アサガオとカーネーション
バンバ
JK淫魔ちゃんの話。(前)
「先輩。私、先輩が好きです。付き合ってください」
何気なく、しかし覚悟が籠った声。
しかしそこに悲壮感や焦熱感は無い。
緩やかな、なあなあ感。ずっとこのままであり続けたいような陽だまりに、冬場に浸かるぬるま湯に似た暖かさがあった。
強いて言えば、今の時期は梅雨を目前に控えて汗ばむ程ではないにしても、春というには少し暑いくらいか。
「ごめんね。ありがたいし嬉しい。けれど、君の想いには応えられない」
「……もー!! 魔眼まで使って催眠かけてるのにー!! せめて理由! 理由をプリーズ!!」
「はっはっは。君の修行不足じゃないかなぁ? エレノアちゃん」
背の高めの青年と、どこか人を小馬鹿にしたような少女が音楽室の中で騒いでいた。
少女がキレたのを皮切りに『怒りの日』を短く鳴らしたと思えばそそくさと『ねこふんじゃった』に切り替える辺り、話ながら煽り散らかしてるのだろう。
その後引き終えた青年は、バックから取り出した布巾で鍵盤を一通り拭くと、鍵盤蓋を閉じた。そうして、改めて少女に向き直る。
「まあ真面目な話。俺なんかに時間を費やすより、他のイケメンとかに行ったほうが絶対良いって。たぶん生涯独身だよ、俺」
「はー……先輩だから告白しに行ってるのにマジキレそー……やっぱ一発襲わせてくださいよ。既成事実作らせろ」
「ヤレるもんならね」
クスクスと、どこか馬鹿にしたように笑う青年に青筋を浮かべながら中指を立てる少女。両手をわきわきと動かしながら構えたあたりで青年が折れたように「ごめんごめん、アイス奢るから」と戯けて見せた。「ハーゲンダッツで」と拗ねたようにいう少女に青年は少し頭を抱える。「俺今月ピンチなんだけど……」と苦笑いしながら言えば、帰ってくるのは「自業自得です」と綺麗な空振り。
ゆるく軽く、確かな信頼しあった距離感があった。
◆
少女は、悪魔である。
というのもここ数世紀の間に異世界の存在が認知されたり、異世界の人間が絶滅した事により途方に暮れていた亜人種──雄雌一方しか存在せず、その番を人間に求めていた種がその世界には多く存在していた──との交流が始まったり、その裏で某国と某国とがエロスとロマンとを求めてIQ3になって一夫多妻、多夫一妻、多夫多妻が認められたりと色々あった。色々あったのだ。
というかそうしないと種としてのホモ・サピエンスの存続の危機に立ってしまったとも言える。
そこで戦争に発展しないあたりは理性的とも、某国の文化に毒されすぎたとも取れるかもしれない。
実際、異世界側の大まかな種族の代表者たちは『何故異世界の存在である我々が認知されている』と驚く代表の姿が一定数あった。
少し話題としてはズレるが、地球上の特定の動物と同じ生物を祖に持つ亜人種が一定数いた為『そもそも異世界の部類訳はどういった扱いになるのか』『根幹たる物理法則含め、星、ないし同じ宇宙の中での出来事なのか』とか『並行世界というものなのか』と今日に至るまで議論されてるとかされていないとか。
他にも『カガクとやらで、星がどれほど昔に生まれたか、今に至る軌跡を追える……? ヒェッ』と星そのものを信仰するエルフの代表が、異世界の星の年齢を知って宇宙猫になったり『人間の総数が約六十億人超え……?』と多すぎる人口に数多の種の代表が顔を引き攣らせたり、そんな他の代表を見て笑いを堪えるのに必死な悪魔族の代表だったりとかなりアットホームな雰囲気になったらしい。
閑話休題。
少女は、そんな異世界交流の中で生まれた悪魔……特に女性しか存在しない淫魔・サキュバスであった。
『良いことエリィ。この人だ! と思った相手は絶対に離しちゃダメよ?』
母の言葉は今も胸に刻まれている。
その言葉の通り、種故の定めか。入学から一週間が過ぎたあたりのある日。
やっと高校生活に馴染み出した辺りでクラスの人間関係に気を配れるようになり、そこで『同じ学年の』一つ歳上の青年を見つけた。
