目覚めの逢魔が刻

えんじゅ

蔵は大所帯 1



 逢魔が刻。昼と夜の境目。魔物と遭遇する確率が最も高いと、いわれている時間帯。


 ぼこっ。何も光源のない暗い蔵内に大きな音が響く。


 ぼこぼこ。天井から連続して打ち鳴らされた打撃音に、青年――錮宮こみやじんが目を覚ました。

 その視界には、黒しか映らない。真の暗闇のなか、見上げる天井の位置もわからない。

 ぼこっ。やや大きめに鳴ったのを最後に、音は途切れた。

 静まり返っただだっ広い部屋の片隅、敷かれた布団の上で迅が半身を起こす。手元の行灯あんどんをつけて、ほのかな明かりに両目を眇めた。すぐさま起き上がり、手早く布団を畳んで背を向ける。

 その後方で、布団一式が音もなく消えた。



 足元を照らす心許ない明かりを頼りに、部屋の奥へと向かう。

 歩くたび、ギィギィと床の軋み音が鳴っている。極力慎重な足取りで進むと、すぐに狭い廊下へと出た。その廊下を境にして、右側に洗面所、風呂、トイレ、左側が台所となっている。

 そろりと洗面所へと入り込み、天井から吊り下がる裸電球のつまみを捻った。

 瞬時、洗面台の鏡に映し出されたのは、上下スエットを身にまとう、のっぺらぼうの姿だった。

 上背のある逞しい体躯の上に乗る、のっぺりとした平坦な顔。わずかに目にかかるはずの前髪の下には、目もなければ鼻も口もない。

 けれども迅は、鏡面に映る己の顔に驚くこともなく、歯ブラシを手に取った。

 目の前で、のっぺらぼうに歯ブラシが吸い込まれていく。そんな摩訶不思議な光景を目の当たりにしても、まったく動じることはない。つつがなく磨き終えた。

 顔を洗い、頭を上げる。

 やはり、そこにはパーツのない濡れた白面がいた。

 それを映し出している鏡は、丸い形状をしている。外周にいやに凝った装飾が施されており、年季の入った代物だと一目でわかる古い鏡だ。


「一日に一度くらいは、自分のつら見てえんだが」

「これぞ、汝の真実の姿なり」


 その鏡から、すかさず応えが返ってきた。

 照魔鏡――さまざまなモノの隠された本性を映し出すといわれている伝説の鏡が、重々しく生真面目な声で告げた。

 やけに美声なその声は、よく通る。迅の背後、風呂場にまで朗々と響き渡った。


「そうかよ」


 タオルで顔を覆ったまま答えた。いっても無駄なことは、わかっている。

 ここに引っ越してきて一週間、毎朝同じやり取りを繰り返しているのだから。

 様式美ともいえるあいさつ代わりである。他の応えを返されたことは、まだない。



 ふらりと洗面所を出た迅が、台所に足を踏み入れる。

 こちらの裸電球を灯すと、磨き傷が幾重にも入ったシンクが鈍く光った。二畳ほどのスペースに、冷蔵庫と食器棚、ステンレス流し台が置かれている。スペースに余裕はなく、かなり窮屈な印象だ。

 辛うじて通れる合間を歩き、冷蔵庫を開けた。そんな最中、壁一枚隔てた部屋のほうから、パタパタと小さな足音が聞こえてくる。

 だが気にするそぶりもない。

 ややかがんで、味噌汁入りの小鍋を取り出し、一口コンロにかけた。寝る前に準備していた物だ。寝起きに料理をする気にならない迅は、いつも寝る前に準備しておくようにしている。

