正法眼蔵
エリファス1810
正法眼蔵 弁道話
諸仏、如来ともに妙法を単伝して阿耨菩提を証するに最上無為の妙術あり。
これ、ただ、ほとけ、仏にさずけて、
この三昧に遊化( or 遊戯)するに端坐参禅を正門とせり。
この法は人人の分上に、ゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるには、あらわれず、証せざるには、うることなし。
はなてば、てにみてり。一多のきわならんや。
かたれば、くちにみつ。縦横きわまりなし。
諸仏の、つねに、このなかに住持たる、各各の方面に知覚をのこさず。
群生の、とこしなえに、このなかに使用する、各各の知覚に方面あらわれず。
いま、おしうる功夫弁道は証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。
その超関脱落のとき、この節目にかかわらんや?
予、発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらいき。
ちなみに、建仁の全公をみる。
あいしたがう霜華すみやかに九回をへたり。
いささか臨済の家風をきく。
全公は祖師、西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり。
あえて余輩のならぶべきにあらず。
予かさねて大宋国におもむき知識を両浙にとぶらい家風を五門にきく。
ついに大白峰の浄禅師に参じて一生参学の大事ここに、おわりぬ。
それよりのち大宋、紹定のはじめ本郷にかえりし。すなわち弘法衆生をおもいとせり。
なお重担をかたにおけるがごとし。
しかあるに、弘道のこころを放下せん。
激揚のときをまつゆえに、しばらく雲遊萍寄して、まさに先哲の風をきこえんとす。
ただし、おのずから名利にかかわらず道念をさきとせん真実の参学あらんか?
いたずらに邪師にまどわされて、みだりに正解をおおい、むなしく自狂にようて、ひさしく迷郷にしずまん。
なにによりてか般若の正種を長じ得道の時をえん?
貧道は、いま雲遊萍寄をこととすれば、いずれの山川をかとぶらわん?
これをあわれむゆえに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し知識の玄旨を稟持せしをしるしあつめて参学閑道( or 参学間道)の人にのこして仏家の正法をしらしめんとす。
これ真訣ならんかも。
いわく、大師、釈尊、霊山会上にして法を迦葉につけ、祖祖正伝して、菩提達磨尊者にいたる。
尊者みずから神丹国におもむき法を慧可大師につけき。
これ東地の仏法伝来のはじめなり。
かくのごとく単伝して、おのずから六祖、大鑑禅師にいたる、ごとき( or このとき)、真実の仏法まさに東漢に流演して節目にかかわらぬむねあらわれき。
ときに、六祖に二位の神足ありき。
南嶽の懐譲と青原の行思となり。
ともに仏印を伝持して、おなじく人天の導師なり。
その二派の流通するに、よく五門ひらけたり。
いわゆる、法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗なり。
見在、大宋には臨済宗のみ天下にあまねし。
五家ことなれども、ただ一仏心印なり。
大宋国も後漢よりこのかた教籍あとをたれて一天にしけりといえども雌雄いまだ、さだめざりき。
祖師西来ののち直に葛藤の根源をきり純一の仏法ひろまれり。
わがくにもまた、しかあらんことをこいねがうべし。
いわく、仏法を住持せし諸祖ならびに諸仏ともに自受用三昧に端坐依行するをその開悟のまさしき、みちとせり。
西天、東地、さとりをえし人その風にしたがえり。
これ、師資ひそかに妙術を正伝し真訣を稟持せしによりてなり。
宗門の正伝にいわく、
この単伝正直( or 単伝正真)の仏法は最上のなかに最上なり。
参見知識のはじめより、さらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちいず。
ただし打坐して身心脱落することをえよ。
もし人、一時なりというとも三業に仏印を標し三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとく、さとりとなる。