多少暖かな日でもボディインナーに長袖の学ランを脱ごうともしない(淫魔視点的に)鉄壁のガードを誇っている人だ。体育明けで他の男子たちがワイシャツだけ、そのワイシャツの裾を捲ったりしてる中でも、学ランを脱ごうとしないくらいには鉄壁なのである。これを鉄壁と呼ばず何を鉄壁と呼べというのか。
顔はお世辞にも美形とも言い切れず、かと言ってブサイクというわけでもない。平凡的な、どこにでもありふれたような顔。
強いていえばまつ毛がかなり長い事と、瞳の色がエメラルドグリーンのような、宝石のような緑色であることくらいか。
「あの人だ」
直感的とも、自己暗示的とも言えただろう。
ただ、目にしただけ。
もうそれだけで、ダメだった。胸の内から溢れそうになる『独占欲』『甘やかしたい』『押し倒したい』etc……連なる感情がドギツイピンク色の波濤の群れを成して理性という岩をゴリゴリ削ろうと押し寄せる。なんなら既に元あった半分くらい抉り取られている。
拝啓、今頃結婚記念の旅行の出先でしっぽりとお父さんを搾っているであろうお母さんへ。
私たちのコレがこんなに重たいモノというのは、事前に教えておいてもらいたかったです。
こうして青年と少女エレノアの(理性と欲望の)戦いは火蓋を(一方的に)切ったのである。
なお、理性が勝てば合法的に押し倒せるし、欲望が勝てば強引にでも押し倒す。事実上の出来レースである。
◆
何処か警戒心の強い猫を思わせるような抜き足差し足忍び足(比喩表現)で距離を詰めるエレノア。
実際、距離を詰めるのは簡単だった。青年は基本的に誰とでも仲良くしようとしていて、それはエレノアもまた一緒だった。
入花敦毅。半年程前に大きな事故に遭い、その時の怪我の治療の為に入院続きで出席日数が足りず留年。それまでは成績も素行も良く、また面倒見が良い好青年。
それはエレノアたちの一つ上の先輩たちが何人も1-Aの教室を訪れては「オイオイマジかよ、マジでアッチャン留年しちまったのか!」「無事で、何より。何かあれば、アレを売ってくれ」「何か困ったことがあったら手伝うわ。弟もこのクラスだし」と声をかけられている辺りからも伺える。
「────とまあ、ここは授業で言ってた公式当てはまれば楽だよ。此処の答えを代入して……あとはできそう?」
「……こんな簡単だったの?」
「まあまあ。そういう事もあるよ。此処の式は置き換えるタイミング間違えると全部ごちゃごちゃになるから、気をつけてね」
「ありがとうございます先輩ぃ! これで週末の小テスト乗り切れそう!」
「先輩はやめて欲しいかなあ……」
現に今だって、数学の問題に頭を抱えてるクラスメイトのお悩みを解決していたようだ。
『先輩』。気が付けば入花に付けられていたあだ名。嫌味やイジメのようなニュアンスは無く、単純にいっこ上で面倒見の良い兄貴分……と呼ぶにはへらっとしてるからお兄さんとしてその呼び方が定着したらしい。
なお、当初はエレノアが『あれ、同じ学年だけど歳上だし先輩呼びの方が無難なの? でも同じ学年……うーん?』と悩んだ末に呼んだそれがキッカケである事は、当のエレノア本人は全く知らない。
「先輩ー、今度カラオケに行きませんかー?」
「おっ、良いね。最近行けてなかったし。何人で?」
「……で、できたら二人で……」
尚、この時教室には野郎どもからの殺気と、女子たちの暖かい目線が交錯する混沌とした場になっていた。
控えめに言ったとしても、エレノアという少女は大変可愛らしい少女だ。西瓜巨峰主義な大多数の男子たちには物足りないかもしれないが、成長期を前にした胸は確かな女の子味を感じさせる程度にはあるし、何より可愛い。
慎ましいサイズ感は、『この大きさ、それがいい!』という層には間違いなくクリティカルヒットする。
そして再三繰り返すが、エレノア自身大変可愛いのである。
で、そんなクラスの男子たちを魅了してやまない女子が一人の男子とカラオケに?
