「スープ、おかわり、何回でも」

 熱すぎる、と最初は思えていた湯が次第にぬるくなり、体の疲れも湯に溶けて抜けてしまったかと思える頃合ころあいで、少女が浴室に戻ってきた。


「そろそろ上がる?」

「……誰も来ないのか?」

「え?」


 フィルフィナの言葉の意を少女は理解できなかったらしい、首をかしげるだけだった。

 時計もないのでどれだけの時間がったのかはわからないが、り方が押し寄せるには十分な時間があったはずだ。


「ごはんがあるよ」

「ごはん……」


 体がぬくもりきった後に、ごはん。

 その言葉がえきった身と心に刺さる。こごえから脱したことで、物事をはねのけようとする精神的な抵抗力もゆるみきっていた。


 食べたい。お腹、空いた。


 空腹をうったえることもできなかった胃、そこだけが元気を取り戻し、フィルフィナにせわしなく要求し続けている。なにか、入れろ、と。


「髪の毛、拭くねー」


 まだ肩まで湯船にかったまま、やわらかい布を髪に当てられる。水気が途端とたんに奪われていき、数分もすれば髪が生乾きになる。頭を優しく叩いてくれる感触がなくなったのを頃合いと見て、沈めていた腰を浮かせた。


「はい、これで体を拭いて」

「ああ……」


 気力が回復しているのがわかる。自分が動けなくなっていたのは体力よりも前に、気力が尽きていたからなのだと気が付く。


 笑みを浮かべたままこちらをじっと見つめてくる少女に背を向けた。相手が同性、遙かに年下のニンゲンの少女であっても、恥ずかしいという感情がわき上がってきている。


 ニンゲン……殺し合わない相手とこんなに近くにいたのは初めてだ。自分にとってのニンゲンとは、殺し殺される、そんな関係でしかなかった。知人などいるはずもない。


 フィルフィナにとって、目の前の少女はまさしく未知の存在だった。わからない。わからないものは、怖い。


「……お前は、エルフに知り合いがいるのか?」

「ううん、いない」

「……怖くないのか?」


 あの老執事ろうしつじはあからさまに恐れていた。近寄ればそれだけで呪いがかかると信じ込んでいたように。


「怖くないよ。だって、なにもしないでしょ?」

「……何故わかる。わたしは大勢ニンゲンを殺してきたんだぞ」


 少女が目を見開く。

 そうだ、恐れろ。それがニンゲンとエルフとの正しい関係なのだ。


「お前だって殺すかも知れないぞ」

「殺さないよ」

「……何故わかる」

「殺すつもりなら、そんなこといわないと思う。いわないで殺してる。いうだけ損じゃないのかな」

「…………」


 年頃の割りには、論理的なものの考えができるようだ。さすがに高等な教育を受けているということか。

 ……なのに、どうしてわらわを恐れない。エルフに対する偏見へんけんもしっかり教育されているはずだろう。


「どうして、大勢殺したの?」

「ニンゲンが里に攻めかかってきたからだ!」


 怒鳴り声が出る。体力が回復した証拠、といえばあれだが……。


「エルフは平和な種族なんだ。攻められなければ戦ったりしない。攻められたら、戦う。いったろう。エルフはほこり高いんだ」

「だったら、私があなたと戦おうとしなければ、殺したりしないよね?」

「…………」


 その通りだ。だまらされた。


「じゃあ、よかった」

「なにがいいんだ……」

「湯冷めしてしまうから、早く服を着て」

「……着る! じっとわたしを見るな!」

「恥ずかしくないんじゃなかったの?」

「うるさい!」


 後ろを向いてもクスクスと笑う少女の様子に、とがった耳の先端までもが真っ赤に染まってしまう。これ以上付き合っているとおかしくなりそうだ。さっさと服――メイド服を自分で着る。


「お部屋、用意したから。こっちで休んでね」

「…………」


 廊下を少し進んだ、上り階段の陰にあるドアを開く。開いた途端に、鼻の奥から刺激となって脳に突き刺さるのではないかという美味おいしそうな匂いが漂っていた。


 せまいが清潔せいけつな部屋だ。簡素かんそ寝台ベッドには真っ白いシーツが……完璧なしつらえではないが、整えようという気持ちは伝わってくるくらいには整っていた。


 小さな机、小さなタンス、小さな本棚……だいたいわかる。使用人が住み込みのために使う部屋だ。机の脇には車輪付きの荷台があって、上には大鍋おおなべせられている。匂いの発生源というわけだ。


「座って。よそってあげるから」


 ここまで来たら、食べさせられるのが毒でもかまわない。そんな思いでフィルフィナは椅子に座った。そのフィルフィナの目と鼻の先で女の子が大鍋のふたを開けた。牛乳とブイヨンの香りが混じった濃厚のうこうな香りが立ち上る。


