年越しそば

川上龍太郎

研究室の先輩と僕

 研究棟に着くと階段を駆け上る。

 冷房もなく空気循環もない階段には、もう秋にも関わらず熱気がこもり額には汗が滲む。

 僕がこうして休日に大学へ来ているのは、研究の遅れを取り戻すためだ。

 大学四年の僕は来年の大学院進学に向けて、夏休みに入試を受けなければならなかった。

 試験結果は合格だったが、それまでは勉強で忙しかったのだ。

 理系の学部四年は各々研究室に配属され、学年末に卒業論文を提出しなければならない。

 僕は目だった成果が出ていないので、こうして研究室に向かっているというわけだ。

 研究室のドアを開けるとひんやりとした空気が身を包む。

 その時だった。

「きゃあ!」

 女性の叫び声がした。

 慌てて駆け寄ると修士二年の先輩のコーヒーが机の上に湖を形作っている。

「……またですか」

 僕の声に彼女が振り向く。

 彼女の長く美しい黒髪がそれに合わせてなびく。

「またとは何だ!またとは!」

 僕の発言に彼女は異議を申し立てた。

「僕が研究室に入ってから四回くらいやってますよ……」

「口答えはいいから拭くものを持ってこい!早く!」

 僕はため息をつくと隣の実験室からタオルを持ってくる。

「お!それでいい。拭いてくれ!」

「……先輩も拭くんですよ」

 先輩にタオルを押し付け、僕は机の上のものをどかしながら拭いていく。

 幸い被害は机の上だけで済んだようだ。

 尤も机上の本や論文などは餌食になっている。

「この辺のものは乾かしておきますね」

「おう。頼んだ」

 そう言う彼女は四つのカップ麺の底を拭いている。

「それ全部食べるんですか?」

「まぁいつかはな」

「先輩ならすぐに食べきってしまいそう」

「そんなことはないぞ」

 机の引き出しを引っ張るとそこには十個ほどのカップ麺が敷き詰められている。

「まだこんなにあるからな」

 僕に向かって自慢げに披露する。

「……そうですか」

 僕はそれ以上深掘りすることはやめた。

「今日は研究か?」

 片付け終わった机の上を見ながら先輩が聞く。

「そのつもりです」

「すまんな。時間を取らせて。片付けているうちに昼になってしまったな」

 時計を見ると十一時半を指している。

「昼飯食べに行かないか?お礼に奢るぞ」

 僕は目を丸くする。

 日頃のケチな先輩からは想像できない発言だ。

「いいんですか?」

「おう。任せろ。何が食べたい?」

「では定食で」

「定食か。近くにいい定食屋があるぞ」

 僕らは研究室を後にした。


「ここだ」

 研究室からそれほど離れていない、大学の一角にその場所はあった。

「食堂じゃないですか!」

 僕は先輩に抗議した。

「安くて近くて便利じゃないか」

「定食屋っていうから期待したじゃないですか!」

「定食売ってるから定食屋だ。嘘はついてない」

 ケチな先輩は健在だった。

「まぁ奢ってもらう立場なのでこれ以上は何も言いませんよ」

「そうだぞ。つべこべ言うんじゃない」

 僕は不服な面持ちで先輩の後に続く。

 先輩は生姜焼き定食、僕はとんかつ定食を受け取って席に着く。

「ありがとうございます」

「うん」

「ではいただこう」

「いただきます」

 手を合わせて食べ始める。

「先輩、今日は研究ですか?」

 僕は食べるのに夢中な先輩に問いかけた。

「そう。学会があってな」

「ほお。さすがです」

「だろ?」

 先輩は優秀で、教授からの信頼も厚い。

「まぁ奨学金もらうためっていうのもあるんだけどな」

「なるほど」

 優秀であり守銭奴の先輩にとって奨学金は素晴らしい制度だ。

「そっちこそ何で学校へ来たんだ?」

「僕は試験勉強で研究が進んでいなかったので」

「そうだったな」

「無事合格できてよかったです」

「まぁあれだけやっていたらな」

 僕は落ちるのが不安でかなり勉強したのだ。

「研究の方は順調?」

「実験結果次第ですかね。年末までにはなんとかなりそうかと」

「そりゃいい。ま、研究もほどほどにな」

 先輩は優しく笑うと再びご飯を頬張った。


 研究の成果があがらないまま二か月が経過した。

 全く有意義なデータが得られないのだ。

 いろいろ工夫をして実験を繰り返すものの、ろくに成果が出せないまま呆気なく過ぎてしまった。

 そして迎えた年末の研究室での発表会。

