妖怪の辞書に遠慮の二文字はない 1

 

 蔵神は今日も床の雑巾がけに忙しい。

 ずんぐりとした体躯が床に這いつくばり、ちょこまかと動き回るその動作に一切の無駄はない。慣れ、染みついた熟練の技と称すべきか。

 にわかに磨き上げられていく室内を、身の置き場がない迅が廊下から眺めている。


「あの、蔵神様……」

「なんだ、もう食事の用意ができたのか。今日はやけに早いな。もうしばらく待ってくれ」


 消え入りそうな小声だったが、難なく聞き取った蔵神は手を止めぬまま、いや、より速度を上げた。驚きのスピードで床が磨き上げられていく。


「……蔵神様、俺も手伝いましょうか」

「いや、手は足りている。気にするな」

「申し訳なさすぎるのですが」

「いっただろう。ここは吾のモノゆえ、手入れするのは当然であると」

「……はい」


 取りつく島もない。慣れない者の手が入れば、お気に召さないのだろう。

 すごすごと台所に引き返すと、鈍く光るステンレス台が迎えてくれた。こちらも時代を感じる佇まいながらも、いつでも磨き抜かれている。

 一体いつ掃除しているのか、定かではない。極力汚さないようにして、使った後は元通り磨くようにしていた。

 神のいる場所は清潔第一。毎日清掃はごく当たり前である。

 実家でも屋敷神に見守られながら、日々欠かさず掃除に勤しんだものだ。慣れているというより、やらなければ落ち着かない。ゆえに思い切って提案してみたものの、拒否られてしまっては、どうしようもなかった。


 己がすべきことをしようと、食器棚でわずかに動いている飯碗を手に取った。

 そして不意に思い出す。そういえば今日はなぜか炊飯器の音で目覚めたなと。寝る前に仕込んだ覚えはないというのに。

 一体誰の仕業なのかなど、考えるまでもない。

 かすかに漂う香ばしくもほのかに甘い香りが犯人を教えてくれた。

 保温ランプがついた炊飯器のふたを開ける。蒸気が立ち昇り、小豆の香りが狭い台所に拡散した。先ほどからひしひしと感じていた気配の場所、戸口を見やる。

 そこには、顔だけ覗かせた小豆洗いが、ニタニタと笑んでいた。


「しょきしょき」

「この赤飯、小豆多すぎだろ」


 小豆が釜の表面をみっしりと覆っていた。

 しゃもじで搔き分けると小豆の分厚い層になっている。さらに進むとようやく、底に薄い白米層を発掘した。その米は小豆色と寸分違わない色に染まっている。


「普通、米と小豆の比率、逆じゃねえの」


 だがしかし、ふっくらと炊き上がっていた。

 かつて妹が幼い時分に作った芯の残った白米や、糊と化した粥擬きに比べれば、はるかにマシではある。

 小豆洗いは口許を袖で隠し、愉快げにクフクフ笑っている。


「でも、ありがと。赤飯久しぶりで嬉しいよ」

「……もち米ですぞ」

「そっちのほうが旨いよな」

「拙僧も頂いてよろしいですかな」

「おう、遠慮なく食っていけよ」


 とはいえ、消費を手伝ってくれるのはありがたい。

 赤飯を飯碗によそうと、震え始めた。あまりの激しさに危うく手から落としそうになり、ステンレス台に置く。

 ゴトゴトッと音高く動き回った。ここまで活きのよい状態は初めてだ。よほどお気に召さないらしい。


「どうした、もしかして小豆嫌いなのか」

「しょき、小豆の量が多いと申されるか。なんとなんと! 生意気ですぞ」


 見上げる小豆洗いが、せせら嗤う。飯碗が威嚇するように一度大きく浮き上がり、底を打った。



 普段より、ややにぎやかな食事を済ませた時、来客が訪れた。時刻は夕方六時すぎ。

 日課である外気に当たりにいくべく、迅が重い玄関扉を開ければ、すぐ間近に人が立っていたのだった。すかさず途中で止める。


「あ、すんません」

「ちょっとっ、なんでいきなり開けるのよ! あと少しで私に当たるとこだったじゃない!」


 これはまた性格のキツそうな女がきたな。

 そう思い、迅は浅く眉をひそめた。喚いた女性が横に反れ、扉を大きく開ける。室内の明かりが逆光となり、迅の表情は判然としないものの、相手のほうはよく見えた。

 二十代なかばくらい。迅よりはるかに小柄で腰に手を当て、顎を上げる威嚇の体勢を取っている。全身から負けん気の強さが滲み出ていた。

 先の状況的に、ある意味仕方ないだろうが、随分慣れた仕草のようだ。あらゆる人と衝突するであろう性格が、天眼を遣わずとも透けて見える。

 眦を吊り上げ、さらに何事かいいかけるも、思い直したのか口を引き結んだ。いきなり開けた迅だけが悪いわけではないと気づいたのか、初対面の者と揉めるのはよろしくないと思ったのか。