 振り返り、食器棚の汁椀へと手を伸ばした。

 すると、スッと浮いて逃げられてしまう。

 むろん活きのいいそれは、通常の汁椀ではない。


 付喪神――永い時を得て、自由に動ける力を手に入れたモノだ。


 美しい木目の、手にしっくり馴染む丸みのある形をしている。その汁椀がステンレス台に乗り上げ、滑って壁際までいくとようやく止まった。

 再びつかもうとしても、すいすい躱され、逃げられる。


「……ご不満か? もう少し冷たいままの味噌汁のほうがいいのか?」


 底を片側ずつ上げ下げし、ゴトゴト音を立てる。ひどく不満そうだ。

 昨日うっかり煮立てた味噌汁をよそった時、こぼれそうなほど激しく震えていたのだ。

 ゆえに十分に温まりきらないうちに入れようとしたのだが、嫌なのだろうか。

 まだまだ付き合いが浅く、いまいち感情が推し量れない。

 どうしたものかと、食器棚へと視線を向ける。そこにある他の汁椀、湯飲み、飯碗、すべて付喪神化している。しかし皆微動だにせず、大人しくしていた。

 時折、会話しているように、カチカチコトコト音を鳴らすのだけれども。

 そうこうしているうちに、鍋の味噌汁の縁が沸々と泡立つ。

 さすれば、今! とばかりに汁椀が軽く浮き上がり、底を打ち鳴らした。


「あー、はいはい、今入れろってことか。……まあ、ちょうどいい時を教えてくれるのは、ありがたくはあるな」


 火を止めて、湯気立つ味噌汁を汁椀へとよそう。ぶぶぶとスマホのマナーモードを彷彿とさせる痙攣を繰り返した。おそらく満足の動きだろう。自信はない。

 続いて冷蔵庫から昨日の残り物のおかずも取り出し、お盆へと載せた。白米、味噌汁、卵焼き、煮物。無難な和食メニューである。少しばかり胃腸が弱いため、寝起きは軽く済ませるのが常だ。


 明かりを消し、台所を出たところで、壁に立ちふさがられた。突如、廊下を塞ぐ壁が現れたのだ。

 迅が視線を上げる。

 そこには、背後からの明かりを背負って落ちる影のなか、弓なりに反った糸目があった。ニタニタと嗤って、見下ろしてくる。


 実に愉しそうなその壁は、妖怪――ぬりかべである。


 普段は近くの四辻を縄張りとしているモノだが、頻繁に家に入り込み、行く手を阻む嫌がらせをしてくる、少々厄介な相手だ。

 ぬりかべと壁の間に横歩きであれば、通れそうな隙間が空いている。されどお盆を抱えていては、厳しいだろう。


「わりぃ、ちょっとどいてくれ」


 一対の細い双眸がますます細くなる。まことに不遜な態度である。一歩も退《ひ》く気はなさそうで、両者一歩も引かず睨み合う。

 しばし無言の時がすぎ、迅が片足に重心をかけると、床が悲鳴に似た軋み音を立てた。

 カチンッ。お盆の中で、空の湯飲みと湯気立つ白米入りの飯碗が触れ合い、音を鳴らした。それは若干苛立ちを感じる音色だった。

 わずかな間を置き、ぬりかべが口をへの字に曲げる。眉間にも盛大な皺を寄せながらも、壁へと溶け込むように消えていった。

 だがもともと亀裂の目立つ板張りの壁だったのが、亀裂はなくなっている。ぬりかべが擬態しているせいだ。まだそこにいるらしい。

 邪魔立てしないのなら、好きにすればいい。


 ようやく迅が先ほどまで寝ていた部屋へと入る。

 殺風景な二十畳ほどの空間である。

 低い天井の二箇所からぶら下がる白熱電球が灯っており、真っ先に目に飛び込んでくるのが、ほぼ中央にある囲炉裏だ。幅広の木枠で囲われていて、存在感が際立つ。その上には、鯛の自在鉤が吊り下がっている。古式ゆかしい和風満載の佇まいである。

 しかし壁面に、海の油絵が飾られている。それだけが、妙に浮いた印象を抱かせる居間だ。


 ここは、蔵を改修して住居とした二階建ての『蔵の家』である。


 一階に部屋は一つしかなく、そこを居間兼寝室としている。内装は総板張りで、一階に窓はない。外への唯一の開口部である玄関扉は常に硬く閉ざされている。

 暗く、重く牢獄さながらの家屋でもある。

 二階へは、隅の天井に開いた開口部から下りている縄梯子を伝っていけるものの、引っ越し初日――一週間前以来、上っていない。

 二十五歳で独り身の迅は、ひとまず最低限の荷物だけを持ち、越してきている。一階のささやかな収納庫だけで十分事足りた。


 迅がちらりと部屋の片隅を見やる。

 今し方畳んで置きっぱなしにしていた布団は跡形もなくなっている。

 不思議といえば不思議だが、ささいなことだ。最初に訪れた時から消えるのが当たり前だった。

 どこに片付けられているのか迅は知らないが、寝る前に元の位置に戻されるため、さほど気にもしていなかった。

 この暗く古びた家唯一のあたたかみのある存在、囲炉裏。そこに、狸に似た獣が背を向けて座っている。


 蔵神――この蔵の護り神である。

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