六畳一間

白瀬天洋

第1話

 高校生の頃、僕には好きな女の子がいた。それはどこにでもよくあるはずの、報われない片思いになるはずだった。いつから好きだったのかはもう忘れてしまったけれど、一年生終わりのクラス替えで同じクラスになったので、きっと二年生の中盤か後半くらいなんじゃないかと思う。

 当時の彼女には恋人がいて、それもバスケ部のイケメンときたわけだから、僕は悔しいという思いさえも抱かなかった。毎日学校で彼女の元気な姿を目にして、たまにおどけた会話を交わす。そのくらいで大満足だったのだ。

 彼女への気持ちを自覚してから約一年後に、彼女は彼氏と別れた。しかし、その理由が「受験に集中したいから」だったので、僕にとっては絶好の機会でもなんでもなかった。彼女はどちらかといえば優等生に近く、東京にある名の知れた大学を志望していた。一方、僕は偏差値の制約と親の勧めで東京のはずれにある大学に進学することになっていた。

 そういうわけで、奇しくも僕は彼女とともに上京したのだ。


 *


 初めての大学生、初めての一人暮らし、初めての東京。最初の半年間は目まぐるしく過ぎていった。地元の高校から上京した同級生は決して多くはなかったので、助け合いの意味も込めてSNSのグループが作られていた。結局それが機能することはなかったけれど、僕は時折彼女と近況報告を兼ねたメッセージを個人的に交わしたり、電話したりした。

 暑い夏が終わろうとしていたある十月の土曜日、飲み会の席での先輩の悪ふざけのせいで、あるいは、そのおかげで、僕は彼女とハロウィンを一緒に過ごすという、願ってもいない幸運を手にした。先輩が勝手に僕のスマートフォンを使ってメッセージを送り、そして彼女はまんまとそれに返信した。

 僕は緊張と期待と後悔が胃の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、アルコールを飲んでもいないのに吐き出しそうだった。それでも、先輩の強い後押しもあり、僕はありがたくこの機会に便乗することにした。万が一失敗したとしても、どちらにせよそろそろこの恋にはけじめをつけなければならない、とうすうす感じていたからだ。

 彼女と話し合った結果、せっかく東京に来ているんだから渋谷ハロウィンに行こう、という結論に至った。当時の僕は絵に描いたような苦学生だったので、彼女が「恥ずかしいから仮装はしたくないかも」と電話口で言ったときには、心底ほっとしたものだ。

 それでも前日になって僕はまだ悩まされていた。着ていく服がないのだ。正確には、デートにふさわしい、おしゃれをするような服装がないのだ。「大学生 おしゃれ 簡単」や「大学生 服 ダサい」などとインターネットで検索しては、ああでもないこうでもないと大混乱していた。結局服装が決まった頃には夜中の一時を回っていた。


 *


 僕が抱えていた数多の不安とは裏腹に、当日は想像以上に楽しかった。涼しいはずの秋夜は人々の熱気で沸騰せんばかりだった。どこから湧いてきたのかと疑問に思うくらいの人間に揉みくちゃにされながらも、目を引くような仮装をした人たちとたくさん写真を収めることができた。

 さすがにくたびれてきた頃、彼女はスマートフォンを見ながら、あっ、という小さな声を漏らした。画面をのぞき込むと、乗換案内のアプリが表示されていた。

 「やばい、終電、なくなったかも」と彼女はささやくように言った。

 まじか、と僕は相づちを打ちながら、慌てて自分の終電を調べてみた。あと十分。今から駅に向かえばまだ間に合う。興奮と混沌のハロウィンの雰囲気に飲み込まれたせいもあろう、僕は咄嗟に彼女を誘ってしまった。

 「ギリギリ間に合うと思うから、うちに来ない?」

 「え、でも……」

 「全然大丈夫だよ。ワンルームでちょっと狭いけど、このままどこにも帰れないよりはいいと思う」

 彼女は下唇に手を当てて、少し考えるようなそぶりを見せてから、「そうだね。ありがとう」と言った。

 しかし、二人で電車に乗り込んだあとで僕はひどく後悔することになった。あんなに狭くてあんなにぼろいアパートを彼女に見せるのは、あまりにも恥ずかしかったからだ。そのせいで彼女が僕に幻滅する可能性も大いにあった。道中、僕はなんとか逃れるすべを探してみたが、発ってしまった終電はもう引き返さないし、口から出た言葉ももう戻ってはこなかった。