ゆえに、諸仏、如来をしては本地の法楽をまし覚道の荘厳をあらたにす。
および、十方法界、三途六道の群類みなともに一時に身心明浄にして大解脱地を証し本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して覚樹王に端坐し一時に無等等の大法輪を転じ究竟無為の深般若を開演す。
これらの等正覚、さらに、かえりて、したしくあい冥資するみちかようがゆえに、この坐禅人、確爾として身心脱落し従来雑穢の知見思量を截断して天真の仏法に証会し、あまねく微塵際そこばくの諸仏、如来の道場ごとに仏事を助発し、ひろく仏向上の機にこうむらしめて、よく仏向上の法を激揚す。
このとき、十方法界の土地、草木、牆壁、瓦礫みな(仏事をなす)仏事をなすをもって、その、おこすところの風水の利益にあずかるともがらみな甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらわす。
この水火を受用するたぐいみな本証の仏化を周旋するゆえに、これらのたぐいと共住して同語するものまた、ことごとく、あいたがいに無窮の仏徳そなわり展転広作して無尽、無間断、不可思議、不可称量の仏法を遍法界の内外に流通するものなり。
しかあれども、この、もろもろの当人の知覚に昏( or 混)ぜざらしむることは静中の無造作にして直証( or 真証)なるをもってなり。
もし凡流のおもいのごとく修、証を両段にあらせば、おのおの、あい覚知すべきなり。
もし覚知にまじわるは証則にあらず。
証則には迷情およばざるがゆえに。
また、心、境ともに静中の証入悟出あれども自受用の境界なるをもって一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。
この化道のおよぶところの草木、土地ともに大光明をはなち深妙法をとくこと、きわまるときなし。
草木、牆壁は、よく凡聖含霊のために宣揚し、凡聖含霊は、か(え)って草木、牆壁のために演暢す。
自覚、覚他の境界もとより証相をそなえて、かけたることなく、証則おこなわれて、おこたるときなからしむ。
ここをもって、わずかに一人、一時の坐禅なりといえども諸法とあい冥し、諸時とまどかに通ずるがゆえに、無尽法界のなかに去来現に常恒の仏化道事をなすなり。
彼、彼ともに一等の同修なり。同証なり。
ただ坐上の修のみにあらず。
空をうちて、ひびきをなすこと、撞の前後に妙声綿綿たるものなり。
このきわのみにかぎらんや?
百頭みな本面目に本修行をそなえて、はかり、はかるべきにあらず。
しるべし。
たとえ十方無量恒河沙数の諸仏ともに、ちからをはげまして仏智慧をもって一人坐禅の功徳をはかりしり、きわめんとす、というとも、あえて、ほとりをうることあらじ。
いま、この坐禅の功徳、高大なることをききおわりぬ。
おろかならん人うたがうて、いわん。
仏法におおくの門あり。
なにをもってか、ひとえに坐禅をすすむるや?
しめして、いわく、
これ、仏法の正門なるをもってなり。
とうて、いわく、
なんぞ、ひとり、正門とする?
しめして、いわく、
大師、釈尊まさしく得道の妙術を正伝し、また、三世の如来ともに坐禅より得道せり。
このゆえに、正門なることをあいつたえたるなり。
しかのみにあらず。
西天、東地の諸祖みな坐禅より得道せるなり。
ゆえに、いま、正門を人、天にしめす。
とうて、いわく、
あるいは、如来の妙術を正伝し、または、祖師のあとをたずぬるによらん、まことに、凡慮のおよぶにあらず。
しかは、あれども、読経、念仏は、おのずから、さとりの因縁となりぬべし。
ただ、むなしく坐して、なすところなからん。
なにによりてか、さとりをうるたよりとならん?
しめして、いわく、
なんじ、いま、諸仏の三昧、無上の大法を、むなしく坐して、なすところなし、とおもわん。
これを大乗を謗ずる人とす。
まどいのいとふかき、大海のなかにいながら水なし、といわんがごとし。
すでに、かたじけなく、諸仏自受用三昧に安坐せり。
これ、広大の功徳をなすにあらずや?
あわれむべし。まなこ、いまだひらけず、こころ、なお、よいにあることを。
おおよそ諸仏の境界は不可思議なり。
心識のおよぶべきにあらず。
いわんや、不信劣智のしることをえんや?
