6
ふたりで暮らす?
おれと俊臣と──ふたりきりで?
いや、あり得ないわ。
いやいやいや。
え?
「いや、ないないない…っ」
「おまえ何ひとりごと言ってんの」
「いやあり得ないんだよまじで!」
横に座っている成瀬を振り向くと、呆れたような目で見返された。
「ああそうなの? 知らねえけど」
講義が始まる前の教室内、人の話し声がする中でおれの声がひときわ大きかったのか、何人かがちらちらとこちらを窺っている。
おれは愛想笑いをしてそれをやり過ごした。
「…ああもうどうしよう」
「えーなに、遠亜ちゃんのこと? おまえちゃんとクリスマスの約束したらしーじゃん」
おれは突っ伏していた腕の中からちらりと顔を上げた。
「…なんで知ってんの」
「そりゃ連絡来たから。やったーっつって」
なんなんだそれ。
おれは深くため息をついた。
「それをおれに言うおまえの神経だよ…」
「はは」
ぐしゃっと前髪を上げる。目に入って少し痛い。いい加減伸びすぎか、そろそろ髪切りに行かないと…いや、違う。そうじゃなくて。
「で、なに。どうしたの」
ふあ、と大きな欠伸をして成瀬が言った。
月曜日の朝一番の講義はひたすら眠いと呟いた。最近バイトのシフトを増やしたと言っていたから、きっと昨日も遅くまで働いていたんだろう。
「……うーん」
話して分かってなどもらえない。出来る限り当たり障りのない言葉をおれは選んだ。
「年が明けたら、弟が来るって」
「おー。噂の義理の弟君ね」
「何で知ってんの!」
成瀬はにやりとおれを見て笑った。
「あーあー…、そういうことね」
「あの子ちょっと問題かもなあ」
「……はあー」
おまえが引き合わせたくせに。
でもその後は自分から彼女と関わりを持っていったのだから、成瀬のせいじゃない。
「遊びにくんの? いいじゃん、どっか連れてってやれば」
「違う。そうじゃなくてさ…」
そこで言葉を切り、おれはまたため息をついた。
「一緒に住むって、そういう話」
「は──」
「はいおはよう!」
成瀬が何か言いかけたとき、挨拶の声も高らかに、助教授が教室に入って来た。
『おまえっ、ふざけんなよ!』
昨夜遅く、おれは俊臣に電話した。
家に着いたころを逆算しての時間はおれを全く落ち着かせてはくれなかった。
繋がるなり大声で叫ぶと、電話の向こうで俊臣の息をする音が聞こえる。
聞いたの、と俊臣は言った。
その言い草に、かあ、と腹の底が熱くなった。
『聞いたのじゃねえよっ、なんで、なんで、編入ってなんだよ!?』
『…編入じゃなくて、転入だよ。まだ今年いっぱいは今のところに在籍してる』
『そ、それはどーでもいいんだよっ』
くそ、英里さんの言い間違いか。おれはてっきり今の高校ももう辞めたのかと思ってしまった。でもよく考えてみれば制服を着てたのだ。それはないと気づくべきだった。
『なんで転入すんのかって話!』
『端的に言えば、合わないから』
『合わない…?』
『教師と。それに希望する大学に行くなら、今度入る高校のほうが入りやすいんだ』
『そ…』
そうか、とはじめの勢いを失ったおれは小さく呟いた。
確かに合わない教師と毎日顔を合わせるのは嫌なものだ。
おれにも経験があるからよく分かる。
『相談しようと思ったけど、立夏は忙しそうだったから』
う、と言葉に詰まった。
それ絶対嫌味だよな。
『それで…、その、一緒に住むって話だけど…』
『それは頼博さんと母さんと、皆が一緒のときに話そうと思ってた』
頼博というのはおれの父親の名前だ。俊臣はおれが英里さんにそうなように、おれの父親のことをお義父さんとは言わない。
『え、そうなの…?』
『母さんが何言ったか知らないけど』
『今日その話したと思ってたって』
そう、と俊臣は言った。ほんの少し声が遠くなり、また近くなる。
『この家から通うには無理があるし、俺まで部屋を借りると負担が大きいから、りつと一緒ならと思った』
おれは息を呑んだ。
俊臣の声に耳を澄ませる。
『…嫌だった?』
ずきりと心臓が痛む。
ここで嫌だと言っておかないと駄目だ。
今はっきり言わないと。
言わないと。
おまえと一緒になんか住めない。
ふたりきりでなんて。
駄目だ。
『嫌なの? 立夏』
『…い』
嫌だ。
嫌だよ。
嫌だって言えよ。
言うんだ。
なのにおれの口から出た言葉は、おれの意思とは全く別のものだった。
『かん、考えさせて…』
『いつまで?』
いつまで?
