「病魔は泣きながら上目遣いでこちらを見る」

 日の出の光が薄いカーテンを通して窓から差し込んでいた。

 その光を頬とまぶたに受けて、幼子のような寝顔でリルルはうめきを漏らす。


「ん……ん、んん……」


 目覚めるのに苦労はなかった。起きられる、と思える。

 久々に寝た、という実感があった。相当に疲れがたまっていたのか、この二十四時間で自分はどれだけ眠っていたのか……。

 そんなこんなを頭の中で巡らせているうちに、ぐるるる、と胃が震える音が体の全部を震わせた。


「……お腹、空いた……」


 半分寝惚けながら寝台ベッドの上で体を起こす。――昨日、自分で寝台に入ったのだろうか? 記憶が曖昧だ、はっきりしない……。


「フィル……?」


 寝室から出る。居間に出た途端に、温かく美味しそうな濃い匂いが鼻をくすぐった。


 部屋の中央にしつらえられた、四人がけのテーブルの上に食事の用意がされていた。パンにサラダ、小鍋と空の深皿が置かれている。小鍋は小さな保温コンロの上に置かれ、鍋の下で小さな魔鉱石が放つ青白い炎が微かに揺らめいていた。


 起き出したらこれを食べろ、ということなのだろう。フィルにしては珍しくもない。


「――いただきます」


 小鍋を外し、コンロに蓋をする。その上に再び小鍋を乗せる。

 ホワイトソースのシチューをよそい、皿に盛る。スプーンですくったそれに、たっぷりと息を吹きかけて口の中に入れ、たっぷりの時間をかけて咀嚼そしゃくした。


 ほぐれ切った鶏肉とやわらかいイモが口の中で溶けていく。一食抜いたせいか、食欲は旺盛だった。瞬く間に一皿目を平らげる。

 二皿目をよそう、食べる、空にする。


「――元気、出さなくっちゃ」


 今日の予定は……特にはなかったはずだ。なんにしろ、今日、ニコルに手紙を書いてあげたい。一週間に一通の手紙では、ほぼ毎日のように便りを送ってくれるニコルに申し訳ない――。

 書き出しはどうしようか。いつもの調子でいいのか。


「ねえちゃん!」


 バン! といきなり開け放たれたドアの音に、リルルは口にしていたパンを思わず全部飲み込んだ。


「うーっ!」


 慌てて牛乳で飲み下す。幸いにしてそれは素直に食道を下りていってくれた。


「な……なな、なに!?」

「リルルねえちゃん、大変なんだよ!」


 振り返る。ソフィアの家の近所に住む男の子がそこにいた。昨日、泥だらけの広場でリルルとボール遊びをした子供の一人だ。


「なんですか、騒がしい」


 フィルフィナも顔を出してきた。いつもの隙のないエプロンドレス姿だ。


「リルルねえちゃん、フィルねえちゃん、早く来て! 大変なんだって!」

「なにが大変なんですか。ちゃんと説明してください」

「ローレルばあちゃんが危ないんだ!」


 リルルは反射的に立ち上がった。



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 二頭、縦にぴったりと並んで疾走する人馬族ケンタウロス。その馬蹄が石畳を打つ音が朝の街に響いていた。

 そのそれぞれの背中に、部屋着から着替えもしていないリルル、そしてフィルフィナと男の子がしがみついている。


 大通りを行き交う大勢の人の流れを器用に滑り抜け、ほとんど全速力で街を走り抜けた。

 ほんの十分ほどで二頭は、フォーチュネット家邸からソフィアの家に到着する。


「ここでいいんですね?」


 大きなえりを折り目正しく折っている制服を着た気さくな青年が、愛想のいい調子で問いかける。


「速かったわ! 助かった!」

「いえいえ。それで、お代は特別料金計算で……」

「これで足りる!?」


 リルルが財布から出した三枚の紙幣に、青年が目を丸くした。


「おつりは要らないわ! ありがとう!」

「まっ、毎度あり! 今度はご指名くださいね! ごひいきに!」


 青年が差し出した名刺を受け取るのも慌ただしく、リルルはソフィアの家に飛び込んでいた。


「ソフィア!」


 扉からのぞける居間には誰もいない。そのまま奥に入る。


「ローレルは!? 大丈夫なの!?」

「……リルル!」


 ローレルの枕元にソフィアがひざまずいていた。昨日までは極力側に寄ることを控えていたが、フィルフィナが流行病はやりやまいではないと見抜いてからは恐れるものは消えている。