ただ正信の大機のみ、よく、いることをうるなり。
不信の人は、たとえ、おしうとも、うくべきこと、かたし。
霊山に、なお、退亦佳矣のたぐいあり。
おおよそ心に正信おこらば修行し参学すべし。
しかあらずば、しばらく、やむべし。
むかしより法のうるおいなきことをうらみよ。
又、読経、念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんじ、しるや、いなや?
ただ、したをうごかし、こえをあぐるを仏事、功徳とおもえる、いとはかなし。
仏法に擬するに、うたた、とおく、いよいよ、はるかなり。
又、経書をひらくことは、ほとけ、頓漸修行の儀則をおしえおけるをあきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず、証をとらしめんとなり。
いたずらに思量念度をついやして菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。
おろかに千万誦の口業をしきりにして仏道にいたらんとするは、なお、これ、ながえをきたにして越にむかわん、と、おもわんがごとし。
又、円孔に方木をいれんとせんとおなじ。
文をみながら修するみちにくらき、それ、医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん?
口声をひまなくせる、春の田のかえるの昼夜になくがごとし。ついに、又、益なし。
いわんや、ふかく名利にまどわさるるやから、これらのことをすてがたし。
それ、利貪( or 貪利)のこころ、はなはだ、ふかきゆえに。
むかし、すでにありき。
いまのよに、なからんや?
もっとも、あわれむべし。
ただ、まさに、しるべし。
七仏の妙法は得道明心の宗匠に契心証会の学人あいしたがうて正伝すれば的旨あらわれて稟持せらるるなり。
文字習学の法師の、しりおよぶべきにあらず。
しかあれば、すなわち、この疑迷をやめて、正師のおしえにより坐禅弁道して、諸仏の自受用三昧を証得すべし。
とうて、いわく、
いま、わが朝につたわれるところの法華宗、華厳教( or 華厳宗)ともに大乗の究竟なり。
いわんや、真言宗のごときは毘盧遮那如来したしく金剛薩埵につたえて、師資みだりならず。
その談ずるむね、即心是仏( or 即身是仏)、是心作仏( or 是身作仏)というて、多劫の修行をふることなく一座に五仏の正覚をとなう。
仏法の極妙というべし。
しかあるに、いま、いうところの修行、なにの、すぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとえに、これをすすむるや?
しめして、いわく、
しるべし。
仏家には、教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。
草花、山水にひかれて仏道に流入することありき。
土石、砂礫をにぎりて仏印を稟持することあり。
いわんや、広大の文字は万象にあまりて、なお、ゆたかなり。
転大法輪また、一塵におさまれり。
しかあれば、すなわち、即心即仏( or 即身即仏)のことば、なお、これ、水中の月なり。
即坐成仏( or 即坐成道)のむね、さらにまた、かがみのうちのかげなり。
ことばのたくみに、かかわるべからず。
いま直証菩提( or 真証菩提)の修行をすすむるに仏祖単伝の妙道をしめして真実の道人とならしめんとなり。
又、仏法を伝授することは、かならず、証契の人をその宗師とすべし。
文字をかぞうる学者をもって、その導師とするに、たらず。一盲の衆盲をひかんがごとし。
いま、この、仏祖正伝の門下には、みな、得道証契の哲匠をうやまいて仏法を住持せしむ。
かるがゆえに、冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさずけずということなし。
余門に、いまだ、きかざるところなり。
ただ、仏弟子は仏法をならうべし。
又、しるべし。
われらは、もとより、無上菩提、かけたるにあらず。
とこしなえに受用すといえども、承当することをえざるゆえに、みだりに知見をおこすことをならいとして、これを物とお(も)うによりて、大道いたずらに蹉過す。
この知見によりて空華まちまちなり。
あるいは、十二輪転、二十五有の境界とおもい、三乗、五乗、有仏、無仏の見つくることなし。
この知見をならうて仏法修行の正道とおもうべからず。
しかあるを、いまは、まさしく、仏印によりて万事を放下し一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかわらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。
かの、文字の筌罤にかかわるものの、かたをならぶるにおよばんや?
