「夢は終わりて、そして」(『十年前』完)

「…………」


 自室の寝台ベッドで、フィルフィナは目を覚ました。

 明かりをる窓一つない、真っ暗闇の部屋だ。扉を閉めていれば、外が昼だろうが夜だろうが関係ない。ほんのかすかなかび臭さが漂う部屋――フィルフィナの好きな臭いだ。


 壁時計は鳴っていない。いや、鐘が鳴り響く切り替えは閉じてある。もうこの壁時計は何年も鳴っていない。鳴らなくても、フィルフィナは特定の時間に起きることができる。


 脇のテーブルに置いてある手持ちランプを手探りで引き寄せ、明かりを灯した。魔鉱石の青白い光が全ての陰影いんえいを浮かび上がらせる。

 その光をほおに受けて、フィルフィナは今まで見ていた夢の内容を回想していた。


「……わたし、は……」


 額に指を置く。ひんやりと冷たい指先が刺激になる。

 夢――夢?

 確か、自分がリルルと出会った時の回想だった……ような、気がする。秒が過ぎるほどにそれは不確かなものになっていく。夢を見ていたということさえ確信がなくなるような速度で。


 覚める瞬間までは詳細に覚えていた夢が、起きた途端とたん曖昧あいまいなものになって散っていく。――いい夢を自分は見ていた。その確信だけがあった。確か、この部屋が主人公のような夢だったか……。


「――この、部屋……」


 今、自分がいる部屋を見回した。――フィルフィナが、最初の夜を過ごしたメイド部屋だった。

 メイド部屋にしても、もっといい部屋はあった。窓があり明かりが採れる、外の空気が吸える部屋もある。だが、フィルフィナはこの部屋を動く気はかけらもなかった。


 壁一枚を隔てれば、リルルの部屋がある。なにがあってもすぐに駆けつけられる。――いや、やはりそれ以上に、自分の運命が切り替わった部屋だから、というのが大きいだろう。

 死ぬまでこの部屋で寝起きしたい、本気でそう思っている。


「――わたしは?」


 確かめる。


「――わたしは、メイド」


 自分が誰であるか。なにであるか。


「だから、メイドの仕事をしないと」


 その気持ちが、フィルフィナをベッドから抜け出させた。



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 まだ、太陽が頭のてっぺんも現れていない時間。


 手持ちランプの明かりを頼りに、できるだけ音を殺してフィルフィナは屋敷を掃除する。自分とリルル以外に誰も寝起きしない屋敷だ。二週間に一度くらい帰って来るログトを別にすれば、誰もこの屋敷に入れたくない。


 窓を拭き、床をモップでみがき上げ――朝市に出かけ、食料を買い込んだ頃には太陽が完全にのぼっていた。今日も、いつものような一日が始まっている。

 フィルフィナが愛してやまない、いつものような一日。


「お嬢様?」


 ノックもなしにフィルフィナはリルルの部屋に入る。人影はない。奥の寝室の扉も開ける。


「――お嬢様」


 寝台ベッドの上に、求めるべき少女の姿があった。

 あごの先までに布団を引き上げ、くぅくぅと可愛い寝息を立てながら眠っている。

 もう、夜が明けて結構つというのに。


「――ふふ」


 十年で少女の背は伸びた。出会った時は自分よりも断然小さかったのに、あっという間に自分を追い越していった。

 でも、寝顔の可愛かわいさは変わらない。日に日に愛おしくなる寝顔。この寝顔を見られるのは自分だけの特権だ。誰にも渡したくはない。


「――リルル」


 この幸せすぎる時間。幸せ過ぎるから、この時間を失うのが怖くなる。

 順当にいけば、この少女がいずれ老い、死んでいくのを自分が看取みとることになるのだ。

 それが人間である少女リルルと、エルフたる自分フィルフィナの宿命なのだ。


 できるなら、この少女の盾になって死んでしまいたい。

 そうしなければならない時があったら、迷いなくそうしよう。少女を失って千年の時を過ごすよりも、それはずっとずっと幸せなことなのだろうから――。


 すう、とフィルフィナは息を吸った。

 さあ、メイドらしく振る舞おう。


「お嬢様」

「うーん……」

「お嬢様、起きてください」

「むにゃむにゃ……あと三時間……」

「起きろ」

「ふぎゃ!」


 フィルフィナがシーツを鮮やかに引き抜いたことで、これも鮮やかに十回弱ほど回転したリルルが床の絨毯じゅうたんの上に顔から落ちた。猫がつぶされたような声を少女が上げる。


「なにをするの! フィル!」

「相も変わらずねぼすけさんだからですよ。もう朝です」

「もっと優しく起こしなさい!」

「そんなことをしていたら、起きてもらえる前に日が暮れてしまいます。ほら、今日は大事な日なのですよ。早く寝台から……は、出てますね。お支度したくを急いで下さい――」

「もーっ! フィルなんか嫌いーっ!」

「はいはい」


 ――時間の全ては過ぎ去る。過ぎ去った時間はもう、戻っては来ない。

 その時間を刻んだ記憶も、いずれはちて果てて、消え去る。はかないものだ。

 百年を生きられない人間も、千年を生きるエルフも、その事実の前では大差がない。


 故にこの瞬間、瞬間がたまらなく、体のしんから震えるほどに愛おしいのだとフィルフィナは想う。何気なにげない時の移ろう中に、永遠の予感を覚えるのだ。


 ――いずれ、わたしの命もきる日が来る。


 その時には、生きていてよかったと思える想い出を、両手から、両腕からこぼれるほどに抱えてあの世に旅立ちたい。あの世に持って行けるものなど、それ以外には存在しないのだから。


 だから。

 願わくば。

 この瞬間が決して、夢や幻でないことを、せつに祈ります――。



「十年前――リルルとフィルフィナの出会い」完

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