「……寒い、寒い、寒気がする……」


 布団にくるまっているはずのローレルが震えていた。元々白い顔からは一切の血の気がなくなって透き通るのではないかと思えた。こめかみに浮かぶ青い血管だけが色を帯びている。


「夜が明ける前くらいからこんな感じなんだよ。あたしゃ、どうしていいかわからなくて……」


 寒い、寒いと訴えてくるローレルをソフィアが必死にその肌をこすっている。少しでも手を休めれば、そのままローレルが息絶えてしまうのではないか……。


「ローレル、しっかりして!」

「お酒を。きついのを少量、飲ませてあげてください」


 ローレルの額に手を当てたフィルフィナが冷静に指示をした。落ち着いて手首、首筋の脈を確かめていく。


「わかった! 近所でもらってくるからね!」


 ソフィアの大きな体が飛び出していく。


「部屋を暖めましょう。ストーブに火を点けてください」

「わかったわ!」


 半月ばかり使っていないストーブは部屋の隅に置かれたままになっていた。魔鉱石の残量を確認してから火起こしで火を点ける。窓を少しだけ開けて空気が入る隙間を作った。


「リルル……リルルかい? そこにいるのは……」


 ようやくリルルがいることに気づけたのか、ローレルの唇がうわごとを呟くように震えた。


「ローレル! 私よ!」

「ああ……リルル、手を、手を握っておくれ」


 いわれるがままにリルルは、ローレルが必死に持ち上げた手を握った。握った途端にその冷たさと、皮の薄さに心臓を震わせる。


「ローレル、元気を出して……」

「……今度は、あたしも最期だと思う。よくなる気がしないよ……」

「いつもの気の強さはどこにいったの! だいじょうぶだから! ニコルが帰ってこないうちに死んでどうするの! ニコルが悲しむわ!」

「ああ……ニコル、ニコル、ニコル……ニコルにも会いたい、死ぬ前に、一度でいいから……」

「――持ってきたよ!」


 ソフィアがラム酒の瓶を抱えて帰ってきた。フィルフィナは吸い口に残った水にそれを注ぐ。

 透明だった水があっという間に琥珀こはく色に染まって、フィルフィナは吸い口をローレルの唇にあてがった。水滴を垂らすように慎重に、ゆっくりとローレルに飲ませていく。


「お医者様は呼んだの!?」

「いや、これから……」

「ノワール先生を連れてくるわ! ローレルにつきっきりで看病してもらう!」

「お嬢様、ノワール先生はもう先月に引退されました。ちょうど一ヶ月前、ギックリ腰でどうにもならなくなったとお聞きになったでしょう?」

「じゃあ手が空いてるわね! ギックリ腰なんか、一ヶ月もあれば治ってるわ!」

「リルル、ノワール先生といったら名医じゃないか……治療費も高いって聞くよ。うちには……」

「心配しないで!」


 側に机があったら手の平を打ち付ける勢いでリルルが言い放った。


「ローレルはニコルのおばあちゃんよ! ニコルと私が乳兄弟なら、私にとってもローレルはおばあちゃんよ! 私がいたずらした時、ローレルは本気で怒ってくれた! 私の家族よ!」


 リルルはきびすを返す。


「おばあちゃんを助けるためなら、私は何でもするわ!」

「リルル……」

「ソフィアはローレルについていてあげて! フィルフィナ、私についてきて!」

「……わたしたちはいったん離れます。どなたか一人呼んで、目を離さないようにして下さいね」

「あ……ああ、ああ……リルル、ありがとう。あたしらもう、何年も屋敷に出入りもしてないのに……」

「家族だっていったでしょう! ローレル、待っててね! すぐに元気にしてあげるから!」


 弾丸の勢いでリルルは家を飛び出す。そんなリルルにぴたりと張り付いたフィルフィナが、ポケットから取り出した呼び笛を大きく二回鳴らした。


 空を貫くか、というくらいに甲高い笛の音が街中に広がっていく。程なくして、遠くから聞き慣れた馬蹄の音が聞こえてきた。

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