20


 立夏が忘れた携帯を、俊臣は思わず持って来てしまった。

 持って──どうするんだ。

 軽くため息をつくと、隣に座った本庄が軽く声を立てて笑った。

「そんな気になるならさあ、大学まで届けに行けばよくない?」

「…それは無理だろ」

 少し思案してから俊臣は眉を顰めた。そんなことしてどうする。あまりにも幼稚な気がするし、いい加減立夏に呆れられそうだ。

 ふーん、と本庄が意味ありげににやにやと笑った。

「りっちゃんにはそーゆーところ見せられないんだ? へえー」

「何だよ」

「塩谷もまだ高校生だなあって話」

「高校生だろ」

「そうだけど。いつもあんまりそういうふうに見えないから」

 ならどういうふうに見えるというのか、訊かなくても俊臣には分かる気がした。

「……」

 何度目かのため息をついて自分の携帯で時刻を確認した。十五時過ぎ、もうすぐ十六時になる。今日、俊臣の高校は短縮授業だった。自分から学校をサボってふらついていた本庄から連絡を貰い、最近馴染みとなったファストフード店で落ち合ったのは今から二時間ほど前のことで、話しているうちに時間はあっという間に過ぎていた。

 仮に立夏の大学に届けに行ったとしてもここから四十分以上、すれ違うのが目に見えている。

「家で待つよ」

「まあそれが妥当でしょ。──あ、でもバイトじゃない?」

「…いや、分からない」

 それを聞いておけばよかったと今朝からずっと後悔しているのだ。立夏のバイトのシフトは基本的に固定のようだが、先週あたりからそれが変わったと立夏は言っていた。

 朝、立夏が出て行く気配に気がついていれば…

「おまえ何、その顔」

 ぷっ、と本庄が噴き出した。小さく声を立てて笑い、飲みかけのドリンクに口をつける。透明なストローの中を黒い液体が上がって落ちた。

「顔?」

 俊臣が顔を向けると、本庄は笑いを堪えるかのように目元を歪めている。

「心配で心配でたまりませーんって顔! りっちゃんはさあ、子供じゃないし、なんならおまえより年上だよ?」

「分かってるよ」

「ああ見えて結構口悪いし負けず嫌いだし、ちょっと鈍感だけどさ、何より男なんだよ」

「……」

「守りたい気持ちも分からなくはないけど」

「けど?」

「あんまりやり過ぎると自己満足の世界じゃない?」

 俊臣は手の中に視線を落とした。小さく震えた立夏の携帯の画面に、着信の通知がぱっと浮かんで消える。暗くなった画面に映る自分の表情は、本庄が指摘したように不安で仕方がないというものだった。俊臣は軽く目を瞑って顔を上げた。目の前にある大きなガラス窓の向こうには、大通りを挟んで駅前の通りが広がっている。他校の下校時間も過ぎたのか、人の流れの中にちらほらと制服姿の人たちが混じるようになっていた。見知らぬ誰かが前を行く人を追いかける光景に、ふと思い出が重なる。

