22


 帰り着いたアパートの中はほんのりと暖かかった。エアコンがつけっぱなしだ。俊臣が消し忘れたのか、よほど慌てていたのか、その痕跡が部屋のあちこちに残っていた。

「うわ…」

 リビングの端に積んでいたはずの段ボールの箱が下ろされ、どれも蓋が開いていた。食器類を詰めていたはずの箱の傍には梱包材に包んだものが散乱し、箱の中はぽっかりと大きな隙間を空けている。

「え、ここに入れといた鍋は?」

「送った」

「お…」

 送った?

 箱を覗き込んだ体勢から振り返ると、俊臣がおれの後ろで何とも言えない顔をしていた。

「なに、送った、って…?」

「話したくない」

「はあ?」

 鍋が何だ?

 怪訝に顔を顰めてじっと見上げると、俊臣は珍しく盛大なため息をついた。

「母さんがすぐに送ってくれって──、りつのところに行こうとしたら電話が掛かってきたんだよ」

「英里さん? 鍋って、なあ何の、話…、っ」

 ぐっと腕を引かれ前のめりになった体を俊臣が抱き締めた。腕の力は強く、おれの踵がわずかに床から浮き上がる。

「立夏」

 立夏、と耳のすぐ下に顔を埋めて、俊臣がおれの名前を呼んだ。

「…よかった…、立夏。…りつ」

「とし──、」

 すり、と首筋に温かい頬を擦りつけられる。そこから伝わる熱で甘い痺れが全身に広がっていく。膝から力が抜けそうになり、思わず俊臣の腕に縋ると、背中に回っていた手のひらが背骨を辿って、そっとおれの項に触れた。

 りつ、と呼んだ唇がおれの唇に重なった。囁く声も何もかもが温かく濡れているようで、俊臣からはどこか雨の匂いがした。

「ん…」

 ただ皮膚を擦り合わせているだけなのに、どうしてこんなに気持ちがいいんだろう。閉じた瞼の裏にぼんやりと昔の思い出が甦ってくる。

 もうずっと昔のことなのに、今でも忘れることが出来ない。

 俊臣。

「無事でよかった」

「……おれは、大丈夫だよ」

 美織と何があったかを、おれは帰り道で俊臣に話していた。それまでの経緯も、大体のところを俊臣からも教えてもらっていた。

 昨日の話の続きをこんな形でするなんて。

 見上げると、じっとおれを覗き込む目があった。その目はあのときと同じ色をしている。

「おまえが昔、いなくなったときのこと…覚えてる?」

 目を合わせて言うと、俊臣が小さく目を見開いた。おれは苦笑した。

「おれね、もうどうしていいか分かんないくらい、パニックになっちゃって…」

 親の帰りを待っていた、土曜日の午後。その日は本来なら休みの英里さんも仕事で、家の中はふたりだけだった。おれの家で用意されていた昼ご飯を食べ、ふたりで外に遊びに行った。おれが五年生、俊臣が三年生だった、あれは──秋の終わりの頃。

『…立夏くん?』

 遊び疲れて歩いていた帰り道で通り雨に会い、慌てていたところを、ふいに誰かに呼び止められた。

 女の人で、随分年上に見えたけれど、今思えば高校生くらいだったような気がする。

『こんにちは』

 おれはその人を見たことがあった。近くのスーパーで買い物をするとき、その人はいつもそこにいたのだ。

 にっこりと笑うその顔は、どこか死んでしまった母親に似ている気がした。

『今日はお友達と一緒なんだね』

『そうだけど…?』

 足を止めてそう言えば、後ろにいた俊臣がおれの袖を引っ張った。

 りつ、と呼ぶ声にどうしたのかと振り向こうとしたとき、女の人はぐっとおれの肩を掴んで自分のほうに向かせた。

『ね、よかったらお姉ちゃんのおうちに来ない?』

『…え?』

『ね?』

 顔は知っていても名前も知らない人の家になど行けるわけがない。それくらいのことはおれにだって分かっていたから、嫌だと首を振った。

 にこりと彼女は首を傾げた。

『お友達も一緒に来ていいのよ?』

 傘を差す彼女の顔は影になっていた。うす暗い顔の中に浮かぶ貼りついたような笑みに、得体の知れない何かを見つけ、ぞっと背筋が震えた。駄目だ。駄目だ、行ったりなんかしたら。