 電車の中でも、最寄り駅から家までの道でも、二人はほとんど口を開かなかった。僕の場合は緊張のせいだったし、彼女もきっと疲れ切っていたのだろう。


 *


 「お邪魔します」という言葉のあとに、「せま」とか「きたな」とかのような心の声が漏れてきそうな気がして、僕は彼女を直視できなかった。二人はローテーブルに向かい合って座った。そして僕は再び焦燥感と罪悪感に襲われた。僕の家にはテレビもゲームもないのだ。いったい何をすればいいのだろう。トランプの一組でもあればよかったのに。このままでは彼女につまらない男だと思われて一巻の終わりである。アドレナリンがすっかり切れたせいで、頭もろくにたらかなかった。

 「おなかすいた」と彼女がぽつりと言って、僕は現実に引き戻された。僕もおなかが空いていたが、部屋にある食べ物といえば、実家から送られてきた白米と、買い貯めしておいたカップラーメンだけだった。三度目の嫌な気持ち。

 「ごめん、これしかないけど…‥それか、ちょっと歩くけど、コンビニに行ってもいいよ」

 「ううん、もう疲れたからいいや」

 「そっか。どっちがいい?」

 「うーん、どっちでもいいよ。ありがとう」

 やはり彼女はそもそもカップラーメンなんて食べたくないのだ。それで僕は完全に意気消沈して、かろうじて「じゃあ俺は緑のたぬきにする」と言って、ポットに向かった。赤いきつねのほうがおいしいと思うからだ。

 お湯が沸くのを待っている間、僕は入る穴を探していた。ちらちらと彼女のほうに目をやると、彼女はしばらく部屋のあちこちを見渡していたが、飽きたのかやがて机に突っ伏した。

 その後の五分間は、人生で最も長い五分間だったと思う。どうしてカップラーメンなのに三分間じゃないのか、と僕は本気で憎んでいた。何を憎めばいいのかもわからず、僕は憎んでいた。時間を? 麺を? それとも自分を?

 でも仮にそれが三分間だったとしても、きっと僕は同じくらい憎んでいたと思う。


 *


 出来上がりを知らせるアラームの音とともに彼女は体を起こした。彼女は腹が立っているような、悲しんでいるような細い目をしていた。しかし僕はもはや動じなかった。もうどうにでもなれ、と思っていたのだ。

 緑のたぬきはほとんど味がしなかった。関西と関東では味付けが違う、と聞いたことはあるけれど、たしか関東のほうが濃い味だったはずなので、狂っているのは僕のほうということか。

 彼女はやはり黙々と食べ進めた。耐えられず僕が「おいしい?」と聞くと、「うん」と答えた。世界一不毛な問答だった。

 食べ終えると僕たちは風呂にも入らずに並んで寝た。

 こういうとき、普通の大学生なら、いや、僕だって普通の心理状況であれば、あれこれ考えてどきどきするものだと思う。しかしその夜の僕は、伸びきった麺のように完全なる失意に飲み込まれていたので、そんな余裕は微塵もなかった。

 こっそり横をのぞくと、彼女はすでに鼻息を立てていた。思わずため息が出る。最初から好かれるような人間ではなかったのだ。僕はその事実に気づくまで二年もかかってしまった。明日の朝は何と言って送り出そうかと考えているうちに、僕は気を失った。


 *


 九年経ったいまでも、彼女はときどきあのときのことで僕をからかう。

 いつかの結婚記念日に、かなり酔っていたせいか、彼女はこんなことを言っていた。

 「実はね、あの夜、わたしなぜか心の底から安心することができたんだ。狭い部屋だったし、食事はカップラーメンだったけど。でもそれは問題じゃなかった。むしろよかったとさえいえる。たぶん東京の荒波に揉まれて精神がやつれていたんだと思う。あの頃のわたしには、六畳一間で食べる赤いきつねと緑のたぬきが必要だったのよ。それでね、あのとき、わたしこの人と結婚したいなあ、なんて思ったの。付き合ってもいないのにだよ? それってすごく変なことだと思わない?」

 そう言って彼女はひとりで笑い出した。それにつられて僕も笑った。

 「なんとなく、わかるよ。もしあれが高級なごちそうだったら?」

 「きっと気が滅入っていただろうね」

 「よかった、貧乏で」

 それで僕たちはまたそろって笑った。

 「この話、絶対子どもには言うなよ」と僕が言うと、「どうしよっかなあ」と彼女はおなかを撫でながらいたずらっぽくおどけて見せる。

 けれども、僕だって本音を言えば、実のところ子どもには伝えたいと思う。彼もしくは彼女には将来、六畳一間で赤いきつねと緑のたぬきを食べて幸せを感じる人間に育ってほしいし、一生の中でその幸せを分かち合える人と出会ってほしいからだ。あいにく僕は、一足先にその幸運を手にしてしまったのだが。

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