入花先輩、ギルティ。異端審問だ。略式裁判を執り行う。判決、死刑。吊るせ。
こうなるのである。
一方の女子。淫魔特有の運命の人だと説明した上で『取らないで……』とライバルとなりうる女子たちに懇願して、エレノア自身に全く自覚ないまま、同クラの女子たちのハートを鷲掴みにしていた。
もっと言うと恋バナや面白そうな話を求めているところにこれだ。腹を空かせた肉食獣たちの檻の中に生肉を放り込む行為に等しい。
恋は競争。ましてや、特別顔が良いわけでもなく、こんな四月の中頃で誰彼の内面まで全くわからない相手を『取らないで』と言われても……な部分があったのも否定しきれないが。
「えー、とりあえず帰りのホームルームは終わるよー。さあ帰った帰った。……なんでこんなギスギスしながら面白そうな雰囲気になってんの?」
少しチャランポワンな感じの初老の担当教員の〆の疑問は無事に黙殺された。
◆
「んー、何歌おうか。先に歌う? ダミアンさん」
「先輩からで良いですよ。あ、あと『ダミアン』って呼ばれるの、ちょっと苦手なんで……できたら名前で呼んで下さい。ちゃん付けでも良いですよ?」
「そう? じゃあ、今度からエレノアちゃんって呼ぶね」
「────〜〜〜〜っ」
エレノア、会心の名前呼びへの誘導。大成功!
入花、カウンター! エレノアへ会心の一撃! エレノアは奇声を上げそうになるのを全力で堪えた!
しかしエレノア本人、嘘は言ってないのだ。姓は何となく男性的な響きだし、ミドルネーム、父方の姓であるA──安喰(父の旧姓)も全く可愛らしくなくてそう呼ばれるのは少し嫌だった。父が嫌いというわけではないが。
しかし、しかしだ。
意中の人。運命の人からそうやって気安い感じで名前+ちゃん付けで呼ばれる。
これは実質、結婚したも同然なのでは? 種の定めに振り回されてバニラ&チョコレートアイスのメープルシロップ一夜漬けみたいな事になってる脳はそんなアホアホな結論を弾き出した。
違うのだ! ここからが本番だ。あの手この手で籠絡して……まあそういう雰囲気まで持っていければ万々歳。そうならなくとも距離を詰められれば十分。
「そうしたら、最初はコレかな……あっあー……声出るかな?」
「……聞いたことのないアーティストさんですね?」
「うん、だろうね。一世紀、二世紀単位で昔の人みたいだし。小さい頃に偶々知ってさ。それ以来大ファンなんだ」
「へ、へー、そうなんですか」
「当時リアルタイムでファンできてた人に嫉妬しちゃいそうだよ」なんて楽しげに笑う入花の顔を見て、エレノアはちょっとムカッとした。
『後で調べ上げてネット上でこき下ろしてやる……』とネット上での炎上の怖さを知らない少女が息巻いていれば、入花の歌い出しから釣られて優しくギターが追従する。
「──」
息を呑んだ。
そうやって歌われた歌詞が、あまりに愛に溢れて、堪らなく怖がり、悲しみを背負って……でも、大きな大きな愛に溢れた、そんな歌。
Cメロに入り、ラスサビに入るまでのフレーズが、あまりに重く、美しくて──悔しい程に内心白旗を振った。
こき下ろす? とんでもない。一瞬で惚れ込んだ。
というか歌詞からしてたぶん、恋愛関係、もしくは子供を宿した女の人の不安や希望、強さを高らかに歌い上げた名曲ではないか。
ああ、これは先輩の言う通りだと納得する。
このアーティストさん、リアルタイムで是非とも会いたかった。
「先輩、このアーティストさんの名前なんでしたっけ」
「この人の名前はね──」
エレノアはこの日、当初の目的を果たし切れず敗北した。
しかし、意中の人と共通の推しアーティストたちという、確かな収穫を手にしたのだった。
◆
「先輩、この間のカラオケでも思いましたけど、歌上手いですよね」
「うん? まあ、歌は好きだよ。好きだから、気がついたらもっとのめり込んでた」
「はー、好きこそ物の上手なれ、ってやつですか」
近くの机をくっ付けて、入花とエレノアは向かい合って弁当の中身をつついていた。
入花の弁当はそのまま入れっぱなしで自然解凍できる揚げ物系の茶色いおかずがメインで、エレノアの弁当は如何にも料理上手な手作り感溢れる家庭的なおかずだった。かなり対照的である。
「っていうか、先輩お弁当茶色一色じゃないですか。偏りますよ?」
「朝が苦手でさ、どうしても好きなもの詰め込んだ感じになっちゃうんだ。夜はちゃんと野菜も食べてるよ」
「自炊、だと……」
いくら綺麗な弁当であったとしても、自らの手で作っていなければ自慢もできない。
何かこう、微妙に敗北感を感じるエレノアに対して、入花は無自覚に無慈悲な──というか斜め上に予想外な話題をぶち込んできた。
「家事やれる人が俺しかいなかったから、自然とね。母さんは最近まで病んじゃっててヤバかったし、父さんも別居して過ごしてて2年前まで家にいなかったからねー」
「まあそもそも、そんな身の上で親元離れて一人暮らしだから、色々と不便なのは仕方ないんだけどさー」と軽くケラケラ笑いながら箸を進める入花。彼の声は、そこそこよく通るのである。
故にこそ、しれっと教室の空気をぶち殺した。
オイオイオイ死んだわ空気。
(ちょ、先輩ィィイイイ!!?)