とうて、いわく、
三学のなかに定学あり。
六度のなかに禅度あり。
ともに、これ、一切の菩薩の初心よりまなぶところ。
利鈍をわかず修行す。
いまの坐禅も、そのひとつなるべし。
なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたり、というや?
しめして、いわく、
いま、この、如来一大事の正法眼蔵、無上の大法を禅宗となづくるゆえに、この問きたれり。
しるべし。
禅宗の号は神丹以東におこれり。
竺乾には、きかず。
はじめ達磨大師、嵩山の少林寺にして九年面壁のあいだ、道俗、いまだ仏正法をしらず、坐禅を宗とする婆羅門となづけき。
のち、代代の諸祖みな、つねに坐禅をもっぱらす。
これをみる、おろかなる俗家は、実をしらず、ひたたけて、坐禅宗といいき。
いまのよには、坐のことばを簡して、ただ、禅宗というなり。
そのこころ、諸祖の広語にあきらかなり。
六度、および、三学の禅定に、ならっていうべきにあらず。
この仏法の相伝の嫡意なること、一代にかくれなし。
如来、むかし霊山会上にして正法眼蔵、涅槃妙心、無上の大法をもって、ひとり、迦葉尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆まのあたり、みしもの存せり。
うたがうべきにたらず。
おおよそ仏法は、かの天衆とこしなえに護持するものなり。
その功いまだ、ふりず。
まさに、しるべし。
これは仏法の全道なり。
ならべていうべき物なし。
とうて、いわく、
仏家、なにによりてか、四儀のなかに、ただし坐にのみ、おおせて、禅定をすすめて証入をいうや?
しめして、いわく、
むかしよりの諸仏あいつぎて修行し証入せるみち、きわめしりがたし。
ゆえをたずねば、ただ、仏家のもちいるところをゆえとしるべし。
このほかに、たずぬべからず。
ただし、祖師ほめて、いわく、坐禅は、すなわち、安楽の法門なり。
はかりしりぬ。
四儀のなかに安楽なるゆえか?
いわんや、一仏、二仏の修行のみちにあらず。
諸仏、諸祖にみな、このみちあり。
とうて、いわく、
この坐禅の行は、いまだ仏法を証会せざらんものは坐禅弁道して、その証をとるべし。
すでに仏正法をあきらめえん人は坐禅なにの、まつところか、あらん?
しめして、いわく、
痴人のまえに、ゆめをとかず、山子の手には舟棹をあたえがたし、といえども、さらに訓をたるべし。
それ、修、証はひとつにあらず、とおもえる、すなわち、外道の見なり。
仏法には修、証これ一等なり。
いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道、すなわち、本証の全体なり。
かるがゆえに、修行の用心をさずくるにも、修のほかに証をまつおもいなかれ、と、おしう。
直指の本証なるがゆえなるべし。
すでに修の証なれば証にきわなく、証の修なれば修にはじめなし。
ここをもって、釈迦如来、迦葉尊者ともに証上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖おなじく証上の修に引転せらる。
仏法住持のあと、みな、かくのごとし。
すでに証をはなれぬ修あり。
われら、さいわいに、一分の妙修を単伝せる。
初心の弁道、すなわち、一分の本証を無為の地にうるなり。
しるべし。
修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために仏祖しきりに修行のゆるくすべからざる、と、おしう。
妙修を放下すれば、本証、手の中にみてり。
本証を出身すれば、妙修、通身におこなわる。
又、まのあたり大宋国にして、みしかば、諸方の禅院みな坐禅堂をかまえて、五百、六百、および、一、二千僧を安じて日夜に坐禅をすすめき。
その席主とせる伝仏心印の宗師に仏法の大意をとぶらいしかば、修、証の、両段にあらぬむねをきこえき。
このゆえに、門下の参学のみにあらず、求法の高流、仏法のなかに真実をねがわん人、初心、後心をえらばず、凡人、聖人を論ぜず、仏のおしえにより宗匠の道をおうて坐禅弁道すべし、とすすむ。
きかずや?