『い、いい、です。家にいないとだし…』

『へえ、今日は土曜日なのに、お留守番なんだ?』

 おれの口にしたひと言から家には誰もいないと察したのか──あるいは、はじめから分かっていたのか──待ち伏せするように声を掛けてきた時点で、今ならそれが後者であったと理解出来ても、当時は心の中を覗き見られたようで恐怖でしかなかった。

『い…、行こう俊臣』

 後ろにいた俊臣の腕を取ってその人の横をすり抜けた。すれ違う瞬間、耳元で彼女は笑った。

『かーわい…ついてこっかな』

『──』

 ザアっと肌が粟立った。その言い方が、その声が、恐ろしかった。彼女にとっては何でもない揶揄いなのだろうが、心底怖かった。おれは脱兎の如く、俊臣を引きずるようにして走って家に帰った。

『りつ、りつ…?』

 気がつけば、俊臣がおれを見下ろしていた。おれは家の玄関の中で蹲っていた。俊臣がおれの頭にタオルを被せた。濡れた髪から雫が落ちる。

『大丈夫? これ』

 グラスに注いだ水を差し出され、貪るように一気に飲んだ。もう冬も近く、暑くもないのに頭から水をかぶったように滴り落ちる汗が止まらなかった。

『りつ、大丈夫?』

 心配そうに覗き込む目を見て、やっと息がつけた。

『だい、…だいじょ、ぶ…っ』

『お母さん呼ぶ?』

『い──いいっ、いいよ、呼ばなくて…っ』

 英里さんから何かあったらと渡されていた携帯電話をポケットから出した俊臣に、おれは慌てて手を振った。

 そんなことしないで。

 そんな、こんなことで、心配をかけたくない。何より迷惑だからとおれは俊臣にやめさせた。

 こんなことなんでもない。

『でも…』

『いいっ、ほんとに、だいじょーぶだって!おれあの人見たことあるし、へーきだから…』

『……』

『ね、ほら、おやつ食べよ…』

 黙り込んだ俊臣をリビングに連れて行って、買っておいてもらったおやつを出した。今朝英里さんがふたり分、同じものを用意して持って来てくれていた。

『何飲む? りんご? コーラ?』

『…りんご』

『そこ座ってな』

 外になんて出なければよかった。

 遊びに行こうと言い出したのはおれで、俊臣は本を読みたがっていたのに。一緒に本読んで、家の中で、いつもみたいにふたりでいればよかった。

 グラスを出してりんごジュースを注ぐ。

 零れそうな涙を目を擦って誤魔化して、俊臣にグラスを渡した。そして、おやつを食べたおれは眠ってしまった。ひどく緊張した反動だったのか、いつ眠ったのかも覚えていなかった。

 目が覚めるとしんとしていた。

『……、ん、…としおみ?』

 日の暮れかけた暗いリビング。

 掛けられた毛布の中で身を起こして名前を呼んだ。

『俊臣?』

 返事がない。

 さあ、と血の気が引いた。



「起きたら、いなくて…ほんとに心臓が止まるかと思ったんだよ」

 あの時の焦燥感を今でも時々夢に見る。

 それは決まって具合の悪いときや、嫌なことがあった後、眠れない夜のほんの少し微睡んだ朝方に。ここ数年はほとんど見なくなってたけれど、俊臣が初めてこのアパートに泊まったとき、また見てしまった。