『何か困ったことがあったら手伝うわ。弟もこのクラスだし』
一学年上の先輩が言っていた言葉がリフレインされる。言っていたのはこの事か! と今更ながらに実感するものの、今まで影も形も見えなかったトンデモ地雷に辟易する。母さんが病んでて父さんが別居で暮らしてたって何やねん。見えるかそんな地雷!
困ったも何も今まさにその困った事そのものなんですよ。
流石にやべえと、同時に入花自身のメンタルが心配になったエレノアは、顔を引き締める。
「先輩。あの、辛くなったらいつでも私を頼ってください。365日、辛い時も悲しい時も苦しい時も、私はきっと先輩の味方ですから!」
「えっ……あ、ありがとう? エレノアちゃん」
キョトンとした顔可愛いと思いつつも、同時にこのひそひそ話と重たい感じと、何とも言い難い目線が入花に向かうのは仕方がないと溜息をついたエレノア。
この後、男女問わず入花へ事あるごとにクラスメイトたちから食育紛いのお裾分けが殺到し、最終的に「だああああ!! もうみんなして!!! 先輩の弁当は私が作りますよ!!!」とキレたエレノアが鎮めた珍事件は、長くこの学校の面白青春話として教員たちの間で語り継がれることになるのだが、まあ蛇足だろう。
◆
少女は決心した。かの暴虐……というよりペース撹乱全一の入花の弱みを握ってやろうと。
少女は淫魔である。異世界由来の種族である。故に魔法が使える。自分の姿を透明にしたり、監視カメラよろしく相手を盗み見ることなんて朝飯前だった。
弱みと言っても社会的地位を失墜させるようなものではない。ただじゃれあいの時、青年の慌てたような顔を引き出してやりたいと思っただけなのだ。この間奢ってもらったアイスは美味しかったとはいえ、ピアノ伴奏での『怒りの日→ねこふんじゃった』のコンボは中々にウザかった。その仕返しである。
決行の日。悪魔が本調子を取り戻す地球の新月の夜。遠見の魔法で青年を観察しようとしていた少女は、「っぴぃ!?」と、喉から引き攣るような声が出た。
『あ゛あ゛ぁ゛……』
青年は今、シャワーを浴びていた。全身を湯煙に隠す──なんて事はない。いくら梅雨を前にしていても、日によってはまだ寒い日もある。
半年後くらいに迫る秋の終わり頃、あるいは初冬でもお湯を使わなければモヤも出ない。つまるところ入花が浴びているのはお湯ではなく、冷水だった。
『あ゛ぁ…………いっつ……ほんと、どうにか、ならないかなあこれ……っつ』
呻くように声を出して、壁に手を突きながらシャワーを浴びる入花。その腕も何か様子がおかしい。腕だけではない。全身が異様だった。
腹回りから両腕にかけて大きく歪に皺まみれななっている肌。よくよく見ればそれは酷い火傷の跡のようだ。他にも右の脹脛や胸元にも疎らに跡が散見される。
『まあ真面目な話。俺なんかに時間を費やすより、他のイケメンとかに行ったほうが絶対良いって。たぶん生涯独身だよ、俺』
『はー……先輩だから告白しに行ってるのにマジキレそー……やっぱ一発襲わせてくださいよ。既成事実作らせろ』
『ヤレるもんならね』
ふと、少女の頭に数日前のやり取りがフラッシュバックする。慌てて、『そんな事は無い、嘘だ』と思いながら視点をずらす。
そこには何も無かった。男であれば付いている、ネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲がまるっきり、なかった。無かったのである。というより亡かった。半端に有ったであろう名残のようなものがあるばかりである。
ただ、それがあったであろう位置の皮膚だけはそこそこ綺麗な肌をしており、また一点だけ穴らしいものがあるのが生々しい。
「ピョエ……」
少女は弱みを握れたかもしれないが、同時にとんでもないトラウマを背負うハメになった。
◆
