5


 …あれ?

 何だろう?

 どこかで誰かが泣いている。

 誰だろう。

 おれは周りを見回した。

 薄暗い家の中。見覚えのある部屋。

 ああ、そうだ。

 ここは前に住んでた家だ。父さんとふたりで暮らしていた一軒家。英里さんと俊臣と暮らし始める前のおれの家。

 じゃあこれは夢なんだ。

 あの家にはもう違う家族が暮らしているから。

 窓の外は暗かった。陽が落ちて間もない。空は橙と青と藍色が混ざり合った色をしている。

 瞬きをすると、頬が濡れた。

 あ。

 泣いているのは、おれだ。

 ぼんやりと霞がかった視界に今さらのように気づく。

 胸の奥が苦しい。

 灼けるような焦燥でおれは混乱していた。

 名前を呼ぶ。

 大きな声で、おれは名前を呼んでいた。

『俊臣…! としおみっ』

 どこに行ってしまったんだろう。

 もう日が暮れてしまう。

 日が暮れてしまうのに。

 そこで目が覚めた。

「──っ」

 耳障りな荒く浅い呼吸はおれのものだ。

「…りつ?」

 ああ、嫌だ。思い出した。

 あれは記憶だ。

 もう何年も見ていなかった、ずっと昔の出来事。

 なんであんな夢を今さら見るんだ。

「りつ、大丈夫か?」

 視線を動かすと、俊臣がおれを見下ろしていた。

 ずきりと心臓が痛んだ。

 そうか、昨日俊臣が来たんだった。

 同じ部屋で眠った。

 同じベッドの中で。

 …だからか。

 だから夢を見たのか。

 部屋の中は白い光で満ちている。

 もう朝だ。

 あんなにどきどきしていたのに、いつのまにか寝てしまっていたんだ。

「…お、はよ」

 目尻に溜まった涙をパジャマの袖で拭う。ゆっくりと起き上がると、部屋の中がもうとても暖かいことに気がついた。

 エアコンがついてる。

 ひとりだといつもは凍えるように朝は寒い。

「おはよう」

 俊臣はもう顔を洗ったのか、着替えを済ませていた。

 来たときと同じ制服のシャツとズボン。シャツの襟元のボタンが外されていて、何気なくおれは目を逸らせた。

「大丈夫か?」

 うん、とおれは頷いた。

「変な夢見ただけ」

「夢?」

「なあ」

 その問いに答えない代わりに、おれは訊いた。

「おまえ、何か話があって、ここに来たんじゃなかったっけ?」

 昨夜は結局聞きそびれていた。

「ああ…そうだった」

「なんだよ、話って」

 忘れていたような口ぶりだ。

「りつ」

「なに?」

 俊臣は神妙な顔でベッドの横に膝をつくと、おれと目線を合わせた。

「今日時間があるなら、一緒に来て欲しいところがあるんだけど」

 え、とおれは目を丸くした。

「そりゃ…、…べつにいいけど…」

 本当はすぐに帰って欲しい。けれど俊臣を目の前に、断る理由を上手く考え出せなかった。

 渋々頷くと、俊臣は少しほっとした顔をした。

「よかった」

「で、どこ?」

「それはあとで」

「ふうん……わかった」

 こうなったらもう俊臣の気の済むようにさせてから帰らせよう。

「話ってそれ?」

「それは…」

 目を合わせた途端、ぐう、とおれの腹が鳴った。

 俊臣の顔に笑みが浮かぶ。

「…とりあえず、朝飯食べようぜ」

 あんなに離れたがっていたくせに、本当はどこかで帰したくないのかもしれない。

 おれは優柔不断だ。

 ため息まじりにそう言っておれはベットから下りた。


***


 巨大な水槽の中を優雅に泳ぐ滑らかな体。

 流線型の肢体。

 泳ぐことに特化した生き物たち。

 音のない世界はどんな感じなんだろう。

 想像もつかないな。

「りつ」

 おれは振り返った。

 青い光が水の底のように揺れている。その中に俊臣が立っていた。

 手にはパンフレットを持っている。

「やっぱりそうだって」

「そっか」

