき出された。ニコルを知っている全員が固唾かたずを飲むようにしてそれを見つめている。

 未知の領域の光景だった。


「……お酒、美味しいれすねー!」


 万事において控え目なはずのニコルが陽気に声を出す。イージェは目を瞬かせるばかりだった。中身が完全に誰かと入れ替わっている。これが本当にあのニコルなのか。


「お、おい、無茶な飲み方すんな」

「いいんれす! 飲むと頭の中がほわーっとして、気持ちいいれす!」

「よっしゃニコル、それでこそ男だ! マスター、こいつに特製果実酒を出してやってくれ! 作り方はこの通りだ!」


 無責任にあおり立てるエクジュが紙片メモをマスターに渡す。その簡潔かんけつな内容を見て、マスターは顔をしかめるようにした。


「……この通りでいいんですね?」

「ああ、一字一句いちじいっくちがわないようにな」

「――わかりました。奥で作ってきます」


 マスターが奥に消える。それを見届けたようにニコルのほおがまたもカウンターに着地した。


「いい飲みっぷりだ。今夜は飲め、びるほど飲め。全部俺たちのおごりだ」


 エクジュの大きな手がニコルの髪をくしゃくしゃとでる。「ひゃあ」とわけのわからない返事がニコルの口かられた。


「まあ、俺たちは昔からお前を知っていたし、当然お前とリルルのことも知っていたからな――」


 自分のジョッキをかたむけ、エクジュは続けた。


「町のみんなをうらんだりするなよ。みんな、リルルちゃんの婚約こんやく話を知ってたんだ。だからこそお前にいえなかったんだ。お前がどれだけがっかりするか、わかりきっていたことだからな」

「エクジュの兄貴のいうとおりだ。みんなお前が好きなんだ。誰もお前を悲しませたくないんだよ。わかるか? わかるな?」

「うう……」


 エクジュとイージェがふたりではさむようにしてニコルをなぐさめる。

 ――リルルとの結婚を目指して騎士になる階段を一歩上り、希望を抱えて意気揚々いきようよう故郷こきょうに帰ってきた少年を待っていたのが、おもい人の婚約話だった――。


 なかなか切り出すのに勇気が必要な事柄ことがらだったろう。実際、誰もその勇気を持つことができず、フィルフィナに丸投げすることになった。


「リルル……なんで……」

「あああ、落ち込むな落ち込むな! それがリルルの本意じゃないことはみんな理解してる!」

「そうそう、リルルちゃんがお前にどれだけゾッコンかは知らない奴はいないって! あれだ、みんなフォーチュネットの旦那だんなが悪いんだ! 恨むならあの旦那を恨め!」

「旦那様を恨むなんて……」


 コチコチと音が鳴るかのようなぎこちない調子リズムで、ニコルの上体が起きた。


「僕は、旦那様に口を聞いてもらってゴーダム公とのごえんを……そもそも、父が死んで途方とほうにくれていた母に働き口をくれたのも旦那様……僕はその時赤ん坊だったんですよ……旦那様のおかげで、僕は生きているようなものなのに……みんな僕が悪いんだ……」


 コチコチと音が鳴るかのようなぎこちない調子リズムで、、ニコルの上体が沈んだ。


「おい! 特製果実酒はまだなのかよ!」


 うつが深くなり始めたニコルの様子にエクジュが声を飛ばす。ほどなくしてカウンターに新しいジョッキが置かれた。先ほどの葡萄色の液体がなみなみと注がれている。


「さあ、飲め! 一気に飲め! 全部飲み干さないと俺が許さん!」

「ちょ、ちょっと、エクジュの兄貴、それはあんまりにも無茶」

「ニコル、のみます!」


 ね上がるようにニコルが立ち上がる。何故かびしっと敬礼をしてから、そのジョッキを持ち上げ口をつけた。そのまま勢いよく背をらす。


 ごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅごっきゅ。


「ぷっはぁ~~~~!」


 がん! とジョッキもカウンターもくだけないのが不思議なくらいの音が鳴る。


「特製果実酒、美味しいれすねー!」

「そうか! マスター、おかわりだ!」

「ちょい、ちょいちょい、ちょい! エクジュの兄貴、本当に無茶が過ぎますって!」

「いいじゃねぇか! 人間、忘れたいことを忘れるためには酒! 基本だろうが!」

「でも、あんまり飲ませるとこいつの体が」

「いいんだよ、だまってろ! ……しっかし、こいつ、酒が入ると別人みたいになるんだな……」


 うー……と唸って半目になっている弟分を、半ばこわいものを見やるようにエクジュがつぶやく。まあいい、そろそろ切り出す頃合ころあいだ。こいつの脳もいい加減ふやけてきているからな――。


