いろは学園企画用

てぶくろ

【私は】

――ピタ...ピタ...


足の裏に伝わる、水のような感覚。


――ピタ...ピタ...


暗闇の中、灯りもなく裸足で歩みを進めていく。


水っぽい足音だけが響く空間で、次第に鼻につく嫌な臭いが漂ってくる。それでも足は自分の意思に関係なく歩みを緩めず、一歩また一歩と前へと進んでいく。


暫く進むと、遠くにぼんやりとした灯りがあることに気づいた。そこへ行くことが目的とでも言わんばかりに、その灯りを目指して進んでいく。

足に伝わるひんやりとした感覚が、灯りに近づくにつれて僅かに肌に張り付くような粘性を感じさせるものへと変わっていく。


次の変化は『声』だ。

声が聞こえる。

言葉にもならない、聞き取れないほど不明瞭な『音』に近いそれだが、間違いなく人の声であると確信できる。


灯りとの距離がまだあるのに、くっきりと見えてきたものは人影だった。闇色のベッドにうつ伏せで横たわっている人影は、苦しそうに震えている。


不明瞭だった音がはっきりと聞こえるようになり、気が付くと私はそのベッドの脇に立っていた。


人影が私の服を掴む。


真っ白な、震える細い腕。


触れたら折れてしまいそうな腕なのに、力強く服の裾を掴まれて私はその場を動けなくなる。


そして――


「なん...で...?」


私を見上げる顔は、真っ黒に塗りつぶされていた。


「ど...う...して...?」


腕が服の裾からゆっくりと上に伸びてくる。


「たす...けてよ...」


伸ばされた腕が不自然に伸び、私の首に手がかけられる。


「......ない」


ギリギリと首が絞められ、呼吸が出来なくなる。


「....さない」


目の前が次第に暗くなっていき、音も聞こえづらくなってくる。


そして――


「ゆるさない」




――ベッドの上で飛び跳ねるように目覚めた。


爆ぜるのではないかと錯覚するほど激しく拍動する胸を押えつつ、額の冷や汗を拭う。

もう何年も見ていなかった悪夢。

何故、こんな夢を見るのかわからない。


普段より少し早めに目覚めてしまい、そのうえ目覚めは最悪である。


シャワーを浴び、首元に残る嫌な感覚を拭い去ることに決めバスルームへと向かう。


ひたすら歩き、アレを見つけ、無抵抗に首を絞められる。声に聞き覚えはなく、顔は全く見えない相手。

ただ分かるのは暗闇、そして何かで濡れている床と濃密な血の香り。


服を脱ぎ、適当にカゴへと放り込みバスルームへ入る。


誰かの恨みを買わずに生きてきたつもりは無いが、殺されるほど恨まれているつもりも無い。しかし、自分に向けられた強い怨嗟と明確な殺意を、忘れるというのは無理がある。


ノズルを捻り、シャワーからお湯が出るのを待つ。


考えをめぐらせるが、いつも答えは出ない。

生徒が危険な目にあうこともあるが、大抵は生徒達に任せているし、助けたとしても誰かを血塗れ――ましてや殺したことなど一度もなければ、生徒をあんな目に遭わせたことも無い。


湯気がゆっくりとバスルームを満たし始め、私は熱いシャワーを頭から浴びる。


占術を使おうが、知り得る全ての魔術や神秘に答えを求めても成果はなかった。

アレがなんなのか。

何を望むか。


考え込んでいた時、唐突に部屋の電話が鳴り始めた。


シャワーを浴びているため、応答メッセージに切り替わると途端に大きな声が聞こえてきた。


『せんせー!起きてるー?』


――誰だ?

私の電話番号をなぜ生徒が知っているのか。


『あのさ、あのさー』


――いや、この声は...

思い当たる答えに誘われ、ずぶ濡れのままバスルームを出る。


『一言だけ言いたくてさー』


――間違いない...この声は、

リビングに入り、受話器に手を――


『絶対に繧?k縺輔↑縺から』


電話は、それで切れてしまった。


受話器からは電子音だけがひびき、録音されているはずの先程のメッセージは残っていなかった。

最後の言葉だけが、とても不明瞭だった。


だが、何よりも。

そう、何よりも。


不思議と胸が高鳴り、何かを期待してしまっている。


長年、私を悩ませているアレの答えが、まるですぐそこに来ているかのように感じているのだ。



熱いシャワーを浴び直す。

オリジナルのコーヒーメーカーにエスプレッソをセットし、その間に簡単な朝食を作る。

テレビのニュースを聞き流しつつ、新聞を読みながら食事を済ませる。

カバンの支度などは全てゴーレムに指示を出し、軽くヘアセットと着替えを行う。

指輪をはめ、靴を履き、ステッキを持つとゴーレムがカバンを抱きかかえながら玄関に現れた。


「...はぁ」


深く溜め息を吐き、ドアを開ける。


他の部屋から漂う、僅かながらのバタバタという気配を感じつつ時計塔を降りていく。


今日の講義内容は、五年生に向けた高度錬成術について。これを終え、六年生なればいよいよ【黄金錬成】の講義である。

一部の好奇心旺盛な学生には個人的に【黄金錬成】をレクチャーしているが、何がそんなに楽しいのか全くもって理解できない。


憂鬱な朝。


ふと背後から


「あ!せんせー!」


と声をかけられ僅かにビクリしてしまう。


――怖がっているのか...?私が...?


ゆっくりと振り返ると数人の生徒が笑顔で手を振っていた。


「おはようございます、皆さ――」


生徒の背後に、同じように制服を着た――顔の部分が真っ黒に塗りつぶされたソレが手を振っていた。

思わず瞬きをした、その一瞬でソレは消え失せてしまった。


「せんせ、どしたの?」


一人の女子生徒が、きょとんとした顔で聞いてくる。


「――なんでも、ありませんよ。さて、教室へ行きましょうか」


「あー、絶対なんか隠してるー!」


そんなふうにしていると、たちまち生徒に囲まれてしまうが、当たり障りのない話をしながら教室へと向かうこととなる。


いろは学園、ここの生徒は何故か私のようなつまらない者にも笑顔で接してくれる。だからこそ、いや、それであるが故に、決して心を許せないのだ。

自身の足で立つこと、それすらままならぬ子供達は時に無謀なことをする。

教え、導き、諭すこと。だが決して寄り添うべきではない。友人ではない。家族ではない。

適切な距離感で、適切な関係を...そう考えているのに何故か気づくと至近距離へと近づこうとしてくる。




生徒達には明るい未来がある。


生徒達には叶えるべき夢がある。


そんな尊き存在と、矮小な私が並び立って良いはずはない。

だが、矮小ではあるが多少でも彼らの力となれるなら、存分にこの子達の力となろう。


たとえそれが、忌々しい【錬金術】の講義であってもだ。



「...はぁ、何故私は錬金術なんかを教えているのでしょうかね...」


何百回口にしたか分からぬその愚痴に、生徒達がクスクスと笑う声が聞こえる。


そんな様子に、ほんの少し心が穏やかになると講義の時間を告げる鐘が鳴る。


私は答えを求める。


私は真理を求める。


私は――


私は――――


私は――――――



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