少女エレノアは諦めが悪い。色々と調べてみたし、母のツテでネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲の再建が出来る医者がいないかを地球中、月に一度繋がる異世界を渡り駆け回って調べ上げた。
すると、意外とそういった悩みを抱えている異種族間での夫婦の悩みというのはありふれているらしく、意外と簡単にヒットした。
が。問題発生。
「……こんなにかかるの?」
機能のないガワだけの再建でも、中々に高額であった。
完全に機能を取り戻したネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲を再建しようものなら、ウン百万かかるのだ。特に、砲身よりも弾倉の方が。
エレノアは旅行から帰ってきた母を頼った。父は暫く干物と化して動けそうにない。南無三。
「何か割のいいバイト(性的なものを除く)知らない!?」と割とギャン泣き半歩手前で詰め寄った。なんなら肩を掴んで前後左右に激しくシェイクするおまけ付きである。
が。返ってきたボールはド派手にデッドボールをかます。
「エリィ、こういう時こそ『異種族間新婚保険』ってやつよ」
「何よそれ!!」
「異種族、特に人間と異世界由来の人種が結婚する時に何かしら不都合があった時に適用できる保険よ。種族毎に保険の内容とか、手元に来るお金の額は違うんだけど……」
「だからどういうことよ!!」
「入花君だっけ? 結婚しちゃいなさいよ」
「────────────」
エレノアの手が、母の肩を離れた。
震える腕でゆっくり、自分を押さえつけるようにして、絞り出すような声が、擦れながら漏れ出した。
「駄目よ、お母さん。だって、先輩には魔眼も効かなかったわ。
一緒にいたら楽しいし、ルンルンとした気分にもなれる。一生私の隣にいて欲しいと思える人、それが先輩なの」
思いは氾濫し、堆積し、混ざり合い。
そして新たに積み重ねては決壊の時を待ち侘びていた。
ありったけの恋心は、冷静な愛により、無理矢理に現実を直視させる。
砕けたガラスのように、粉々になっていくそれ。
そしてその破片は他でもない自分自身を傷つける。
「……そんなに、魅力無い、かなぁ……わっ、たし……ぅ……」
「──逆よ、エリィ。そもそも、魔眼が効かないのならそれに越したことはないわ」
──けれどここは、わりかしどうしようもなくハッピーエンドな世界だ。基本的に善人しかいやしない。
お姫様が王子様と結ばれるのと同じように。運命の赤い糸があるのなら──きっとエレノアと入花の腕を本人たちの知る由もないまま、恋人繋ぎにして指一本一本ごとに結びつけ、トドメに腕全体をガッチガチに雁字搦めにしていたに違いない。
砕けたガラスを箒でかき集めて、また加熱して溶かし固めるよう、炉に火が入り直す。
だから、そう。きっと。
エレノアの母の口から紡がれたその言葉は、きっと灼熱なんて言葉では生ぬるい業火の形をしていた。
「だって、あくまで魔眼が効く相手は『発動者に興味、特に恋愛的な感情を抱いてない人物に対して効く魅了』だもの」
エレノアの心はこの日、荒れに荒れ果て、煉獄の炎に包まれた。
愛は業火で蒸し焼きにされ、恋は魔女の釜の中で弱火でじっくり茹で上げられた。
恋し、慕っていた相手も此方をそういう相手として見ていてくれていたこと。
そんな相手の内心を結果的にとはいえ盗み見るような真似を働いたこと。
時間差で響いた『家族に対して好きな人への覗きを敢行した』のを暴露したことへの恥ずかしさ。
魔眼のそういった効果を知らなかった自分への無知っぷり。
「つまり、逆説的に……ね?」
端的に言えば。
エレノアはこの日、嬉しさと羞恥の念とで死にたくなった。頭を抱えて家の壁へとヘドバン乱打をしようとする娘を必死に抑え込む母親の姿があったとかなかったとか。
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