19


 自分の上げた甘い声が耳の奥で反響する。

 あ、あ、と切れ切れに上がる掠れた嬌声は間違いなく自分のものだ。

 皺くちゃのシーツに俯せた姿勢で肩越しに振り返れば、耳元に唇を寄せた俊臣が低く囁いた。

『…立夏』

 立夏、少し息を詰めた声にぞくりと体が震えた。

『…っ、とし、ぉ、もうやだあ…っ』



「あーっ」

 おれは頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

 なにしてんの、なにしてんのおれ!?

 はっ、恥ずかしいいい…っ

 死ねる。

 恥ずかしすぎて死ねる。

 なんであんな、おれ──あんな声どっから出たんだよおおお

 死にたい。

 死にたいいいい…!

 しかも、なんであいつあんななの?

 なんであんななんだよ。

 高校生じゃん、まだ17だろ。おれよりふたつも下なのに。

「なんであんな上手いんだよお…っ」

 しかも、しかもおれ──

「なにやってんのおまえ」

「わあっ」

 ぽん、と背中を叩かれて、おれは飛び上がり、その拍子に冷たい地面にぺたりと尻餅をついた。見上げれば、不思議そうな顔をした成瀬がそこにいた。

「な…、成瀬」

「? おはよ。何してんだこんなとこで」

「いや…」

 何でもない、と首を振りおれは立ち上がった。ズボンに付いた汚れを誤魔化すように手で払う。

「ちょっと…、早く来過ぎたから、時間潰してたんだよ」

「ふーん、ま、学食もまだか」

 それにしても、と成瀬は続けた。

「こんな寒いとこにいないで中入りゃいいじゃん、教室もう開いてるぞ」

「そりゃそうなんだけどさ…」

 昨日からずっと沸騰しているような頭を冷やしたくて、一時間以上も大学のキャンパスを歩き回っていたとはとても言えない。

 顔を手のひらで擦るとひどく冷たかった。右手に持っていたテイクアウトの紙カップの中身は半分以上残っていて、もうすっかり冷め切っている。でも体の内側は火を飲み込んだみたいに火照ったままだ。

 これ、どうしたら冷めるんだろう。

 呆れたように成瀬が肩をすくめた。

「つーかさ、おまえ風邪引くぞ。鼻の頭真っ赤じゃん。教室行こうぜ?」

「…うん」

 言われて時計を見れば、そろそろ授業が始める時間になっていた。



 今朝俊臣よりも先に目を覚ました。

 目覚めた瞬間、先でよかったと心底思った。

 俊臣の顔を見るのが恥ずかしすぎて、起こさないように支度をして、あいつが寝ているうちにアパートを出た。

 昨夜の今日でどんな顔をしていいか分からない。

 俊臣とああいうことをして、何度も何度もキスして、気持ちよくなって…でも。

 おれは何度も達したのに、俊臣は──たった一回で。

 しかも最後まで出来なかった。

『…あ、俊臣っ、──いっ、怖い…』

 おれがあまりにも痛がって怖がったから、俊臣は俺の中に入れなかった。

『じゃあ…今日はもういいから』

 怯えるおれに俊臣は苦笑交じりにそう言うと、きつくおれを抱き締めてきた。

 そうして朝まで一緒に眠っていた。

「どした?」

 思わず息を詰めると、隣に座っていた成瀬が怪訝そうに顔を向けた。

「…いや、何でもない」

 教授の声が響く教室の中で、おれはなにを思い出してるんだ。

 もう情けない。

 おれは全然、全然されるがままだったのに、狼狽えてばかりだったのに、あいつはずっと余裕に見えた。

 なんであんな…手慣れてるの。

 昨夜の話は、野口美織の名前が出て来たところまでで、結局その先は何も聞けていない。彼女がなんだったのか、遠亜とはどうなっているのか、朝話すからと言われていたけど、とてもまともに顔を合わせられなかった。

 今日はちゃんと話を聞かないと。

 二葉から聞いた話も俊臣に言ったほうがいいんだろうな…

 そういえば、と思い出す。

 なんで俊臣はバイト辞めろって言ったんだ?

「……」

 あれ?