『ね…年末、まで』
なにやってんのおれ。
わかった、と俊臣が言った。
***
本当に、おれは何をしてるんだ。
あんな事を言ってしまったなら、結局年末には帰らなければならなくなる。
俊臣にひと言言えばよかっただけなのに。
自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れる。
「はあ…」
「ちょーっと」
「わ」
とん、と背中を小突かれ、おれはぎょっとした。
「もう神崎くん、さっきから呼んでるんだけど!」
「あっ、はいっ」
バイト先のファミレスの厨房の中、巨大な食洗機に皿を入れていたおれは慌てて振り向いた。
夕方から深夜にかけてのバイトを纏めるチーフが真後ろに立っていた。
「ぼうっとして! お皿割るよ?」
「あ、はいっ…、すみません」
しっかりしてよ、と三十代の女性チーフは肩を竦めた。本部の社員でかなり厳しい人だけど小柄で愛嬌のある笑い方をする憎めない人だ。怒ってないときは優しい。そういう時をあまり見たことはないけど。
「神崎くんにお客さんだよ」
「え?」
「あそこに座ってる」
ほら、と厨房から店内が見える窓の向こうを指差された。その先の見えるか見えないかくらいのソファ席にちらりと見える人影。
肩から上の後ろ姿に見覚えがある。
あ…
「これオーダーね」
はい、と手渡されたのは、ハンディと呼ばれる注文を取る機械からプリントされた紙だ。
「今暇だし、これ作って挨拶して来れば」
「え、いいんですか」
「女の子に恨み買うのやだからね」
そう言って、チーフは右肩だけを器用に竦めて店内へと戻って行った。
オーダーされたメニューはパフェだった。
周りにいたバイト仲間に冷やかされながら作ったそれを持っておれはその席に行った。
「立夏くん」
やっぱり。
いたのは案の定、三沢遠亜だった。
「いらっしゃーい」
バイト先にまで来るのかと驚いた気持ちを隠して笑う。
遠亜は嬉しそうにおれを見て目を細めた。
「いいねー、コック服似合ってる!」
「はは、ありがと」
ファミレスのコック服なんて大した事ないと思うけどな。
おれはテーブルにパフェのグラスを置いた──ふたつ。
「こんばんは」
彼女の向かいにはもうひとり女の子が座っていた。
「こんばんはー」
「今日ね、大学の集まりがあって。この子は
「へえ、そうなんだ? どうも、神崎です」
咲と呼ばれた女の子はじっとおれを見た後ににこりと笑い、頭を下げた。
「咲です」
よろしく、と上げたその顔を見て、あれ、とおれは思った。
誰かに似てる。
誰だ…?
「かっこいいですね」
「え、いや…、普通じゃない?」
ふふ、と咲は笑った。
「神崎さん、遠亜ちゃんの彼氏?」
「えっ」
ふたりの目がおれに注がれた。
「あ…ー、と」
おれは彼女に好きだと言ってない。ただなんとなく、彼女は彼女の、おれにはおれの事情があって一緒にいるだけのような、そんな関係。
でも。
「うん、そうだよ」
とおれは言った。
俊臣には彼女がいると言ったのだし、ここはそういうべきなんじゃないだろうか。
咲はなぜか驚いたように目を丸くした。
「そうなんですか?」
「え?」
「イブは一緒にいる約束したんだー」
照れくさそうに笑って遠亜がパフェにスプーンを入れた。
「ふーん、いいなあ」
そんな遠亜を見て頬杖をついた咲が呟いた。
咲の、今どき珍しいほどに黒い髪が店内の照明で煌めいている。長く伸ばせばきっと綺麗だろうに、彼女はそれをショートにしていた。
「いいでしょお」
ぐるぐると掻き回されるスプーン。
綺麗に盛り付けたパフェが少しずつ崩れていく。
なんだかこれ以上はいてはいけない気がした。
じゃあ、とおれは言った。
「おれ戻るから。ゆっくりしてってよ」
「うん」
またね、とアイスを食べながら遠亜が手を振った。
咲がちらりとおれを見て頭を下げた。
バイトが終わり、店を出て家までの道を歩く。
携帯を見れば、遠亜からのメッセージが何件も入っていた。
「元気だねえ…」
女の子って強いよなあ、とぼんやりと思う。
そういえば二葉も強かった。今も強いけど、勘違いで付き合ってたときは特に、自信に満ちた強さがあったっけ。
読む気が起きなくてそのまま携帯を仕舞った。ポケットに入れた途端また通知音が鳴る。見なくても彼女からだろうと察しはついた。
クリスマスか。
それが終わったら、家に帰らないと。
「…やだなあ」
俊臣と一緒の生活を想像しただけで気持ちが高揚し、同じだけ沈んだ。
ふたりきりで、気づかれない自信がない。
家を出るまえはまだ、英里さんと父さんがいたから何とかなったけれど──
おれよりもずっと察しのいい俊臣をどこまで誤魔化しきれるんだろう。
携帯がまた鳴った。
諦めてため息まじりに取り出してみれば、画面には三沢遠亜の名前がある。
俊臣じゃない。
あれから一週間が過ぎたけれど、俊臣からはあれから何の音沙汰もなかった。
なんなんだ、全く…
あんなに掛けてきてたくせに。
「……」
画面に目を落とす。バックライトに浮かんだメッセージの表示には、今度どこ行く? とあった。
今度って、もうクリスマスじゃん。
どこに行く?
おれは立ち止まってアプリを開き、思いついたままに文字を打った。
『水族館行かない?』
頭の中には俊臣と行った水族館が浮かんでいた。
また行きたいな。
あの、青い光。
遠亜からはすぐ返事が来た。
『魚嫌いかも』
それよりも、と文は続いていた。
他のところ行こうよ。
他のところって?
深くため息が漏れる。なんだか急に面倒くさくなり、おれは返事をしないまま画面を消した。
その瞬間、何かを思い出した。
はっと顔を上げる。
暗い──
「──」
けれど遅すぎた。
掴もうとした指の間をすり抜けて、それは消えた。
夜の暗がりだけがそこにある。
大事な何かだった。
けれどそれが何だったのか、おれにはまるで分からなかった。
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