 おれは高い天井まであるガラスの水槽を見上げた。

「残念だな。一回くらい会いたかったな」

「ごめん。ちゃんと調べて来ればよかった」

 横に並んで同じように水槽を見上げる俊臣を、おれは苦笑して見た。

「いいよ。来たかったのはほんとだし」

 あるもので簡単に朝食を済ませたあと、おれは俊臣に言われるがままに電車を乗り継いで、この水族館にやって来た。

 ここは東日本で唯一ジンベエザメが展示されている水族館で──でもその情報は少し古かったみたいだ。

 ある日沖の定置網に迷い込んで保護されたジンベエザメは、この水族館にやって来たが、約半年後に死んでしまったらしい。

 もう二年も前のことだ。

「でもよく覚えてたよなあ、おまえ」

 その保護されたジンベエザメが水族館で飼育展示されることが決まったニュースをおれはいつだか俊臣と見ていて、そのときおれが、行きたいと言ったひと言をどうやら俊臣はずっと覚えていたと──水族館に着いたとき、俊臣は言ったのだ。

『え…、それで?』

 ぽかんとするおれに、短期でやったバイト先で知り合った人から、ここのチケットを貰ったと俊臣は話した。

「まさかいないなんて思わなかった」

「それはおれもだよ」

 毎日学校や生活や、おれに至っては受験シーズンで、自分のことで手一杯だったから世間のいろんなことを知らないままなのは仕方がないのかもしれない。

「ありがと俊臣」

 大きなエイが目の前を飛ぶように泳いでいく。

 日曜日の水族館は人でいっぱいだ。そこかしこを走り回る子供たち。暗い光の中で影絵になっている人の形。

 俊臣が何気ないおれの言葉を覚えていてくれたことが嬉しくておれは笑った。

 俊臣がおれを見返す。普段あまり変えない表情が、光の加減なのか、柔らかくなっている気がした。

 その後、夕方近くまで水族館で過ごした。閉館も間近になったころ水族館を後にして、実家とおれの今住んでいる場所と、ちょうど中程の乗り換え駅で別れることにした。

 夕飯まではさすがに長い気がしたからだ。

「あー、帰ったら提出分まとめないとなー」

 俊臣が乗る電車をホームで待つ間、おれは何気なく時間がないことを口にした。俊臣がもうこちらに来ても相手が出来ないと思わせるためだったけれど、言っていて自分で虚しくなるのはなぜなのか。

「忙しそうだな」

「まーねー」

 電車の到着まであと10分もない。

「おまえだって忙しいだろ? 大学どこ受けるか決めたのか?」

 もう二年も終わる。とっくにそれくらいは決めているだろう。

「ああ、決めてる」

「そっか。そーだよなあ。おれもけっこー早く決めたもん」

 そんな時期だよな、と笑ってみる。

「受かるといいな? 頑張れよ。まあおまえなら全然大丈夫そうだけど」

 おれなんかよりずっと俊臣は優秀だ。

 進学塾に通ってどうにか大学に滑り込めたおれとは違って、自分で目標を決めてそれを越えていくことが俊臣には出来る。

「りつ」

「なに?」

「年末は帰ってきて欲しい」

「…──」

 じっと見下ろされておれは息を詰めた。

「…あー、そうだなあ、帰れたら? 努力はしてみるけどさ、分かんないかも」

「予定でもあるの」

 なんだよ。

 そんな目で見るな。

 おれを見るなよ。

 たまらずに目を逸らす。

「あるっていうか、…ほらあ、おれ彼女いるから。初詣でとかも一緒に行きたいし。なんなら年越しも──一緒に…」

 へらっと笑って俊臣を見上げて、おれはどきりとした。

 いつになく険しい顔で俊臣がおれを見ている。

 え?

「そんなにその彼女が大事?」

「…は?」

 なにそれ。

 かっ、と体が熱くなった。

「だ、大事に決まってんじゃん、だって」

「だから帰れない?」

「そうだよっ」

「じゃあその女も一緒に連れてきたら」

 は?

「どんなのか見てみたい。立夏の好きな女」

「な──」

 開いた口が塞がらなくて言い返せずにいると、構内アナウンスが響き渡った。

『5番線ホームにまもなく**行き下り快速がまいります。白線の内側まで──』

 俊臣と目を合わせたまま動けない。

 けたたましい警笛の音がして轟音と共に電車が滑り込んできた。ドアが開き、ホームで待っていた人たちが吸い込まれるように動き出す。

 俊臣がその流れの中に歩き出した。

「俊臣…!」

 何を言うべきか分からないまま名前を呼んだ。

 俊臣はちらりと肩越しにおれを振り返り、そして何も言わないまま、閉まる車両のドアの奥に見えなくなった。



 なんなんだ。

 なんであんな──あんな言われ方しなきゃいけないんだ。

 過ぎ去って行った電車を見送りながら、おれは唖然としていた。

 なんでこんな、おれが、おれの方が、取り残されたみたいな気持ちになんなきゃいけないんだよ?

 なんで?

 やがて反対側のホームに来た電車に乗り、おれはアパートへと戻った。

 寒々しい部屋の中、灯りをつけるのも面倒で、ベッドに腰を下ろす。

 やるせなさに深くため息をつき、忘れないうちにとポケットの携帯を取り出した。

 慣れた手つきで操作して呼び出し音を聞く。

 相手はすぐに出た。

『はーい、りっくん?』

「…英里さん?」

 いつも通りの声にほっと息が漏れる。

 ひどく疲れて気怠い体の奥が温まる気さえした。

『昨日はありがとう、どうしたの?』

「ああ、うん…さっき俊臣帰ったよ」

 そう、と英里さんは笑った。

『久しぶりに会って楽しかった? 帰るのは遅くなるかもってあの子連絡してきたんだけど』

「そうなんだ…?」

『ふふ、話すことたくさんあったでしょ』

「ああ…うん。まあ」

 確かに話すことはたくさんあった。

 でも。

『りっくんびっくりしたでしょ?』

 英里さんがふと声を潜めた。

『ごめんね、本当は私か頼博さんから話さなきゃいけないのに』

 頼博と言うのはおれの父親の名前だ。

「……?」

 髪を掻き上げる手が止まった。

『でもあの子が自分から言い出したことだから。なんていうのかなあ、私としてはそうなって欲しいって気持ちだし。あーもちろんりっくん次第なんだけど…そうよねえ、だから…』

「ちょっと待って」

 話し続ける英里さんが、え? と言った。

「えと、何…の話?」

『なんの?』

「だからその──おれ次第って、…それ? なに」

 沈黙。

『え』

「ん?」

 あっ、と電話の向こうで英里さんが叫んだ。

『やだ、俊臣話さなかったの?!』

「え、な──」

 何を?

 混乱するおれの耳元で英里さんが慌てたような声を上げた。

『うわ! うわっどうしよう! ごめん、私てっきり話してるつもりで言ってたわ』

「英里さん、ちょっと待って、落ち着いて? ね、何の話なの」

『ええと…』

 困ったように黙り込む英里さんをおれは促した。

「どうせ話すつもりのことだったんだろ? だったら誰から聞いても同じじゃない?」

 そうでしょ、と駄目押しする。

 一体何のことなのか、おれは知りたくてそわそわしてベッドから立ち上がった。

『そ…、うん、そうよね』

 そうよね、と英里さんは自分に言い聞かせるように呟いた。

『あのね、りっくん。俊臣なんだけど』

 その瞬間嫌な予感がした。

 俊臣が?

 なに──

『あの子別の高校に編入することになって──』

「はあ?!」

 なにそれ!

『それがりっくんの大学の近くだから』

 叫んだおれには構わずに英里さんは続けた。

『一緒に住んでもらえるといいなーって思って』

「ハア?!」

 なんでそんなことになってんの?!

「ど──ど、」

 どういうことだ。

 おれは言葉を失った。

 編入?

 一緒に住む?

 俊臣と?

 おれが?

 離れたいと願って、やっとここまできたのに?

 は?

『もちろん、りっくん次第なんだけどね?』

 えへへ、と笑う英里さんにおれは何も返せないまま立ちすくんでいた。

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