「主演はいつだって、少し遅れてやってくる」

 薄い夕焼けのあかさをわずかに残して、西の水平線の向こうに太陽は沈んでいった。

 街のそこかしこに街灯の光が灯る。闇の中で光が浮かび上がって街の形を描き出し、まだ眠りにつかない人々が寸時を惜しむようにせわしなく動いていた。


 そんな、よいの口にも至らない時刻。海に面した港湾区域であるこの一帯だけは人の行き来が少なかった。

 この区域を象徴する、船から直接荷を下ろすための高さ二十メルトの大型クレーン。それが故障して以来、この数ヶ月荷揚げの作業は行われておらず、人と物が行き交うかつての賑わいも今はまさに過去の話だ。


 その大型クレーンの稼働に依存していたいくつもの工場が倒産し、光の絶えないはずのこの王都の中でそこだけが、街灯もつかない闇の地域と化していた。


「――――」


 解体を待つためにその巨木のような姿をさらしているクレーンの頂上で、体を包んだマントの全部を風になびかせている少女の姿があった。

 両手で目にあてがわれているのはオペラグラスだ。が、ただのオペラグラスではない。


 ロクに光もない、闇の底のように暗い界隈もそのオペラグラスを通して見れば、まるで晴れた真昼の景色を見るように明瞭に見て取れる。

 闇に紛れてうごめこうとするものも、その視界から逃れることはできなかった。


「これで三十人……三十一人目か」


 視野の中央にえられた建物――かなりの高さだ。高さは二十メット、大型クレーンと同じくらいの高さがある。製鉄所かなにかだったのだろう……建物の外観はくすみきっていて、閉鎖されてから結構な期間が経っているのがわかる。


 そんな、忘れられたかのような工場に、人目を避けるようにして集まる人影があった。ひとり、ふたり、三人どころではない。冷静に観察すれば、アリのようにわらわらと集まってくる。

 死に絶えたようなこの区域でその工場だけが、息を潜めるようにしながらも確かに生きている。目張りされているのか窓に光は見えなかったが、時折開く扉からは内部の明かりがその都度れた。


『お嬢様』


 リルルの耳を飾っているイヤリングが震えた。フィルフィナの声が聞こえてくる、南側から工場を監視しているリルルの死角を補うように、フィルフィナは北側から工場を見張っていた。


『北東の方向、大通りの方向から馬車がやってきます。二頭立て』


 いわれるままにオペラグラスを向ける。光と陰が際立った視界の中に、二頭立ての馬車がやって来るのがとらえられた。大型の馬車だ。

 装飾の細かいところまでは見えないが、だいたいの形からわかる――かなりの料金を払わないと手配のできない辻馬車つじばしゃだ。


「確認したわ……もう、一分もしないうちに着くみたい」


 ゆっくりとした速度でまっすぐに工場に向かってきたその馬車は、元製鉄所の敷地に入っていった。馬車の扉が開いて、中の人間が降り立つ――二人。


『人物が見えましたか?』

「ええと……」


 念じると、オペラグラスの視界が狭くなった。その分、人物の姿が大きくなる。ここからは一カロメルトは距離が離れているが、遙か遠くの人影の顔立ちまでが手に取るように見えた。


「……一人は年かさ、お父様と同じくらいの歳かな……嫌だ、なんかお父様に似てる。髪は全然ないけど」

『もう一人は?』

「仮面を被ってるわ」


 頭のほぼ全部、目元どころか鼻まで隠れてしまう仮面――かぶとといってもいいかも知れない。背は高く、隣の中年の男と比べると際だって見えるくらいだった。

 その姿も長くは確認できなかった。二人は連れ立って工場の中に入っていき、馬車は元来た道をたどって工場から出て行った。


「馬車は帰っていったわ……しばらく、工場に残るみたい。多分、工場長と工場主なんじゃないかな?」

『顔を隠しているのは、きっと相当な不細工なんでしょうね』

「仮面で顔を隠さないといけないほどに? ……可哀想……」

『……冗談を間に受けないでください。……どうも訳ありのようですね……あと、十五分待ちましょう。それで動きがなければ』


 その後の言葉は聞かずともわかった。リルルはマントの肩口を引き寄せた。

 陸から海に吹き付ける強い風が体温を奪おうとする。暖かい飲み物がほしい――突入が終わったら、盛大に飲もう。打ち上げをしてもいいくらいだ。


 十五分が経過した。もう、工場に大きな動きはない。


「――行くわ」

『……本当にあの方法で突入するんですか? かなり派手ですね……』


 事前に告げてはあったが、フィルフィナにはいくらか不安があるようだ。


「派手でいいじゃない。めいっぱい派手にしたいの――玄関をノックして、こんばんは、って挨拶あいさつする?」


 リルルの口元に笑みが浮いていた。普段は隠れている少女の本質がそこにあった――なんだかんだで、恐怖と緊張感の狭間を楽しんでしまうという、困ったもう一つの顔。

 それがいいことか悪いことなのか、そんなものはいくらでも後で考えればいいことなのだ。


 だから、リルルは立ち上がった。大型クレーンのてっぺんに立つ少女をますます風がなぶっていく。


「これが正真正銘、快傑令嬢の最後の晴れ舞台なんだから、自由にさせて」

『……わかりました。わたしは出入口を閉鎖します。お嬢様、くれぐれも気をつけて』

「よろしくね、フィル」


 会話が途切れた。それを機にリルルはマントを放り出す。薄く軽いマントはすぐに陸風が奪い去り、暗い海の向こうに持ち去っていった。

 薄い雲に隠れていた月の光がその瞬間だけ顔を出し、ぎらりとするような強い光で下界を照らす。


 踵を合わせてまっすぐに立つ、白い下着姿の少女が天空からの光を浴びて闇にその姿を現した。

 リルルの手に赤いフレームのメガネが乗せられる。リルルの素顔を誰の記憶からも奪ってしまう、認識阻害そがいの魔法を帯びたそのメガネ。


 このメガネをかけて、幾度いくたびの戦いに身を投じて来ただろうか?

 ――それも、これで。


「――これが最後の戦いよ……よろしくね、リロット」


 リルルの手がそのメガネを顔にめる。少女の姿が一瞬、数百本の横に走る光と化してかき消えそうになる幻像となる。

 その光のブレがおさまった時――そこには、薄桃色のドレスをまとった少女が立っていた。

 頭に被せられた帽子、広いスカートのすその全部を風にはためかせ、暗い港の一点に咲く一輪の花のように鮮やかな姿をほころばせていた。


 少女――リルル、いや、快傑令嬢リロットの手に一本の棒が握られた。

 小さな指の動きで、それは瞬く間に大きな傘を開く。

 一面に漆を垂らしたような空を背景にして、広い傘がその白さをにじませた。


 薄桃色のドレス姿の少女の足が大型クレーンを蹴る。なにもない虚空に一歩を踏み出す。

 最後の大舞台。誰も聞いてはいないが、確かに開幕のベルは鳴り響いた。


 風に吹かれ、風に抱かれ、風とたわむれながらリルルは軽快なハミングを刻んだ。ゆっくりと行こう。ここまで来れば、急ぐことはない。

 主演はいつだって、少し遅れてやってくるものでもあるし。

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