 学校の校門で、帰り道で、朝陽の中で、立夏はいつも俊臣を待っていてくれた。

「早く大人になりたいよ」

 椅子を鳴らして立ち上がると、本庄がちらりと俊臣を見た。

「帰る?」

「ああ」

 窓付けのカウンターの上に広げていた参考書やノートを鞄に仕舞い、俊臣は自分の分のトレイを持ち上げた。

「またな」

「ん」

 本庄を残して店を出る。アパートに帰るため、俊臣は駅前のバス停に向かって歩き出した。

 交差点を過ぎ、地下鉄へ降りる階段前を通りかかったとき。

「あ──俊くん」

 聞き覚えのある声に呼び止められ、俊臣は振り向いた。階段の傍に、若い女が立っていた。

「今日早いんだね、学校──」

 にこりと笑ってこちらに手を振っているのは、三沢遠亜だった。

 こんなところで。

「今日は早く終わったから」

「そっか。私は、あの、今から待ち合わせなんだけど」

 一瞬気まずいような空気が流れる。彼女の着ているものから、俊臣はそれを素早く察して、自分から言った。

「やっぱり年下は駄目だった?」

「うん、そうだね。ごめんね。って、ちょっと違うか」

「それ似合ってるよ」

 待ち合わせの相手はきっと男だ。

 その気もないのに、話を聞き出すためだけに誘いをかけたのは自分のほうだった。彼女はとっくに気づいていたが、かすかな罪悪感を憶えながら俊臣は遠亜の断りに頷いた。

「きっと年上の方がいいよ」

 へへ、と恥ずかしそうに遠亜が笑った。その笑顔を見て、ちょうどよかったと俊臣は聞いた。

「ああ、そうだ、橋本咲って友達?」

 遠亜は一瞬きょとんとした顔をしてから、こくりと頷いた。

「そうだけど、…あれ、俊臣くん知ってるの?」

「りつのバイト先にいるって聞いたけど」

 遠亜の質問には答えずに俊臣が言うと、遠亜は不思議そうに首を傾げた。

「え、うそお。そんなはずないよ、咲ちゃんがいるのメイド喫茶だもん。あのファミレスじゃなくって」

「え──」

 実は、と遠亜は声を潜め、少し恥ずかしそうに俊臣を見た。

「実は私も一緒のバイト先なんだ。立夏くんには大学の友達って言っちゃったけど、ほんとは同じバイト仲間だったんだよね。咲ちゃんは大学行ってないの」

 今日は私とシフト変わってもらったし、と遠亜は鞄から財布を取り出し、札入れから名刺のようなカードを一枚取り出した。

「ここだよ。ほら、これ咲ちゃん。こないだ写真一緒に撮ったの」

 カードを俊臣に手渡し、携帯を素早く操作して写真を見せてくれた。カードには店の名前が記されており、映し出された写真には──

「可愛いでしょ、これお店の制服。カチューシャふわふわなんだあ」

 遠亜が綺麗に塗ったネイルの指先で自分の横に座る女の子を指した。黒と白のメイド服、猫の耳をつけた女の子が、上目にこちらを見て笑っていた。

「…野口」

 野口美織だ。

 長い髪を短くした…

 思わず口に出してから、はっと俊臣は息を呑んだ。

 違う。

 ──違う。

 似ているけれど。とてもよく似ている。けれど──

 これは別人だ。

 こんな笑い方はしなかった。

「ええ? 野口じゃないよ?」

「ああ、いや…」

「咲ちゃんの前の苗字は八十嶋だよ」

「──」

 俊臣は息を呑んだ。

 やそじま。

 八十嶋、咲──

「親が離婚したって聞いたけど?」

 黙り込んでしまった俊臣に遠亜が続けた。

 八十嶋咲、野口美織の従姉。

 俊臣は彼女を探していた。

 正確に言えば、野口美織の居場所を探して、それを知っているかもしれない従姉の八十嶋咲を探していた。

 彼女は中学二年の時、二葉のクラスメイトであり、中三では立夏と同じクラスになっている。そして高校はそのまま進まず、別の高校を受験した転向組だ。

 立夏はきっと覚えていないだろう。

 やっぱり、と俊臣は思った。美織が従姉だと言って見せてくれた写真は、遠亜が咲だという人とはまるで違う顔だった。

 従姉がストーカーだという彼女の話は本当のように思えた。神崎先輩を守りたいから協力しようと言われ、信じるふりをして傍にいた。そのうちに美織の話も半分本当かもしれないと俊臣は思うようになった。ふたりは以前互いに協力関係にあったのだと思った。話を聞き、一緒にいて、美織の意識をそれとなく自分に目を向けさせていくつもりだった。今までそうしてきたように、今度もそれで立夏を守れると思っていたのだ。

 でも、彼女は違っていた。

 野口美織は去年の九月の始めに転校した。

 前触れなどは何もなく、突然、朝学校に行ったらいなくなっていた。

 立夏の元に行ったのだと思った。

 ずっと、俊臣が思うよりもずっと前から、美織は立夏を見ていた気がする。遠くから。付かず離れず、空気のように、存在を消して。

 なのに、今は──立夏のすぐ近くにいる。手を伸ばせば届くところに。

 ぞく、と背筋が震えた。

 昨夜見た橋本咲が、俊臣が感じたように野口美織本人なら、彼女は従姉になりすましているのだ。

 そこまでして…

「教えてくれてありがとう」

「え? ううん」

 驚いたように遠亜が言った。

 美織が姿を消したあと、渡された写真に疑問を持った。もっと早く疑うべきだったのにと後悔した。確認しようにもどうにもできず、難しかった。卒業という概念のあまりないあの学校では、そのまま高校へ上がる生徒にはクラスごとに簡単なアルバムが渡されるだけで、いわゆる卒業アルバムというものは他校に移る者には渡されるが、在籍者には高校卒業のときだけしかそれがない。希望者には有料で配布されることにはなっているが、立夏は希望しなかったため持っていなかった。元生徒会役員という立場を利用しようとしたが、個人情報の扱いは厳しくなっていて、それははなから無理なことだった。