 フィルフィナの腹の中で胃が回転するような音を鳴らす。痛いほどに胃が腹の奥でうねっていた。


「はい、召し上がれ」

「…………」


 手の平で小さく包めるくらいのわんに、具材をドロドロに溶かしきったスープが半分の半分ほどよそわれていた。一緒に手渡されたスプーンなら、五回もすくわずに平らげてしまえるだろう。とても空腹を満たせる分量ではない。


「だいぶ、長い間食べていないんでしょ?」


 フィルフィナの不満とも非難ともいえる眼差まなざしから察した少女が、それでも笑顔を崩さずにいう。


「全然食べていないところに、いきなりたくさん食べるととっても体によくないんだって。悪くすると死んじゃう人だっているって、お父様がいってた」

「…………」


 いわれて、自分にもそういう知識があることを思い出す。いや、そういう知識があるのに、自分は椀の中のものを全部一気にかき込もうとしていたのか。それでは知識を持っている意味もないではないか。


「ゆっくり、ゆっくり食べて。私も少しずつよそってあげるから」

「…………」


 ありがとう、といおうとしたが――不思議な震えが舌を動かしてくれなかった。いや、礼は後でもいい。今は、少しでも早く空腹を満たしたい。


 あせる気持ちをおさえながら、スプーンを動かす。最初のひとさじを口の中に入れる。

 ――入れた瞬間に、しびれるような刺激が舌に走って、それが全身の神経を電撃のように走った。


「んっ……!!」


 思わずむせる。口の中のものをき出すことだけはけられたが、鼻とのどが反射的に震えた。


「あ……どうしたの!? 美味しくなかった!?」


 少女があわてる。

 ――逆だ。

 もう何日かぶりに口にした塩分が舌を刺激して、それが体を混乱させたのだ。


「ち、違う……美味しかった。ただ、びっくりした」

「あ……よかった。これ、残り物だから、出すのは失礼かなと思ったんだけど」

「関係ない。食べ物は食べる。食べられないもの以外」

「エルフってお肉、食べないんじゃなかったの? これ、鶏肉とりにく入っちゃってるけど」

「肉も食べる。エルフは森と共生する。森の中の恵みも口にする。その中には動物も入っている。誤解ごかいが広まっているようだが――もっとくれ」

「うんっ。少しずつね」


 一気に大盛りで渡せば手間もないだろうに、ただでも小さな椀に、少女は本当に本当に少しずつよそってくる。

 その気遣きづかいと、スープの味が本当に心に染みてくる。染みすぎて苦痛なほどだ。


 一時間程前まで凍えきっていた自分が、どうしてこんなところで、こんな手厚い目にっているのか。

 目の前の少女は、自分を官憲かんけんに突き出そうという考えはつゆほども持っていない。それはわかる。

 だから、わからない。


「……なにが目的だ?」

「目的?」

「何故こんなに、わたしに親切にするんだ?」


 親切にされている側のいうことではないとわかっていながらも、口にせざるを得ない。


「こんなことをして、お前になにか得があるのか」

「あるよ」


 なんだ、いってみろ。


「今夜、寝る時に、あそこにいた女の子がどうなっているか、心配して夜も寝られないから」

「……わたしは女の子じゃない」

「そうなの?」

「男だという意味でもないぞ! わたしはお前の十倍以上は歳を取っているんだ。子供扱いするな!」

「ローレルよりもとしが上なのかぁ……それで見た目は子供のままなんだね。いいなぁ」

「誰だ、そのローレルというのは……」

「私のおばあちゃん、みたいなひと」

「…………」


 興味はない。自分はこの少女に興味などないのだ。だからそのローレルという者がどういうニンゲンなのか、聞いてはいけない。興味がない風に振る舞え。


「……わたしにもうしゃべりかけるな! 気が散る!」

「ゆっくり食べてね」


 ニコニコという笑みを少女は崩さない。裸を見られているわけでもないのに、フィルフィナの耳は真っ赤になったままその色を引かなかった。


「しゃべりかけるんじゃないぞ」

「うん。はい、おかわり」

「…………」


 三杯目の椀を受け取って、フィルフィナは自分の顔を隠すように椀を――隠しようがない大きさなのだが――顔に被せるようにして食らいついた。


 胃の底から温かさが全身に広がっていく。たきぎをくべられた暖炉だんろのように、生きる力が湧いていく。そのせいで口数が多くなり、少女にきついあたりの言葉が増えていくというのは皮肉だったが。


「まったく……」


 少女に背を向けた。それでも、自分の長い耳はその先端を見られてしまう。耳の先まで脱けない、いや、ますます積もる熱が帯びられていることに、フィルフィナは心底の羞恥しゅうちを感じていた。

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