「なあ、おまえさ、あのときどこ行ってたの…?」

 家中を必死に探しても見つからなかった。どこかに隠れているのか──眠っていたのはほんの一時間ほどだったのに。

 俊臣はどこに行ってしまったんだろう。自分の家に帰ったのかと預かっていた鍵を握りしめて家を飛び出した。

 雨はもう上がっていた。

 斜め向かいの家はひっそりとして、どの窓にも明かりはなかった。

『としおみ…!』

 もうこんなに風が冷たい。

 見つけないと。

 おれが俊臣を見つけないと。

「めちゃくちゃ探したのに見つかんなくて、泣きそうになってたら、おまえあっさり帰ってくるんだもん…」

 俊臣の家の中を一通り探し終えてどうしようもなくなって外に出てみると、暗い道の向こうから、傘を手に持ってとことこと歩いてくる俊臣の姿が見えた。

『…? りつ』

 立ち尽くすおれを見つけた俊臣が顔を上げ、ふっ、と笑った。

 その瞬間、おれは俊臣に駆け寄って、その体を力いっぱい抱き締めていた。

『なんで、なんでっどこ行ってたんだよお…っおれめちゃくちゃ探したのに! としおみっ、いなくて…起きたらいなくて…っ』

『りつ』

『なんでえっなんでなんも言わないで行くの、行くの…っやだああ、う、ううっとしおみ、…い…っ』

『…りつ』

 おれよりも小さな体に縋るように抱きしめると、俊臣の体からはかすかな雨の匂いがした。

『…よかった、よかっ…、帰って来て、よかったあ…』

 溢れた涙が俊臣の服に染み込んでいく。

『ごめんね』

 おれを抱き返して俊臣は言った。

『もう、なんにも言わないで行かないで…っ』

『うん』

『約束だからっ、俊臣は、おれから離れちゃ駄目』

『うん』

 誰かが急にいなくなるのは怖い。

 ある日突然消えてしまう。

 死んでしまった母親のように。

『どこにも行かない…、ごめんね、りつ』

『…うん』

 うん、絶対約束だから。

 そう駄々をこねるように言うと、俊臣は小さな手でおれの頭を撫でてくれた。

『もう、大丈夫だから』



「…なあ、どこ行ってたの? あのとき教えてくれなかった…」

 あの頃とは比べ物にならないくらい大きくなった手で、俊臣はおれの髪を撫でた。

「忘れた」

「…ぜってえ、そんなの嘘じゃん…」

 くすりと笑う気配がした。

「立夏を守りたかった、それだけだよ」

「おれ?」

「そうだよ」

 でも、と俊臣は自嘲気味にかすかに笑った。

「立夏はおれが思うよりずっと強かったんだって、今日知ったよ」

「なに、それ…」

「俺が守るって決めてたんだ」

「え?」

「立夏が俺に離れるな、って言ったのは覚えてる?」

「うん…ま、まあ」

 子供のときの恥ずかしい台詞に赤くなると、俊臣はまた俺の髪を撫でた。

「俺はずっと立夏が好きだった」

「──」

「子供のときから──今も、立夏だけが俺は好きだよ」

「と…」

 目を見開くと、髪を撫でていた手が、おれの頬に下りてきた。

「子供のときは立夏もそうだと思ってた。でも立夏はだんだん…俺を見なくなった。だから片思いなんだと思ってた」

 俊臣の目が仕方がないように笑う。

「立夏が誰を好きでも、俺は離れたくなかった。いつか俺を嫌いになっても、傍にいたくて…立夏を守りたくて」

「俊臣…」

「俺が好き?」

 おれは息を呑んだ。こくりと頷くと、まるで子供のように俊臣が首を傾げた。

「ほんと?」

「本当だよ」

 おれだって、ずっと、ずっと。

「…好きだよ」

 好きだよ。

 こんなに好きだ。

 昨日も言ったのに物足りない。

 もっと早くに言えばよかった。

 言葉にしなければ何も伝わらないのに。

 ただ見ているばかりで──

 諦めていた。

『いつかなんて私には絶対にない』

 ああ言った美織の気持ちが、おれにはよく分かる。

 はじめから諦めていたから、それはないと思っていたのだ。

 こんな日が来るなんて。