 まるで知らない人を名前と年齢だけで探し出すのは困難だ。でも必ずいつも立夏の周りにいる人に美織──あるいは咲が近づいていくのを俊臣は気づいていた。高校一年の春、美織が俊臣の目の前で落としたあのペンは、おそらく中三のとき咲が立夏から盗り、美織に渡したのだろう。

 だから、一番近かった遠亜に俊臣は近づいた。本庄に協力してもらい、彼女の友人を誘い出しもしたが、結局は無駄に終わった。それを繰り返すうち、途中からは、遠亜に何か目的があるだろうと言われだ。

『俊くん、なんなの? なんか言いたいことあるでしょ?』

 だって俊くん、私に何にもしないんだもん。

 遠亜が笑った。

「私、ちょっとは俊くんの力になれた?」

 俊臣はふっと微笑んだ。

「なったよ。すごく。助かった」

「そっかあ、ならよかった」

 ほっと安心したように肩を落とした遠亜に、もっと早くに打ち明けるべきだったかもしれないとふと思う。こんな形でなければ、良い友人にでもなれたかもしれない。

「じゃあ、また」

 俊臣がそう言うと、またね、と遠亜は言った。

 また、があるだろうかと思いつつ、俊臣は背を向けてバス停に急いだ。とりあえず家に帰り立夏を待つか──

 選択肢は二つだ。



「あれー遠亜ちゃん、今の誰?」

 俊臣が走って行ったほうを見ていた遠亜の後ろからそんな声がした。

「あ。成瀬くん」

 振り向けば、成瀬がすぐ後ろに立っていた。

 彼は他の大学に通う同い年だ。元々遠亜のバイト先の常連として知り合った。同じ大学生だと知ったのは話の流れからで、それからはよく外で会ったりもする。面倒見がいいので合コンをよく主催しては遠亜にも声を掛けてきてくれる。友人も連れて来て、と言われるのは少し困るが、店の無料券を配ればどうにかなるので、いつもそれで乗り切っていた。友達がいないのは気にしていないが、こういうときはいてもいいかなと思うのは身勝手なものだ。

 今日も成瀬が仕切る合コンに誘われたのだ。友人役の子たちとは現地で会うことになっている。

「立夏くんの義弟だよー、会ったことなかった?」

「え、そうなの? 会ったことなかったわあ」

 バスターミナルの方へ向かう背中がもう見えなくなる。

「つーか遠亜ちゃん、立夏のおとーとと仲良いんだ?」

「うん、ちょっとね」

 ふふっ、と遠亜は笑った。

「なに?」

 成瀬が不思議そうにする。

「ううん、俊くんとはねえ、共犯者みたいなもんなんだあ」

「なにそれ」

「秘密」

 結構好きだったんだけど、好きな人がいる人には興味がない。しかも相手が男なら尚更だ。年下もやっぱり駄目だった。立夏のことは本気で好きになりかけたけど、何かが違っていた。

 でも興味はあるからまた連絡してみよう、と遠亜は思った。話が聞きたい。

 えっちとか、どうすんのかなあ。

 立夏くんと──

 ていうか立夏くん、初めてじゃない? 絶対、経験とかないよね、あの感じ。

 うわ──なんか、どきどきする!

「じゃあちょっと時間潰してからいこっか」

「えっ、あっ、うん!」

 勝手にひとりで想像して赤くなってしまった頬を押さえて、遠亜は元気に頷いた。


***


 夕食時が終わり、厨房の忙しさがピークを過ぎた。頃合いを見計らってそれぞれが十五分の休憩に入る。シェフが先に行き、高岩さんとおれで来るオーダーを捌いていく。もう大体デザートや軽食ばかりなので、ふたりで充分出来ることだった。

「橋本さん、これ食洗に入れてね」

「はい」

 咲はおれたちの間を行ったり来たりして、洗い物を引き受けてくれていた。正直吉沢よりもよく動く。色んなところを片付けてくれて、やっぱりそういうところは女の子にはかなわないな、と思った。

「神崎くん、ここに生クリーム出しときます」

「ありがとう。あ、これ」

「使いますよね、置いときますね」

「うん」

 ぱたぱたと忙しなく動く姿を見ていいると、俊臣が言っていたことが間違っているような気がしてくる。さっき感じたあの視線も、おれの気のせいかもしれない。野口美織か。橋本咲とどういう関係なのか──おれはいつも野口美織の顔を見るのが嫌で、まともに目を合わせたこともなかった。正直どんな顔をしていたかなんて覚えていない。