 外の様子は窺えない分厚い鉄の扉だ。致し方ないだろう。

 当たってねえなら、別にいいだろ、とはさすがに口にしなかった。初めて見る顔だ。おそらく仕事の依頼であろうから。


 二階堂と名乗った女性は、依頼にきたのだと告げた。

 では中へ、と促す。そして二階堂が蔵の敷居をまたいだその瞬間――。


「きゃっ、え、な、なに!?」


 弾かれたように身を引いた。

 やはりな、と後ろにいた迅は思いつつ、二階堂を醒めた目で見やる。

 彼女の魂は薄汚れている。

 神は殊の外汚れた魂を厭うものだ。耐え難い悪臭を放つのだと以前、屋敷神から聞かされている。

 二階堂の魂は汚泥とまではいかなくも、随分汚れていて、もしかすると蔵神に拒絶されて中には入れないかもな、と予想しながらも、一応勧めたのだった。

 蔵神がいかほどの汚れ具合まで許容してくれるのか、知るいい機会だと考えたのもある。


 錮宮迅という男、そこそこ強かでいい性格をしている。


 そんな迅が部屋の隅、行灯の近くに鎮座する蔵神を伺うように見やった。ふいっとそっぽを向かれる。妥協してくれるようだ。

 何食わぬ顔で二階堂に問う。


「どうかしましたか」

「……なにか、固いものに当たったような気がしたんだけど……あ、大丈夫みたい」


 二階堂が再度踏み出すと何事も起こらず、不可思議そうにしている。それから室内を見渡し、戸惑ったようだ。どう見ても年季の入りすぎた民家でしかなく、商いを営んでいるようには見えないからだろう。

 少しばかり寒いが、玄関扉は開けたままにしておいた。時間も時間であり、彼女にとっては、見知らぬ家で見知らぬ男と二人きりになる。落ち着かないだろう。

 だがこんな日も落ちた時間帯に訪ねてくるのは、あまり感心できない。普通は嫌がられるものだ。夜型の迅ゆえによかったといえる。


 土間に立った二階堂の視線は定まらない。あちこち動くその目には、何も異常なモノは映っていない。だが実際のところ、常通りそこかしこで妖怪が好きに過ごしていた。

 通常、特殊な目を持たない徒人ただびとにも、百年の時を得て付喪神と化したモノは見えるものだ。

 けれども神と他の妖怪は基本的に姿を隠しているため、見えない。

 現に今、蔵神を二階堂から隠すように立ち塞がっているぬりかべを、二階堂は認識していなかった。はるか高みから射殺しかねない目つきで睨みつけられていたとしても。

 むしろ見えないほうが幸せかもしれない。


 二階堂が土間で靴を脱ぐ間、傘立てに入った唐傘お化けがその一つ目を眇めた。不満げではあるものの、動きはしなかった。おそらく唐傘お化けにも二階堂の魂が見えているのだろう。

 妖怪たちは、今のところ大人しくしてくれている。

 しかし元気の塊たちがいつまで我慢してくれているものか、まったく予想はつかない。彼らが騒げば、二階堂には怪奇現象にしか感じられないだろう。

 下手に騒がれるのは面倒だ。さっさと依頼を聞き出し、お帰り願おう。

 今回は睡眠をしっかり取った後で、頭も瞳も冴え渡っている。そう時間はかかるまい。と高を括っていた迅だったのだが――。


 ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。


 二階堂が語気荒く、捲し立てる愚痴が止まらない。しかも内容は、ほぼループという代わり映えのなさ。日頃感じている周囲の者への不平不満を、延々と聞かされる羽目に陥っていた。


「――いっつもそう。色んな人と揉めるの。ついいいすぎる私が悪いって、わかってる。わかってるの! これでも! でも、だからって私ばかりが悪いわけじゃないし、言わなきゃ私が負けたみたいでムカつくし。思う存分いって、相手をいい負かせた時は、勝った気がして気分がいいからやめられないし――」


 勝っただの、負けただの。実にくだらない。

 なんでもかんでも勝負事に置き換えないと気がすまない性質らしい。

 人間同士の関係性に勝ち負けなんぞあるかよ、などと本音を吐露しようものなら、三倍ぐらいいい返されかねない。

 かつて、そんな経験を嫌になるほどしてきた迅はひたすら頷き「ですね」「なるほど」の二句を挟むだけに留めた。


 死んだ目の迅の手前、木枠上の湯飲みから上がっていた湯気はとっくの昔に消えている。愚痴を吐き出し続ける二階堂は、一切湯飲みに口をつけていない。

 迅は冷めたお茶をすすりながら、喉は渇かないのだろうかとほんの少しだけ心配になった。

 興奮して止まらないその様子から、身近に愚痴を聞いてくれる、根気のある人はいないのだろう。

 人間関係に難ありは、己もなので偉そうなことはいえないが、自業自得だ。こんな風に相手の都合などお構いなしに、一方的に愚痴を垂れ流すなぞ自ら嫌われるように仕向けているようなものである。

 かれこれ一時間以上経過している。

 そこそこ付き合いのいい迅だが、そろそろ逃げたくなってきていた。


「しかしまあ、よぉ喋る娘さんですな」


 ともに囲炉裏を囲っていた小豆洗いが呆れた声で告げる。というより、ずっとべらべら喋っていたのだ。

 時折、その手を伸ばして灰坊主をつつきながら、熱心に二階堂の弁に耳を傾けていた。

 話すことに夢中な二階堂は、すぐそばで灰がもぞもぞ動いていても、一切気づいていないけれども。


「――この間も、会社の同期と仕事についていい合いになってしまって」

「まあ、そんな時もありましょうな」

「それで私、つい頭にきちゃって、その、咄嗟に、いちの……同期を傷つけるような、余計なこと言っちゃって……」

「それはいけませんな。親しき仲にも礼儀ありですぞ」


 機械的な全肯定だけの迅より、よほど小豆洗いのほうがいい聞き手である。律儀に要所要所で諭してもいる。

 本人曰く、元は寺の小僧だという。

 本当かどうかは知らないが、案外真実なのかもしれない。

 いい加減首が疲れてきたな、と迅がひそかに思っていると、バンッと突如、破裂音に似た高い音が響いた。

 

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