祖師の、いわく、修、証は、すなわち、なきにあらず。染汚することは、えじ。
又、いわく、道をみるもの、道を修す、と。
しるべし。得道のなかに修行すべし、ということを。
とうて、いわく、
わが朝の先代に教をひろめし諸師ともに、これ、入唐伝法せしとき、なんぞ、このむねをさしおきて、ただ教をのみ、つたえし?
しめして、いわく、
むかしの人師この法をつたえざりしことは時節のいまだいたらざりしゆえなり。
とうて、いわく、
かの上代の師この法を会得せりや?
しめして、いわく、
会せば通じてん。
とうて、いわく、
あるが、いわく、
生死をなげくことなかれ。
生死を出離するに、いとすみやかなるみちあり。
いわゆる、心性の常住なることわりをしるなり。
その、むねたらく、
この身体は、すでに生あれば、かならず、滅にうつされゆくことありとも、この心性は、あえて滅することなし。
よく生滅にうつされぬ心性、わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆえに、身は、これ、かりのすがたなり。
死此生彼さだまりなし。
心は、これ、常住なり。去来現在かわるべからず。
かくのごとく、しるを、生死をはなれたり、とは、いうなり。
このむねをしるものは従来の生死ながくたえて、この身おわるとき性海にいる。
性海に朝宗するとき、諸仏、如来のごとく、妙徳まさに、そなわる。
いまは、たとえ、しるといえども、前世の妄業になされたる身体なるがゆえに、諸聖とひとしからず。
いまだ、このむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。
しかあれば、すなわち、ただ、いそぎて、心性の常住なるむねを了知すべし。
いたずらに閑坐して一生をすぐさん、なにの、まつところか、あらん?
かくのごとく、いうむね、これは、まことに諸仏、諸祖の道にかなえりや?
いかん?
しめして、いわく、
いま、いうところの見、まったく仏法にあらず。
先尼外道が見なり。
いわく、かの外道の見は、
わが身、うちに、ひとつの霊知あり。
かの知、すなわち、縁にあうところに、よく、好悪をわきまえ、是非をわきまう。
痛痒をしり、苦楽をしる、みな、かの霊知のちからなり。
しかあるに、かの霊性は、この身の滅するとき、もぬけて、かしこに、うまるる。
ゆえに、ここに滅す、と、みゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なり、というなり。
かの外道が見、かくのごとし。
しかあるを、この見をならうて仏法とせん、瓦礫をにぎりて金宝とおもわんよりもなお、おろかなり。
痴迷の、はずべき、たとうるに、ものなし。
大唐国の慧忠国師ふかくいましめたり。
いま、心常相滅の邪見を計して諸仏の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして生死をはなれたりとおもわん、おろかなるにあらずや?
もっとも、あわれむべし。
ただ、これ、外道の邪見なり、としれ。
みみにふるべからず。
こと、やむことをえず、いまなお、あわれみをたれて、なんじが邪見をすくわば、( or すくわん。)
しるべし。
仏法には、もとより、身心一如にして性相不二なり、と談ずる。
西天、東地おなじく、しれるところ。
あえて、たがう( or うかがう)べからず。
いわんや、常住を談ずる門には、万法みな常住なり。身と心とをわくことなし。
寂滅を談ず門には、諸法みな寂滅なり。性と相とをわくことなし。
しかあるを、なんぞ身滅心常といわん?
正理にそむかざらんや?
しかのみならず、生死は、すなわち、涅槃なり、と覚了すべし。
いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。
いわんや、心は身をはなれて常住なり、と領解するをもって生死をはなれたる仏智に妄計す、というとも、この領解知覚の心は、すなわち、なお生滅して、まったく常住ならず。
これ、はかなきにあらずや?
嘗観すべし。
身心一如のむねは仏法のつねの談ずるところなり。
しかあるに、なんぞ、この身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん?