「ニコル! 実はな、お前にいい話を持ってきてやってるんだ」

「……はひ?」


 酔眼すいがんの中にんだ湖の色をした瞳を見せてニコルが応じる。


「なんだかんだ事情はあるけれどな、お前はリルルにフラれたんだ! まずはそこの事実から見据みすえないといかん! 目をらすな!」

「……ううう……」


 ニコルの目のはしに涙が浮く。


「だからといって、お前は人生を捨てちゃあいかん! まだまだこれからもいいとこだろうが! 男が女にフラれた時――いちばんの特効薬はなんだと思う? それはな――」


 エクジュがカウンターの上に一枚の板を置いた。


「それはな、新しい女だ!」

「あたらしいおんら……?」


 透明の板に挟まれているのは、一枚の写真だった。


 椅子いすに座っている少女。どこかの写真館でったのか、素朴そぼくな普段着に身を包んでいる。深い栗色の髪を後ろで一本のお下げにした、純朴じゅんぼくな印象が強い女の子だ。頬に少し残ったそばかすが可愛さを引き立てている。


「お前、この子知ってるか?」

「しりま……せん……」

「名前はエトワール。いい子だぞ、この子は。気立てがよくて、明るくて、元気で、働き者で――そしてなにより! さん、はい!」

「おっぱいが大きい子!」


 イージェと離れたテーブルに座る仲間たちが大声で応じた。


「そうだ! 男にとってそれは大事なことだ。大きくて嫌がるやつぁいないからな……で、な? この子がお前のことをメチャメチャ気に入ってるんだよ。お前が旅立つ前からお前のことを見ていたっていってたけど、お前の視界には入ってなかったか……」


 まあ、それは無理がないかも知れない。こいつの目にはリルル以外入りようがないのだから――そう思いながらエクジュは続ける。


「なにはともあれ、いい子には間違いないぞ! ……誰とはいわんがな、仲間にもこの子をいている奴は結構いる! それをけてでも、この子をお前と引き合わせてやろうっていうんだ! 全てお前が可愛いからだ! どんだけお前が町のみんなに愛されてるか、わかるよな?」


 うんうん、と十数個の頭が上下に運動した。


「この子ならなんの問題もないんだ! きっといい二人になれること間違いない! 保証する! お前がこの場で色好いろよい返事をすりゃあお前、明日に結婚式をげたって……」

「おっぱいなんか、ろうでもいいんれす!」


 ニコルが叫ぶ。エクジュとイージェが思わず肩をすくめる勢いがあった。

 同時に、厨房ちゅうぼうの奥で食器らしいものが割れる音が鳴り響く。


「僕は別に、おっぱいと結婚するんじゃないんれす!」


 三杯目。全員が固まりながらも注視ちゅうしする中で、ニコルはジョッキの特製果実酒を一息で飲み干した。太い息が吐かれる。


「……確かにリルルは小さいれすよ、ええ。二年前、最後に会った時も小さかったし、送られてきた最後の写真も小さかった……でもそれがなんれす! 僕はリルルがいいんれす! 今のリルルがいいんれす! おっぱいなんかかざりなんれす!!」