「じゃあ、えー、──ここまでで質問は? なければ、あー、次に行きますが」

 教授の問いかけに教室内に満ちていた緊張がざわめきと共に解けていく。あちこちからぱらぱらと手が上がり、指を差された見知った顔の学生が質問を始めた。

「今の、例題なんですが──」

 窓から差し込む陽の明るさに現実が戻ってくる。

 朝からおれは何してるんだ。

 軽く背を伸ばして気持ちを切り替える。

 講義が始まってからここまで、全然聞いていなかったおれは彼の質問がどこのことを言っているのかと、慌てて教科書の文字を追った。


***


 朝起きると立夏はもう出掛けた後だった。いつもより一時間以上も早い。俊臣が家を出るのは七時過ぎだから、かなり早く目が覚めたのだろう。

 ベッドの片側はもう冷たかった。

 少しやり過ぎたか。

 歯止めの効かなかった昨夜の自分を反省しつつ、俊臣は顔を洗い身支度を整えると朝食のパンを齧った。立夏にはパン以外にも何か食べろと言われているが、生憎と面倒くささが先立って何かを作ろうという気は起きない。やろうと思えば出来そうだが、いつも立夏がやってくれるので出来なくても構わなかった。さすがに今朝は何も用意されてはいなかったが。

 テレビのニュースを流し見ながら適当な朝食を終えると、使った皿を流しで洗った。時間が余ったのでテレビを眺めながら残っていたコーヒーを飲んだ。

「……」

 立夏は今日バイトだろうか。出来れば行って欲しくはなかったが、結局昨夜は全部話すことが出来なくて、その理由を説明しようにもメッセージでは足りない。電話で話してもいいが、昼間はお互いそんな時間はないだろう。掛けてもすれ違うだけだ。

 多分、まだ大丈夫だ。立夏が気づいていないなら、そのほうがいいかもしれない。知らない方が、むしろそこまで話せなくてよかったのかもしれないと俊臣は思った。

 今まで彼女は立夏自身には何もしなかった。

 でも。

 雨の中で見たあの光景。立夏と一緒にいた女。立夏から聞き出した橋本咲と言う名前、苗字は違うが野口美織の従姉と名が同じだ。

 それにあれは美織本人だったような気がする。

 何がどうなっているのか。

「……」

 俊臣は携帯を取り出すと、手早く立夏にメッセージを送った。

 部屋のどこかから聞き覚えのある音がした。

「──」


***


「あ」

 鞄の中を漁っていて気がついた。

「どした?」

 先を歩いていた成瀬が振り返る。昼になり、昼食を取ろうと学食に向かう途中だった。

「いや──携帯忘れてきた」

「はあ?」

 あんまり朝慌てて出て来たから、部屋のどこかに置き忘れてきたのだ。鞄に入れたと思ったのに。

「何か連絡すんの?」

「そういうわけじゃねえんだけど」

 貸そうか、と自分の携帯を差し出した成瀬に、首を振った。なんとなく俊臣から連絡が来ているような、そんな気がしただけだ。

「なに、おとーと?」

「えっ?」

 吃驚して変な声が出たおれを、成瀬は可笑しそうに笑った。

「ちょっと言ってみただけだろ」

「何だよちょっとって」

 驚いた。何か勘付かれたのかと思った。

 そういえばこいつ、結構鋭かったりするんだよな…

 そういや、と成瀬は歩きながら言った。

「引っ越しの日決まったんだっけ?」

「え、あ、うん」

 おれは頷いた。

「今度の土曜」

「土曜? 早くね?」

 こないだ引っ越し先決まったばっかじゃん、と成瀬が目を丸くした。

「契約の都合らしいよ。詳しいことは全部英里さんがしたからさ、おれはよくわかんねえけど」

 ふーん、と相槌を打った成瀬に、そういえば英里さんが誰なのかを言っていなかったと思い出し、一応説明した。

「なるほどね。で、手伝いいる?」

「いや、荷物っておれの分くらいだし、昨日纏めたら段ボール三つ分しかなかった」

 はは、と成瀬が笑った。

「俊臣もいるし、すぐ終わるよ」

「そっか。ならいいな」

「うん、ありがと」

 学食の外まで続いている長い列の最後尾につき、足を止めた。

「そういや今日バイト? おまえ」

「うん」

 実は今日は休みだったけれど、欠員が出たから出てくれないかと昨日バイト中にチーフにお願いされていた。断る理由もないから受けてしまったけど、俊臣に言うのを忘れていた気がする。