もし一如なるときあり一如ならぬときあらば、仏説おのずから虚妄にありぬべし。
又、生死はのぞくべき法ぞ、とおもえるは、仏法をいとう、つみとなる。
つつしまざらんや?
しるべし。
仏法に心性大総相の法門というは、一大法界をこめて、性、相をわかず、生滅をいうことなし。
菩提涅槃におよぶまで心性にあらざるなし。
一切諸法( or 一切諸仏)、万象森羅ともに、ただ、これ、一心にして、こめず、かねざること、なし。
この、もろもろの法門みな平等一心なり。
あえて異違なし、と談ずる、これ、すなわち、仏家の心性をしれる様子なり。
しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや?
すでに仏子なり。
外道の見をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ。
とうて、いわく、
この坐禅をもっぱらせん人、かならず戒律を厳浄すべしや?
しめして、いわく、
持戒梵行は、すなわち、禅門の規矩なり。仏祖の家風なり。
いまだ戒をうけず、又、戒をやぶれるもの、その分なきにあらず。
とうて、いわく、
この坐禅をつとめん人、さらに真言止観の行をかね修せん、さまたげあるべからずや?
しめして、いわく、
在唐のとき、宗師に真訣をききしちなみに、西天、東地の古今に仏印を正伝せし諸祖、いずれも、いまだ、しかのごときの行をかね修す、ときかず、といいき。
まことに、一事をこととせざれば、一智に達することなし。
とうて、いわく、
この行は在俗の男女もつとむべしや?
ひとり出家人のみ修するか?
しめして、いわく、
祖師の、いわく、仏法を会すること男女、貴賤をえらぶべからず、ときこゆ。
とうて、いわく、
出家人は諸縁すみやかにはなれて坐禅弁道にさわりなし。
在俗の繁務は、いかにしてか、一向に修行して無為の仏道にかなわん?
しめして、いわく、
おおよそ仏祖、あわれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり。
これ、一切衆生を証入せしめんがためなり。
人、天、だれか、いらざらんものや?
ここをもって、むかし、いまをたずぬるに、その証、これ、おおし。
しばらく、代宗、順宗の、帝位にして万機いとしげかりし、坐禅弁道して仏祖の大道を会通す。
李相国、防相国ともに、輔佐の臣位にはんべりて一天の股肱たりし、坐禅弁道して仏祖の大道に証入す。
ただ、これ、こころざしのあり、なし、によるべし。
身の在家、出家、にかかわらじ。
又、ふかくことの殊劣をわきまうる人、おのずから信ずることあり。
いわんや、世務は仏法をさゆ、とおもえるものは、ただ世中に仏法なし、とのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり。
ちかごろ大宋に、馮相公という、ありき。
祖道に長ぜりし大官なり。
のちに、詩をつくりて、みずからをいうに、いわく、
公事之余、喜坐禅、少、曾、将脇到牀眠。
雖然、現出宰宦相、長老之名、四海伝。
これは官務にひまなかりし身なれども、仏道にこころざしふかければ、得道せるなり。
他をもって、われをかえりみ、むかしをもって、いまをかがみるべし。
大宋国には、いまのよの国王、大臣、士、俗、男女ともに心を祖道にとどめずということなし。
武門、文家、いずれも、参禅学道をこころざせり。
こころざすもの、かならず、心地を開明すること、おおし。
これ、世務の仏法をさまたげざる、おのずから、しられたり。
国家に真実の仏法、弘通すれば、諸仏、諸天、ひまなく衛護するがゆえに、王化、太平なり。
聖化、太平なれば、仏法、そのちからをうるものなり。
又、釈尊の在世には、逆人、邪見、みちをえき。
祖師の会下には、猟者、樵翁、さとりをひらく。
いわんや、そのほかの人をや。
ただ、正師の教道をたずぬべし。
とうて、いわく、
この行は、いま、末代、悪世にも、修行せば、証をうべしや?
