綾目語り

宮杜 有天

 嗚呼、愛おしいあの方は暗がりより出で、その長くたくましいかいなで私を包むのです。あのお方の沢山のかいなは私の身を包み、その先端にて時に優しく、時に激しく、まるで口づけをするかのように私の肌に触れるのです。


 嗚呼、愛おしいお方。私の全てを知るお方。あの方のかいなに包まれた私は、私だけの海の中を漂うのです。私はその海で小舟に乗り漂うだけの存在。

 あの方はその海に嵐を起こし、小舟を揺らすのです。激しく揺れる小舟から落ちまいと私は必死にあの方のかいなにしがみつきます。それでも嵐は収まらない。私はしがみつきながら必死に何かを叫ぶのです。


 そして嵐は唐突に終焉を迎えます。その時、私は激しい幸福感に包まれ、しばらく小波に揺られ余韻に浸るのです。


        ☆


「えーと……」


 目の前に座る男女二人組を見て、神田かんだ高範たかのりは戸惑ったような声を上げた。

 昼下がり、メニュー写真の逆詐欺で有名な珈琲店。広めのボックス席に、高範たかのりは二人と向かい合って座っていた。


征待ゆきまち美沙緖みさおです。麻奈まな……森本もりもとさんと同じ研究室になりますわ」


 美沙緖みさおと名乗った女性が言う。歳の頃は二十代半ばか。肩までの黒髪に直線的に通っている鼻筋と形の良い口。顔のバランスは良く、綺麗な顔立ちをしている。

 ただし、美人かどうかは高範にはわからなかった。なぜなら彼女は両目を閉じているからだ。最初は何かの冗談かと思ったが、席の横に白杖はくじょうが置いてあるのを見て納得した。彼女は目が見えないのだと。


 なにより美沙緖の顔よりも、そのすぐ下に思わず目が行ってしまう。前ボタンのついたグレーのスカートはハイウエスト。上はクリーム色のニットという服装なのだが、スカートには細めのサスペンダーがついている。それが彼女の肩へと伸びることで、ハイウエストと相まって、ニットを押し上げている優美で魅惑的な曲線を強調しているのだ。

 世の男性の殆どは、思わず目が行ってしまうだろう。


「そしてこちらが夜霧やぎり惣介そうすけ。わたしの協力者ですの」


 そう言って、美沙緖は隣を向いた。目は見えていないはずだが、その所作は見える者のように違和感がない。

 美沙緖の横に座っているのは二十歳前後の若者だった。黒髪ショートは全体的に巻き毛だ。無造作な感じから天然パーマなのかもしれない。目はアーモンド型の一重ひとえ。鼻筋は通っており、唇も薄い。丸顔で幼い印象を与えるが、パッと見は今風のイケメンだろう。


 惣介は紹介されると、ルービックキューブをいじっていた手を止め、高範に軽く頭を下げた。

 水色と深い藍色を使ってマーブル模様にしたような柄の七分袖のジャケット。その下に着たTシャツには、赤系の色をいくつも筆で刷いたようなデザインがプリントされている。それは、手に持っている原色の派手なキューブが埋没して見えるほどだ。

 高範は決してファッションに詳しいわけではないが、そんな彼から見てもあまりにもアンバランスな組み合わせだった。


 高範が最初に連絡を受けた時、美沙緖には「ルービックキューブを持った、派手な服装の男のいる席」と指定されていた。まさかこれほど奇抜な服装をしているとは思わなかった。

 おかげで、高範は美沙緖たちの座っている席がすぐに分かった。


「神田高範です。えっと、麻奈の件でということですが……」


 ウエイトレスが水を持ってくる。美沙緖たちの前には、すでにコーヒーとケーキが並んでいた。高範は注文を済ませ言葉を継ぐ。


「見つかったんですか?」


 高範は美沙緖から、付き合っている麻奈の件で話があると、連絡を受けていた。営業での外回りの時間を利用して、こうして二人と会っているのだ。


「いいえ。まだ探しているところですわ。警察への届け出とか、ご家族への連絡はされていますの?」


 高範の彼女である森本もりもと麻奈まなは、三日前から行方不明になっていた。


「……ああ、いえ。俺は……」


 高範の返事は歯切れが悪かった。


「一応確認ですけれども、麻奈と付き合っておられるのですわよね?」

「それは、ええ。もちろん」今度は即答する。「ただ、なんと言うか麻奈のご両親とは……。付き合って、まだ一年ですし」


 高範は今年で三十三歳になる。麻奈は二十五歳で、文学研究科の大学院生だ。

 たまたま同僚と飲みに入った居酒屋で、女友達と来ていた麻奈と会話をしたのがきっかけだった。麻奈とは小説の話で意気投合した。高範は就職するまでは、結構な読書家だったのだ。

 もっとも高範が興味あるのはエンターテインメント寄りの小説であって、純文学ではない。麻奈と盛り上がったのも、ドラマ化された小説の話だった。


「いい大人が、付き合ったくらいでは、親に報告なんてしませんものね」


 美沙緖はそう言って微笑んだ。もともと目を閉じているからか、その笑顔は柔らかく、向けられると安心する。

 思わず高範は見惚れた。そういえば麻奈からは美沙緖のような同級生がいると聞いていない。盲目の同級生ということなら話に出てもいいのだが。

 しかし元々、麻奈が大学院でしている研究に興味はなかった。だから大学院の話はほとんど聞き流していたから、美沙緖のことを聞いていないという自信は、高範にはなかった。


「失礼ですが、麻奈の部屋の合い鍵はお持ちですわね?」

「え? あ、はい」


 確かに高範は麻奈の部屋の合い鍵を持っていた。麻奈には自分の部屋の合い鍵を渡している。同棲とまではいかないが、麻奈が失踪するまでは結構な頻度でお互い家を行き来していた。


「一度、麻奈の部屋を見せていただけませんこと。確か、この近くでしたわよね?」

「あ……」


 この珈琲店を指定してきたのは、美沙緖の方だった。今更ながら、その理由に高範は気づく。始めから彼に麻奈の部屋の鍵を開けさせるつもりだったのだ。

 高範は美沙緖を見て、その横にいる惣介を見る。惣介は我関せずといった様子で、いつの間にかルービックキューブをいじっていた。


「惣介。貴方からもお願いしてくださいませ」


 高範の動きが見えているかのようなタイミングで、美沙緖が惣介にを声をかける。惣介はルービックキューブをいじる手を止めて、高範の方を見た。


「え? ああ。もしかしたら、手がかりが残っているかもしれない。だから、彼女サンの部屋をみせて貰えると助かるんだけど……」


 今までの様子は一変して、しっかりと高範の目を見て惣介は言う。その視線は真剣そのものだった。


「少し変わり者ですが、これでなかなか優秀ですのよ。名探偵なんて言われておりますの。麻奈のことが心配で、無理を言って手伝ってもらっているのですわ」


 美沙緖の言った「名探偵」という言葉で、高範はなぜ彼女が惣介を連れてきているのか理解し、同時に反発も覚えた。この男を部屋に入れるということは、二人だけの領域テリトリーに土足で踏み入られる気分になる。

 だが美沙緖のことを考え、その思いをグッと堪える。美沙緖は麻奈のことを心配して、盲目にも関わらず調べようとしてくれているのだ。


「分かりました。まだ仕事の途中ですので、長くは見せられませんが、それでもよければ」

「ええ。お願いしますわ」


 美沙緖は高範の方を自然な様子で向いて、頷いてみせた。


「ここは僕が出します」


 そう言って、高範は美沙緖たちの分の伝票も持って席を立った。

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