「好きだった、おれも…、ずっと」

 おれの上唇をかぷりと俊臣が噛んだ。驚いて肩を竦めると、強引に顎を上向かされ、暖かい舌を捻じ込まれた。

「ンっ…」

 逃げそびれた舌を擽られ、歯を立てて吸い上げられる。あまりの気持ちよさにかくん、と膝が折れた。

「や、あ…っ」

 崩れそうになった体を掬い上げられ、傍のベッドに下ろされた。

「ちょっ、…まだ…っおわって、な」

「待てない。立夏」

 まだ話は途中なのに。

 待てない、と囁かれただけで、腰の奥が疼いた。

「…と、しおみ…」

 荒く息が漏れる。おれを見下ろしていた俊臣が息を詰めた。視界が潤んで俊臣の顔がぼやけていた。よく見たい。

 よく見たいのに。

「き…、」

 来て欲しい。

 もっとこっちに──

 零れた言葉ごと飲み込むように俊臣が覆い被さってきた。


***


「あ…っ、あ、あ、」

 甘く震える声が絶え間なく上がる。

 もがく腕を捉えて指を絡ませシーツに押し付ける。涙に濡れた頬を舐めると、立夏が身じろいで顔を動かした。そのまま俊臣が動かずにいると、立夏は顎を上げて、唇を求めてきた。

 俊臣はそっと立夏の唇の端に囁いた。

「キスしたいの?」

「ん…、うん、…っ」

「立夏」

 乾いた自分の唇を無意識に立夏は舐めた。その赤い舌に、俊臣はかぶりつき、甘く歯を立てて自分の口の中へと引き摺り込んだ。

「ん、っ…」

「好きだ」

 口の中を貪りながら肌を辿る。もう立夏は全裸だった。俊臣が全部脱がせてしまった。

「立夏」

「あ…、は、あ」

「立夏…」

 涙の膜で覆われた目が、俊臣を見上げている。

「とし、おみ、っ…としおみいぃ…っ!」

「…なに?」

 耳元で囁けば、立夏は唇を噛み締めて首を振った。

「あっ、あ…んん、っ」

「どうしたの?…」

「き…」

 どこか傷つけたかと、離れようとした俊臣に立夏は言った。

「もっと、こっち…きて…」

「──」

「行っちゃ、やだ、俊臣、やだあ…っ」

「り…」

 立夏の目から涙が零れ落ちた。

「おれから、離れちゃだめ…」

「──」

 どこかが灼き切れた音がした。

 脳が溶けていくようだ。

 沸騰する。

 俊臣を見上げていた立夏が真っ赤な顔をして、泣いていた。

「いっちゃだめ…え」

 かわいいな、と俊臣は思った。

 かわいい。

 かわいい立夏。

 俺の──俺だけの。

「…好きだ」

 好きだ。

「立夏、好きだ、好きだ」

 こんなに、こんなにも。

 昨夜あんなに言ったのに。全然足りない。

 もっと欲しい。

 もう離れたくない。

 俊臣は思い出していた。立夏を怖がらせたあの高校生は、家にまで来ていた。立夏は眠っていたから知らない。だから俊臣は今度は帰って行く彼女の後をつけて、家の前で彼女に言ったのだ。

『さっきの、携帯で録音してるから』

 ポケットから携帯を取り出して見せた。

『写真も撮ってる』

『え…?』

『今度立夏につきまとったら許さないよ』

 青褪める彼女を残して、俊臣は背を向けた。背中で玄関の開く音がして、彼女の母親らしい人の声で、誰?と聞いているのが聞こえた。

『どこの子?』

「……」

 いつか立夏がこんな俺を嫌になっても。

 そんなときが来ても、きっともう離せない。

 行かないで、と泣き喚いても離したくない。

 いつかなんて、青く深い海の底に沈んでいればいい。遠く遠く、それはまだ遠く、見えないほどの遠くへ。

「……」

 汗にまみれた肌を細い指が撫でる。

 俊臣の背に手を這わせた立夏が、そっと俊臣の頭を抱え込むようにした。

 耳元に掛かる息。

 かすかに微笑む気配に息が詰まった。

「…俊臣、おれも…」

 好きだ、と囁かれた瞬間、俊臣は立夏の中で絶頂に達していた。



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