しめして、いわく、
教家に名、相をこととせるに、なお大乗実教には、正、像、末法をわくことなし。
修すれば、みな得道す、という。
いわんや、この単伝の正法には、入法、出身おなじく自家の財珍を受用するなり。
証の得否は、修せんもの、おのずから、しらんこと、用水の人の、冷暖を、みずから、わきまうるがごとし。
とうて、いわく、
あるが、いわく、
仏法には即心是仏のむねを了達しぬるがごときは、くちに経典を誦せず、身に仏道を行ぜざれども、あえて仏法にかけたるところなし。
ただ仏法は、もとより、自己にあり、としる。
これを得道の全円とす。
このほか、さらに、他人にむかいて、もとむべきにあらず。
いわんや、坐禅弁道をわずらわしく、せんや?
しめして、いわく、
このことば、もっとも、はかなし。
もし、なんじがいうごとくならば、こころあらんもの、だれが、このむねをおしえんに、しることなからん?
しるべし。
仏法は、まさに、自他の見をやめて学するなり。
もし自己即仏としるをもって得道とせば、釈尊、むかし、化道にわずらわじ。
しばらく、古徳の妙則をもって、これを証すべし。
むかし、則公監院という僧、法眼禅師の会中にありしに、法眼禅師、とうて、いわく、則監寺、なんじ、わが会にありて、いくばくのときぞ?
則公が、いわく、われ、師の会にはんべりて、すでに三年をへたり。
禅師の、いわく、なんじは、これ、後生なり。なんぞ、つねに、われに仏法をとわざる?
則公が、いわく、それがし、和尚をあざむくべからず。かつて、青峰禅師のところにありしとき、仏法におきて安楽のところを了達せり。
禅師の、いわく、なんじ、いかなる、ことばによりてか、いることをえし?
則公が、いわく、
それがし、かつて、青峰にといき、いかなるか、これ、学人の自己なる?
青峰の、いわく、丙、丁童子、来、求火。
法眼の、いわく、よきことばなり。ただし、おそらくは、なんじ、会せざらんことを。
則公が、いわく、丙、丁は火に属す。火をもって、さらに火をもとむ、自己をもって自己をもとむるににたり、と会せり。
禅師の、いわく、まことに、しりぬ。なんじ会せざりけり。仏法、もし、かくのごとくならば、きょうまでに、つたわれじ。
ここに、則公、懆悶して、すなわち、たちぬ。
中路にいたりて、おもいき、禅師は、これ、天下の善知識。又、五百人の大導師なり。わが非をいさむる。さだめて、長所あらん。
禅師のみもとにかえりて、懺悔、礼謝して、とうて、いわく、いかなるか、これ、学人の自己なる?
禅師の、いわく、丙、丁童子、来、求火。と。
則公、このことばのしたに、おおきに仏法をさとりき。
あきらかに、しりぬ。自己即仏の領解をもって、仏法をしれり、というにはあらず、ということを。
もし自己即仏の領解を仏法とせば、禅師、さきのことばをもって、みちびかじ。
又、しかのごとく、いましむべからず。
ただ、まさに、はじめ、善知識をみんより、修行の儀則を咨問して一向に坐禅弁道して、一知、半解を心にとどむることなかれ。
仏法の妙術、それ、むなしからじ。
とうて、いわく、
乾、唐の古今をきくに、あるいは、たけのこえをききて道をさとり、あるいは、はなのいろをみて、こころをあきらむるものあり。
いわんや、釈迦大師は明星をみしとき道を証し、阿難尊者は刹竿のたうれしところに法をあきらめし、のみならず、六代よりのち、五家のあいだに、一言半句のしたに心地をあきらむるもの、おおし。
かれら、かならずしも、かつて坐禅弁道せるもののみならんや?
しめして、いわく、
古今に見色明心し聞声悟道せし当人ともに、弁道に擬議(思)量なく、直下に第二人なきことをしるべし。
とうて、いわく、
西天、および、神丹国は、人、もとより、質、直なり。
中華の、しからしむるによりて、仏法を教化するに、いとはやく会入す。
我朝は、むかしより、人に仁、智、すくなくして、正種、つもりがたし。
蕃夷の、しからしむる、うらみざらんや?