 酔客すいきゃくだまらせるために運ばれてきた四杯目。それも十数秒しか存在することができなかった。五杯目がすぐさま用意される。


「らいいち、リルルのおっぱいは可愛いんれす! られもみらことないれしょう!!」

「あるわけないだろ!」

「おい、いい加減だまらせろ!」

「あーっ! 最後にみらリルルの、可愛かったなぁ――!」

「お前も見たことないんだろう! いい加減なこと抜かすんじゃねぇ!」

「ありますろ! むっつのころまれ毎晩のようにリルルとお風呂に入ってたんれすからぁ!」

「十年も前の話をするんじゃねぇ!」

「……らいらい!」


 五杯目もあっという間にニコルの胃に流れ込んでいった。


「リルル以外と結婚するんらら、僕はサフィーナお嬢様の求婚きゅうこんを受けていたれす!」

「サフィーナお嬢様!? 求婚!?」

「ゴ……ゴーダム公の一人娘か!?」


 その名前に、今まで静かにしていたテーブルの仲間たちもざわつく。


「お前、サフィーナ様に求婚されたって本当か!?」

「嘘なんかついていまれん! ころ満月の首飾りは、サフィーナお嬢様からもらったものれす!」


 首にげられている金色の鎖につながれた首飾り。まだそれを一度もニコルは首から外していない。これからも外す気もなかった。


「……僕がリルルへろ想いをつらぬいれ、サフィーナお嬢様の想いをこばんで……お嬢様、最後泣いていたかも……お部屋で泣かれるっておっしゃっれた……それでも、僕にこれをさずけられて、ご自分のことを想いだしてほしいともおっしゃられて……心が痛みまふ……」

「サ……サフィーナ様と結婚するっていったら、お前、それは未来の公爵領の跡継あとつぎじゃねぇか」

「そんな話をってきたのか、こいつは!」


 兄貴格の青年たちに恐怖が走る。知らず知らずのうちに、エクジュもイージェもわずかながらニコルから体を遠ざけていた。


「そんな話を蹴っれきらのら、自分なんれふ! リルルにフラれらかっれ、すぐさま他の女の子に浮気するなんれ、ありれません!」

「うわわわわわわわわん!!」


 厨房から一人の女の子が泣きながら飛び出していった。迷いもなく店の扉を突き破るようにして外に向かって走り去る。


「……なんか、騒がしいれすね?」

「ばっかやろう……あの子がそのエトワールなんだよ!」

「おい! 早く追え! 今のはヤバい勢いだぞ!」

「すっ……姿が見えません!!」


 青年の中でいちばん若いものが店先を見回していう。


「運河だ! 運河に行け! 橋を端から端まで探せ!」

「全員行くぞ! 辺りをくまなく探すんだ!」

「ニコル、お前はここで飲んでろ! マスター、こいつのことを頼む……絶対にあの特製果実酒以外は出すんじゃないぞ!」

「……わかってますよ」


 従業員に逃げられたマスターは冷静なものだ。酔っ払いが起こすいざこざにも慣れている。これくらいは可愛いものだという顔でグラスをいていた。


「払いはここに置いてく! ニコル、じゃあな!」


 紙幣を何枚かカウンターの上に叩きつけ、エクジュも仲間たちのあとを追った。

 あっという間に店が静かになる。


「……マスター、特製果実酒、おかわり……」

「はいはい」


 もう既に用意されていた六杯目がすぐさま出て来た。


「……ねぇ、マスター」

「なんです?」

「僕、お酒をがぶがぶ飲んでるけど、大丈夫なのかな……」

「大丈夫ですよ、この特製果実酒を飲んでる限り・・・・・・・・・・・・は」

「そっか……お酒って、美味しいれ……」

「お客さん、わたし、みなさんにお酒を飲ませている立場でいうことじゃないかも知れませんけれとね」

「……なんれふ?」

「お客さんは今夜限り、お酒を飲まない方がいいですよ」


 全てに動じることを放棄ほうきしたマスターと、酔いに揺れているニコルの目が見つめ合った。少しの間があった。


「…………そうれふね、そうしまふ。……お酒は、これで最後にしまふ……」

「じゃあ、ちかいの乾杯かんぱいを」

「はひ……」


 先ほどまでみがいていたジョッキに特製果実酒を注ぎ、ニコルのそれとカチンと合わせてからマスターもそれを一気に飲み干した。

 果汁の味しかしなかった。


「……ぼく、そろそろ、かえります……」

「それがいいでしょう。お仲間にはお客さんが帰ったことを伝えておきますから。ああ、帰る前にお手洗いに行っておいた方がいいですよ――それと」

「はひ?」

「――元気出してくださいね」


 立ち上がったニコルがその言葉を受けて、固まった。海綿スポンジのようになった心にそれが染みこむのに数十秒がかかった。


「……………マスター、いろいろと、ありがろうございました……」

「毎度ありがとうございました」


 少し頼りない足取りでニコルが店の便所に寄り――ややあってそこから出て来て、一礼してから去った。


「……みんな、生きるのがつらいんだな」


 少年の姿が扉の外に消えて行ったのを確認し、この店を始めてから何回つぶやいたかわからない台詞せりふを口にして、マスターは再びグラスを磨き出した。


「酒は、生きる辛さを忘れさせてくれる――数時間とちょっとは、な」

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