短編

減゜

帰路

 冬の香りがあるという。こんな都会じゃあ星も香りも何も分からないと彼は言った。そんな彼の言うことが分からないと青年は言った。穏やかなアナウンスが流れる夜九時のショッピングモールを出口へと歩くその足並みはバラバラである。通り過ぎるどの店も薄暗く、店頭に掛けられた目の大きな網がまるでゴミ捨て場の可燃ゴミを覆うネットに見えた。ネットの向こうはひっそりと無機的で、息をしていない。全て忘れてしまって何も残っていない様だった。

 薄暗いショッピングモールを背に自動ドアを通れば、外は暖房で中途半端に暖まった身体が変に縮こまる様に寒い。こんなに遅い時間でも信号を待つ人の群れが雲のようだった。空を歩くのはいつか彼と行った京都の天橋立を思い出させる。秋の空は照明を落とした昼の天球だが、冬の空は眼下に透ける宇宙だ。それならばこのビル群の瞬きは人の命を削り燃える星の灯々だ。夜の街の灯が果てに光る星と同じ瞬きをするのを青年は知っている。青年はふと思い出した様に冬の香りを彼に尋ねた。

 

「君ってほんと、人目とか気にしないよね」

 

 彼はマスクを押さえて、冬の空みたいに笑った。

 

「君のそういうところが大好きだ。出来れば僕もそうなりたかった」

 

 マスクの隙間から白い煙が漏れた。人の流れに乗って進めば香ばしいバターの香りが鼻をかすめ、見やると人が渦か何かみたいに一定の流れに沿って群がっている。

 

「パン屋さんだって。今日オープンって」

「買って帰る?」

「……いいや。今日はもう、疲れちゃったから」

「また来よう」

「そうだね」

 

 長いエスカレーターから見る色とりどりの広告は、映画のエンドロールに似ていた。あの時楽しみにしていた未来は今であり、過去だった……何となくそんなことに思いを馳せる。ふと懐のスケジュール帳の存在を手に触れて、やめた。見上げると、遠くを見つめる彼の耳から顎にかけてのマスクに覆われた柔らかな直線がやけに綺麗に見えた。青年はマスクの内でその下唇を軽く犬歯で食んだ。

 人を待つ電車のパノラマはこの駅が全ての終着であり始発であることの裏返しでもあった。発車のアナウンスが広い空間へ無力にリバーブと消え、下から湧く喧騒は反響して相殺しあい、消える。自我を失った抽象の音が冬のサウナの熱気の様に一つの巨大な塊となって浮かぶ。青年はいつもの行き先を告げる発車アナウンスを喧騒に溶かす。彼が沈黙を縫い合わせる様に他愛無い話を持ちかける度逸れる視線が何処へ向くのかを追い、ポケットの上で四角の形を確かめるその手を取りたくなる衝動を懐のスケジュール帳へ向けた。二人は壮大な背景に足る被写体となり、青年は暗く淋しい小宇宙の中の唯一点に過ぎない人工の強大な電照と喧騒の形骸にもう少しだけ浸ることにした。

 

 

「————薫、」

「何」

「やっぱり、一駅分だけ歩いて帰らない?」

「いいよ」

 

 

 目に銀河の残像が残っているのか、線路に沿って郊外へと続く歩道の景色は変に暗く見えた。遠くに見える住宅街の営みの灯を背景に、それ程高くない商業ビルは年季を染ませていてもその活気を残さない。人が死んで、街が死んでいるみたいに見えた。数億年ぶりの地球の夜を呼応するくしゃみに思いを馳せて歩いていると、嫌いじゃない、と彼は、青年の脳内を見透かす様に言った。

 

「こういう淋しさは、本を読んだ後の物悲しさに似てる」

「レイ、本読むっけ」

「読まないよ。悲しくなるから。でも今は隣に薫がいる」

「——俺が居る、から?」

「寂しくない」

「寂しいの?」

「エンドロールの背景の黒と、うちの辺りの星の綺麗な黒は似てる」

「明るくたって寂しい」

「……ふふ、そうだね」

 