又、このくにの出家人は大国の在家人にも、おとれり。
挙世おろかにして、心量、狭少なり。
ふかく有為の功を執して、事相の善をこのむ。
かくのごとくのやから、たとえ坐禅すというとも、たちまちに仏法を証得せんや?
しめして、いわく、
いうがごとし。
わがくにの人いまだ仁、智、あまねからず。
人、また、迂曲なり。
たとえ正直の法をしめすとも、甘露、かえりて、毒となりぬべし。
名利には、おもむきやすく、惑執とらけがたし。
しかは、あれども、仏法に証入すること、かならずしも人、天の世智をもって出世の舟航とするにはあらず。
仏、在世にも、てまりによりて四果を証し、袈裟をかけて大道をあきらめし、ともに、愚暗のやから、痴狂の畜類なり。
ただし、正信のたすくるところ、まどいをはなるるみちあり。
また、痴老の比丘、黙坐せしをみて、設斎の信女、さとりをひらきし。
これ、智によらず、文によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただし、これ、正信にたすけられたり。
また、釈教の、三千界にひろまること、わずかに二千余年の前後なり。
刹土の、しなじな、なる、かならずしも仁、智のくににあらず。
人、また、かならずしも利智聡明のみあらんや?
しかあれども、如来の正法、もとより、不思議の大功徳力をそなえて、ときいたれば、その刹土にひろまる。
人、まさに、正信修行すれば、利、鈍をわかず、ひとしく、得道するなり。
わが朝は仁、智のくににあらず。
人に知、解おろかなりとして、仏法を会すべからず、とおもうことなかれ。
いわんや、人、みな、般若の正種、ゆたかなり。
ただ、承当すること、まれに、受用すること、いまだしきならじ。
さきの問答、往来し、賓、主、相交すること、みだりがわし。
いくばくか、はななきそらに、はなをなさしむる。
しかあれども、このくに、坐禅弁道におきて、いまだ、その宗旨、つたわれず。
しらん、と、こころざさんもの、かなしむべし。
このゆえに、いささか異域の見聞をあつめ、明師の真訣をしるしとどめて、参学のねがわんに、きこえん、とす。
このほか、叢林の規範、および、寺院の格式、いま、しめすに、いとまあらず。
又、草草にすべからず。
おおよそ我朝は龍海の以東にところして雲煙はるかなれども、欽明、用明の前後より秋方の仏法、東漸する。
これ、すなわち、人のさいわいなり。
しかあるを、名、相、事、縁、しげく、みだれて、修行のところにわずらう。
いまは、破衣綴盂を生涯として青巌白石のほとりに茅をむすんで端坐修練するに、仏向上の事、たちまちに、あらわれて、一生参学の大事、すみやかに究竟するものなり。
これ、すなわち、龍牙( or 霊山)の誡勅なり。鶏足の遺風なり。
その坐禅の儀則は、すぎぬる嘉禄のころ撰集せし普勧坐禅儀に依行すべし。
それ、仏法を国中に弘通すること、王勅をまつべしといえども、ふたたび霊山の遺嘱をおもえば、いま、百万億刹に現出せる王、公、相、将、みなともに、かたじけなく仏勅をうけて夙生に仏法を護持する素懐をわすれず生来せるものなり。
その化をしくさかい、いずれのところか、仏国土にあらざらん?
このゆえに、仏祖の道を流通せん、かならずしも、ところをえらび、縁をまつべきにあらず。
ただ、きょうをはじめ、とおもわんや?
しかあれば、すなわち、これをあつめて、仏法をねがわん哲匠、あわせて、道をとぶらい雲遊萍寄せん参学の真流に、のこす。
ときに、
寛喜辛卯 中秋日 入宋 伝法 沙門 道元 記
正法眼蔵 弁道話
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます