「受けろ。乙女の愛と、怒りと、悲しみを」
怒りが胸を、心を、魂を燃やし、煮えたぎらせる。
許せない、許しておけない、こんな奴は、許していいわけがない!!
「君が? 快傑令嬢? ま……まさか、そんな、あんな」
「あんなトロそうな娘が、快傑令嬢とは信じられない!?」
リルルの手がバリスの喉元にかかる。細腕一本が、長身のバリスを爪先が浮く高さまで吊り上げた。
「ぐぅ……ぅぅっ……!」
息ができない苦痛にバリスの喉からおかしな音が漏れ、
こいつの仮面は、今叩き割ったあの銅製のものなんかじゃない。
優しい婚約者として振る舞っていた、あの貴公子としての顔こそが仮面だったのだ。
そんなチャチな仮面に、自分は今まで
「信じなくてもいいわ。もう、そんなことは関係ない!」
「わ、私を殺す気か……か、快傑令嬢は人を殺めないと……」
「殺す」
少女のアイスブルーの瞳が燃えていた。
「殺す――私の心の中のあなたを殺す! もう、間違ってもよみがえってこないように!!」
「――死ぬのは」
リルルの胸に硬い感触が押し当てられた。
いつの間にかバリスの手に握られていた拳銃が、リルルの心臓にその銃口を乗せていた。
「お前だ、小娘っ……!」
引き金が引き絞られた。青い光と同時に凄まじい銃声、赤い炎と白煙がリルルの胸の上で噴き出された。
「っ」
物もいわずにリルルの体がまっすぐに吹き飛んだ。二十歩ほどの距離をその体が飛んで、背中から床に跳ねた。
喉を絞められての拘束から逃れたバリスがしゃがみ込み、立ちこめた白煙をまともに吸ってその場で激しく咳き込む。
「けほっ……けほっ、けほっ、げほっ……!」
肺の中に吸い込んでしまった硝煙を吐き出すのに、数十秒の間。体を震わせる必要があった。
「ま……まさか、フォーチュネットの娘が快傑令嬢とは……」
血の気が引ききった顔に、いくらか血色が戻ってくる。酸素が足りなくなった頭を激しく振って、バリスはまだ後頭部の芯に残る痛みに顔をしかめた。
「くそっ……これで、フォーチュネットの財産をかすめ取る計画がご破算になった……。……死体の始末はどうにでもなるが、小娘の親父にはどう――」
思考はそこで途切れた。
見てしまったからだ。
「う……うう……」
胸を撃ったはずの小娘が、むっくりと起き上がったのを。
「ま……まさか。弾が外れるはずがない。お前は、胸を撃たれて……」
「……撃たれてはいないわ!」
リルルが左手を振った。その手にあった弾丸が投げつけられ、バリスの目の前で跳ねた。
「フィルがくれた手袋でないと、手が吹っ飛んでいたわ……いつつ……!」
リルルに――快傑令嬢リロットの操る武器に精密さと力を与えてくれる手袋、その手の平の真ん中にうっすらと焦げ
「あ、あああ、ああああ!」
恐慌に
「わ、私をどうするつもりだ!」
「いったでしょう! 私の中から殺すと!」
リルルの右手に、銀色の
リルルがそれを指に
リルルの手を、腕を、右半身を燃やし尽くすかと思えるほどの火炎が渦を巻いていた。炎の竜巻をその腕に宿らせているのかと錯覚させるような、灼熱の奔流!
「な、ななな、なんだ、それは! それで、私を殴り殺すつもりか!?」
リルルが一歩、一歩と距離を詰めてくるのにバリスは腕を突き出すことしかできない。腰が完全に抜けていた。その場で立ち上がることもできない!
今まではリルルの顔が見えなかった分、いくらか感じなかった恐怖が、今では鉛より重くのしかかる。その黒い瞳に少女の顔がはっきりと映っている。少女の食いしばられた歯の間から漏れる息が、まるで炎の息のようにバリスには視えた。
「――覚悟を決めなさい! バリス・ヴィン・エルズナー!」
「いやだ、いやだ、嫌だ! そんなもので殴られるのは嫌だ!」
「往生際が悪い!」
リルルがムチを投げつけた。空中で
それがバリスに全てを察せさせる。自分の運命がどうなるのか、百万文字の言葉よりも雄弁に!
バリスの目から、鼻から、口から体液が噴き出す。彼の日に会った、
そして、もう、これからも存在しないことになる!
「た――頼む! せめてこの顔を、この顔を殴るのだけはやめてくれぇ!」
「やかましいッ!!」
リルルが腕を振り上げる。腰をねじる。
全ての体重と、自分の中で爆発した感情の全てを叩きつけるために。
――この数日で、
「食らいなさい!! 乙女の――愛と、怒りと、悲しみの!!」
全力で左足を踏み込む。それを軸にし、振りかぶった右腕を渾身の力を込めて前に繰り出す――空から地上に突き刺さるように降る、炎をまとった
リルルの開いた口から
「婚約破棄パぁァァァァァァァァァンチィィッッ!!」
バリスの顔の真ん中にリルルの拳がめり込み、様々なものをへし折る音を響かせながら振り抜かれた。
悲鳴を上げることも許されずバリスの体は吹き飛び、固いコンクリートの壁に顔から激突する。
手で弾かれて潰された虫のようにその体が壁に張り付き、血の筋をたっぷりと塗りつけてずるずると下がり、うつ伏せに倒れた。
長身の体が床でびく、びくと震える。もはや息しかしていないようだった。
「は――――」
リルルの拳を包んでいた炎が、ゆっくりとその勢いを弱めていく。自分の全てを吐き出す一撃を繰り出したリルルの心に、隙間風のような冷たい風が吹き込んできた。
今まで燃えさかっていた心をそれは急速に冷やしていき――頭の全部を煮えたぎらせていた怒りが、見る間に消えて行くのが他人事のようにわかった。
「う……うう、ううう、ううう……!」
涙は止まらない。体の熱を取り去るように、冷えていく心に比して涙だけが熱かった。
「……ニコル、ニコル、ごめんなさい……ごめんなさい……!」
膝が崩れる。ドレス姿の少女がその場にうずくまる。そのまま横たわりそうになる体を、辛うじて腕が支えた。――立てそうにない。
「私、こんな男とあなたを
「――お嬢様!」
弓と矢を手にしたフィルフィナが飛び込んできた。床に座り込んで涙を流すリルルの姿に、フィルフィナの顔に微かな驚きが走る。
「どうしたのです? 動きがないから心配して、突入して来たんですが……」
「……どうもこうもないわ!」
フィルフィナにぶつけても仕方ないとはいえ、飲み込みきれない苛立ちをリルルは振りまいた。
「そこに転がっているでしょう! それが仮面の男の正体よ!」
「この、虫の息になっているのが、ですか?」
壁際にうつ伏せで倒れてけいれんしているだけの男の髪を無造作に引っ張り、フィルフィナはその顔をのぞき込んだ。
「……誰です? これ」
「顔を見たらわかるでしょう!」
「いえ、見てもわからないから聞いているんですが……」
「バリス・ヴィン・エルズナーよ!!」
「ええっ!? これが……!?」
滅多に聞けないフィルフィナの上ずり声が発せられた。
「……もったいない、顔だけはよかったのに…………こうなる前に型取りしておくべきでした……」
フィルフィナがバリスの顔をしていたものの前で、広げた手を縦に合わせてもごもごとなにかを唱えた。
「しかし、やはり彼が黒幕でしたか」
「……やはりって、なに!?」
フィルフィナの言葉にリルルの涙が止まった。
「犯人がわかっていたの!?」
「わかっていたわけではありませんが、容疑者の一人ではありましたね。――少なくとも、面識がある人間の中では最も疑わしい人物でした」
「どうして……! そんな疑わしい点なんて、私は少しも……!」
「昨日、お嬢様がエルズナー家を
リルルが息を飲む。確か……。
「……バリス!」
「捕虜はいってましたよね、あの場所で馬車が来るのを待ち伏せしていたと。しかし、屋敷の帰り道の経路からは全く外れている場所でした。迷い込むとは考えられません」
「ということは……」
「御者が、自分の判断で馬車をそこまで運んだということです」
「バリスが、御者に
「もしくは未知の第三者かも知れなかったですが。私たちが面識を持っている人間の中で、そんなことができるのは彼だけだったということです」
何故それに気が付かなかったのか。御者だけいなくなるならまだわかりもするが、馬ごといなくなるのは、御者までが結託しているという説をかなり補強する。
「それに……わたしたちが投げ込まれた毒のことを知ったことが、その毒を撒いている者の耳に入るのがあまりにも早過ぎました。あり得ないほどに」
「……耳に入れたのは、私自身だったということね……」
なんという間の抜けた話であったのか。
「――しかし、本当にそうでしたか」
第三の存在の介入の可能性が否定できない以上、フィルフィナとしても軽々しいことは口にできなかったのだろうが……。
「お嬢様、脱出しますよ」
「……待って! 毒の資料を、まだ」
「倒れていた工場長をしばき倒して、わたしが確保しています」
メイド姿の少女の手際の良さに、リルルは舌を巻き続けるだけだった。
「ヤマミネの草を煎じ詰めたものですよね」
「そ、それよ。……ん?」
遠くでなにかが爆ぜる音が聞こえてきた。焦げ臭い臭いもうっすらと漂ってくる。
「
外から金属の鐘を激しく打ち鳴らす気配が聞こえてきた。闇に閉ざされているはずの界隈で、赤い炎を上げ始めた廃工場の出火に気づいて消防隊が動き出したのだろう。
「――役人たちに工場に踏み込んでもらって、ここの実態を知らさねばなりませんから」
「封鎖は大丈夫なの? 扉は確か、開かないように固めてあって」
「落ち着いてください。あれは外からは簡単に開くんです。知っているでしょう」
フィルフィナが指より少し細いくらいの円筒状の物体を取り出す。それをコンクリートの壁に当て、線を引いて大きな長方形を描いた。
線と線がつながり、完成した長方形の面が――途端に光り輝く。光が鎮まった後、そこには一枚の鏡があった。人ひとりがやっと体を入れられる広さの鏡――リルルは知っている。簡易の転移鏡だ。
「話は後で、お嬢様、早く」
「うん」
鏡は十数秒もせずに消滅するはずだ。それの性質を知っているから、これ以上ここでグズグズしてはいられなかった。
フィルフィナに腰を押されるようにして、鏡に頭を突っ込む。水面に顔をつけるような一瞬の抵抗――それを感じた瞬間、視界が反転を何度も繰り返した。三半規管に鈍い痛みが走る。
後ろから押されるままにリルルは鏡の中に全身を押し込み――次元の歪みの中に、全身を浸した。
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