 生の気配が完全に排除された郊外の街。遠くの住宅の群れ、その窓一つ一つに灯る暖かな営みの着彩は冬の流動する硝子の様な風にその温もりを流され、流れる闇は純粋な冷たさと暗さを持っていた。冬に抱く僅かな狂おしい高揚感は、ある種の潔癖とも言えるのかもしれない。

 彼は、冬の香りがあると言った。そんな彼の言うことは、青年には分からない。マスクから煙がじわりと漏れて視界を揺らす。遠くに小さな駅の灯りが見える。距離は遠くとも見えれば近く、逆もまた然り。二人を繋ぐのは存在の温もりと確かな声だった。彼の口から感嘆が漏れた。真っ黒な宇宙を見上げ、彼は何を思っているのだろう。透き通る様な純粋な黒に彼もまた何かを思うのだろうか。街灯の光をその眼球に閉じ込めて、瞬きすれば光はくっついたり離れたり、大きくなったり小さくなったりでまるで泡の様だ。そうしていると、彼は「ねぇ、」と言葉を紡ぐ。何かを見透かされた様でほんの少しどきりとした。

 

「……マフラーは取って、コートの前も開ける。手袋は取らなくて良い、手が冷たくてはそこに在れないから。この時だけはマスクも顎にかけて、大きく鼻から息を吸うんだ。そしたらまるで、自分なんかここに居ないみたいに透明になって、自分だけがそこに溶ける。胸の中で循環させて温めた白い息を煙草みたいに吹かすんだ」

「何それ」

「冬の、匂い方」

 

 彼は恥ずかしそうに、また嬉しそうに笑った。いつのまにかマスクは顎に掛かっていて、笑った口から白い息が漏れる。目の中の光が溢れて、落ちてしまいそうだった。ほんの少し言葉に詰まって、不自然な間が空いた。

 

「……何かを嗅ぐ時は手で仰ぐようにして嗅がなきゃって習った、じゃないと」

 

 青年は手袋を取り、骨張った指で友人の鼻を軽く摘んだ。

 

「鼻が真っ赤だ」

 

 青年は笑った。彼はほんの少しきょとんとした顔をした後、氷が溶ける様にその表情を綻ばせた。痛いほどの寒さが心地よかったのは、いつになく沢山笑ったからかもしれない。急行電車の音が走り去っていく。駅はもう目の前だった。

 

 

 

 家の近くはそれなりに賑やかな場所であるものの、やはりあの大都会に比べると幾分か寒く感じる。心地よい暖房の風をふくらはぎに残して、青年は灯りだけが照らす商店街の中を進む。あちこちの居酒屋の暖簾の内に小さく暖かな喧騒が閉じ込められている。暖かくも、やはり離れてしまうとほんの少し寂しい。

 冬の香りがあるという。こんな都会じゃあ星も香りも何も分からないと彼は言った。そんな彼の言うことが分からないと青年は言った。あの時考えたくなかった未来は今であり、過去である。本当ならばこんな感傷、ずるずると引き摺るのは大嫌いだった。ただ、過ぎた未来も今に繋がる直線である。彼と歩いた一駅はエンドロールを継ぎ、消えた蝋燭に消えない灯を灯した。胸に残る残り香のような暖かい灯はこの冷たい風に消えはしないと思った。

 青年はマフラーを取り、コートの前を開けた。手袋に手を掛けて、ほんの少し何かを考えて、離した——手が冷たくては、そこに在れないから。そして、今だけとマスクを顎にかけ、大きく鼻から息を吸った。

 

 冬の香りは、薄い薄いチョコレートのシャボン玉が割れた後の、ミントの香の形骸。離れているはずなのに、何故か、香ばしいと思った。

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