「なんで?」

「いや、近くまで行く用あんだよ、今日。時間あったら寄ろうかなって」

「用事って?」

 ふあ、と成瀬が大きな欠伸をした。

「ごーこん、やれやれってうるさくいってくるヤツがいんのよ。それで今日オレ主催でやるわけ」

「大変だな」

 欠伸で出た涙を目尻に滲ませて、成瀬はにやりと笑った。

「おまえも来る?」

「行くか。バイトなの」

「そりゃ知ってる」

 成瀬の言い方におれは肩を竦めて笑った。

 明日は祝日だった。おれも俊臣もどこにも行かなくていい。バイトも今日と入れ替えてもらったから、一日家にいられる。

 バイト先も知ってるし、大丈夫だろう。

 一日携帯がなくてもどうにかなる。

「つーかもう、祝日に挟まれた月曜なんて最悪だよ」

「合コン日和じゃん」

 夜遅くなっても大丈夫な日だ。

「酒の飲めない合コンの何が楽しいのよ」

 くあ、と再び大きく成瀬が欠伸をしたとき、注文の順番がやって来た。



 午後の講義も終わり、一旦家に帰るという成瀬と大学で別れてから、おれは駅に向かった。バイトに行くにはまだ少し時間が早かったので、適当に駅前の店で時間を潰してからバイト先に向かった。

「おはようございまーす…?」

 更衣室に入ると、おれひとりだった。いつもおれより先に来ているはずの吉沢が見当たらない。

 あれ?

 今日、あいつ休みだっけ?

 壁に貼られたシフト表を確認すると、今日の日付けの箇所にきちんとチェックがついている。てことは来るはずだよな。

 厨房服に着替え終わったころ、ドアが軽くノックされた。

「神崎くん、いる?」

 チーフだ。

 おれはドアを開けた。

「おはよーございまーす」

「おはよう神崎くん」

 俺を見上げたチーフはちょっと困ったように眉を下げていた。

「? どうかしました?」

「あのねえ、今日吉沢くんも来れなくなって」

「えっ」

 制服のボタンを留めていたおれは思わず手を止めた。

「あ、やっぱり知らなかったんだ。なんか怪我したらしいのよ。神崎くんに連絡したみたいだけど、繋がらないって言ってて」

「あ──おれ、今日携帯忘れてて」

「ああ、それで」

 小さく頷いてチーフはため息をついた。

「シェフはいるけど、だから今日は厨房のスタッフは神崎くんと高岩くん、それととりあえず臨時でもうひとり呼んでおいたから」

 高岩くん、と言うのは今年本社に入った人で、ここしばらく研修としてうちの厨房に来ている人だ。夜は大抵シェフと、スタッフ三人で切り盛りしている。

「もうひとりって、谷口さんですか?」

 おれよりもふたつ上の先輩の名前を言うと、チーフはううん、と首を振った。

「谷口くんは今日はどうしても来れないから、ほんと間に合わせだけど、経験はあるって言うから入ってもらったの。ホールの橋本さんだけど」

「え?」

「ひととおりのことはトレーニングで教えてるから。何かあったら私もいるし」

「…橋本さん?」

 チーフが廊下の奥を振り向いた。おれもつられて目を向ける。廊下の向こうから、昨日とは違って白い厨房服を着た咲が、こっちに歩いて来ていた。

「ごめんね、神崎くん。今日だけ! 彼女の面倒見てあげてね」

「え──」

 手を合わせたチーフの横に咲が立ち、おれに小さく笑った。

「神崎くん、今日だけよろしく」

「あ…、うん」

 おれの肩を掴んで彼女の名前を聞いたときの、俊臣のあの表情を思い出した。

 何だろう。この、嫌な感じ。

「…よろしく」

そう言うと彼女はにこりと笑った。雨の中、傘の下で友達の遠亜のことを秘密めかせて言っていたことは微塵も表に出ていない。

「じゃあ、今日はよろしく。頑張りましょう」

 チーフが明るく言って咲の肩をぽん、と叩く。

 咲がおれを見て笑みを浮かべた。

 一瞬背筋をひやりとしたものが駆け抜けた。この視線の感じは覚えがある。

 ちゃんと聞くべきだった。

 今朝、どうしておれは俊臣より先に出て来てしまったのだろうと、このときになって後悔した。

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