 俊臣の隣にいるってだけで、すごく──

「お先に。高岩君どうぞ」

 シェフが休憩から戻ってきた。ピザを焼いていた高岩さんと交代し、高岩さんが厨房から出て行く。

「橋本さんこれカウンターに」

「はい」

 シェフの指示に従って咲がカウンターに行った。

 チーフが顔を出し、二言三言言葉を交わす。

「神崎くん、大丈夫そう?」

 チーフがおれを見て言ったので、おれは頷いた。

「吉沢よりいいですよ」

「はは、かもね」

 シェフとチーフが声を立てて笑った。吉沢は仕事は出来るけど手を抜きがちなのでよく怒られている。

 カウンターから戻ってきた咲と目が合った。

「神崎くん、──」

「おおい、神崎君、ちょっと皿に盛ってくれ」

「あ、はい!」

 何かを言いかけた彼女を置いて、おれはシェフの傍に行った。三人分のパスタの盛り付けを手伝い、咲にサラダを用意するように声を掛けた。

 それをトレイに載せカウンターに渡した頃、高岩さんが戻ってきた。

「お先にー、神崎くん行っておいで」

「はい」

 おれの番だ。ふう、とため息をついて腰巻のエプロンを外したとき、小さな声が上がった。

「どうした?」

 調理台の前に立つ咲の手元を、高岩さんが覗き込んだ。あ、とおれを見て手招きする。

「神崎くん、手当てしてあげて」

「え?」

 傍に行くと、咲の右手の人差し指に血が滲んでいた。調理台の上には使用済みのフルーツ用のカットナイフがあった。片付けようとして切ったと、咲は言った。

「すみません、私」

「いいのいいの、よくあることだし。奥行って絆創膏貼ってもらって」

 ペーパーナプキンを咲に渡しながら高岩さんが笑った。

「なんならそのままふたりで休憩取ってきていいよ。こっちはもう暇だから」

「えっ」

「神崎くん頼むね」

 シェフと高岩さんに言われておれは咲を見た。たしかにオーダーはもう残り少なかった。

「じゃあ、行ってきます。行こう、橋本さん」

 おれは咲を連れて厨房を出た。奥の休憩室に行き、小さな戸棚を開けた。

「なんか、気を遣わせたみたい」

 咲の声に、おれは笑った。

「ふたりとも女の子が厨房にいるのに慣れてないんだよ。ここ、厨房のバイトは男って限定されてるから」

 ごちゃごちゃとした戸棚の奥に救急箱を見つけ、それを取り出した。開けてみると絆創膏がぎっしりと詰まっている。

「そこ座って」

「うん」

 古い応接セットの真ん中のテーブルに救急箱を置いて咲に言うと、彼女はおれの横に座った。

「手出して。あ、結構深い?」

「そうでもないよ」

 うっすらと血に染まったペーパーナプキンを外すと、人差し指の横を真っすぐに切っていた。止血はまだのようで、外した途端、ぷくりと小さな血が盛り上がってくる。おれは外したペーパーナプキンでまたそこを押さえた。

「もうちょっとぎゅってしないと止まんなさそう。止まってから貼ったほうがいいし──何か飲む?」

 休憩室には飲み物が色々置かれていた。奥には喫煙所もある。といってもそこはただの小さなベランダだけど。

「ええと、じゃあ…ココア」

「ココアね」

 スティックタイプのココアがあった。それをカップに開け、おれは何にしようかと選ぶ。

「神崎くん、ココア好きだもんね」

「…え?」

 振り向くと、にこりと咲が笑っていた。

 おれの手元を見て、あ、と言った。

「でもそれじゃないよね? いつも飲んでるの、これだもんね?」

 厨房服のポケットに手を入れて、何かを取り出した。その時何かが一緒にポケットから落ちて、かたん、と床に転がった。

 彼女が差し出した手のひらを見て、すうっと血の気が引いた。

 それは毎朝おれが飲んでいるココアの銘柄と同じものだった。

 もうずっと長い間、朝だけはそれを飲んでいる。

 おれは床に落ちたものに目をゆっくりと動かした。

「ね、そうだよね? はいつもこれ飲んでるもんね」

 視線の先に転がったものには見覚えがあった。

 おれが失くしたもの。

 失くしたと思っていたもの。

 そう思っていたかったもの。

 二葉と買ったあのペンが、そこにある。

「あ──、分かっちゃった?」

 咲は屈んでそれを拾い上げた。

「これ、のだよ」

 そしておれを見た。

 やっぱり、間違いなんかじゃなかった。

 覚えてる、この感じ。

「…きみ、誰?」

 と嬉しそうに笑う彼女に、おれは言った。




 

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