 教授からはこのままでは発表するものがないと警告までされた。

 その後焦って実験をするも、無意味なデータがとれるばかり。

 ついに今年最後の日を迎えてしまう。

「なぜこんな日まで……」

 僕は今日も研究室の扉を開ける。

 中に入ると部屋には明かりが灯っている。

 そこには机に向かってコーヒーを飲む先輩の姿が。

「あれ?先輩?」

 僕がそう言うと先輩はビクッとしてコーヒーをこぼしそうになる。

「うわっ!ちょっと!こぼしますって!」

 あわててカップを持つ先輩の手首を抑える。

「ゲホッゲホッ!」

 今度はむせはじめた。

「大丈夫ですか?」

 そう言いつつ僕は先輩の背中を撫でる。

 先輩はせき込みながら首を縦に振った。

「ゲホッ。もう大丈夫。ありがと」

「すみません。驚かせるつもりはなかったんですけど」

「全くだ」

 どうやら彼女の中では全て僕の責任らしい。

「先輩はなぜここに?」

 先ほどからの疑問を投げかけた。

 今は学会もないし、この間の発表会の様子では修士論文に関しては問題なく進んでいるはずだ。

「えっ?いや、それは……」

 彼女は言葉を濁した。

「それよりお前は何しにきたんだ?」

「何って、研究進めないと」

 僕が答えるとビシッと指を指した。

「お前はクソ真面目だな」

「え?」

「年末年始くらい休め」

「でも……」

「ま、あれだけ真面目に院試勉強して、休みも研究室に真面目に通う真面目なお前なら気になってしょうがないだろうけど。ほんと真面目バカだな」

 先輩はため息をつく。

「卒論なんて提出すれば卒業できる!参加賞だ!」

「それはいくらなんでも言い過ぎじゃ……」

 それを聞いた彼女は机の中をあさり始めた。

 そして一つのファイルを手にする。

「見よ!」

 それは先輩が四年生のときの卒業論文だった。

 中を開くと、ひたすらグラフや表が貼ってあり、有効なデータはないという結論。

「……これは」

「ひどいだろ?」

 ファイルから顔を上げるとちょっと恥ずかしそうにしている先輩。

「こんなでも何とかなるんだからさ、もっと肩の力抜けよ」

「はい」

「はい、って。もうちょっとフォローしてくれよ」

「ここまで酷いとは思いませんでした」

「いやぁ、頑張ったんだけどなぁ」

 頭をポリポリと掻く。

「ま、あんまり根詰めないようにな。お前の場合はちょっと楽するくらいでちょうどいい」

「そのようですね」

 僕は再びファイルを見ながら答える。

「おい!もう見るな!」

 ファイルを奪われる。

「先輩にもこんな時期があったんですね」

「まぁな。成果が出たのは修士になってからだったか」

「……僕にもできるでしょうか」

「できるさ。もうちょい肩の力抜いたらな。そんなんじゃいいアイデアも浮かばない」

「そうですね。ほどほどに頑張るようにします」

「だから今日は研究はなしだ」

 そう言うと先輩はファイルをしまう。

「しかしまさかホントに来るとはな」

「え?」

 その呟きに僕は思わず聞き返した。

「どういうことですか?」

「いやっ!あのっ!これはだな……」

 突然赤面して慌てだす。

「もしかして僕が来ると思って来てくれたんですか?」

「ま、まぁそんなとこ」

 そう答えると同時に先輩のお腹がぐうーと鳴る。

 さらに顔が赤くなる。

「……先輩」

「何だ?」

「ご飯食べに行きます?奢りますよ?」

 奢るという言葉に反応して、急に目が輝きだす。

「いいのか?」

「いつか奢ってもらいましたしね。今日も僕のために来ていただいたので」

「でも食堂は開いてないぞ。それに年末だから他の店も」

 少し落ち込んだ様子の先輩。

「それもそうですね」

「あ!じゃあこんなのは!」

 例のカップ麺が大量に保管されている引き出しを開く。

「じゃーん!どうだっ!年越しそば!」

 先輩が取り出したのは二つの緑のたぬき。

「僕の奢りは?」

「それはまた今度楽しみにしとくよ」

 そう言うや否や袋をビリビリと破っていく。

「ん、これお湯頼む」

 かやくを入れ終わった方から僕に手渡す。

 僕はポットのお湯を入れてスマホで三分を測り始める。

「カップ麺なんて食べるの久々です」

「普段食べないのか?」

「大抵自炊なんで」

「そうかぁ。マメだな」

 先輩はカップ麵の容器に冷えた手をくっつける。

「まぁ、そんな真面目なところも私は好き……」

 僕は一瞬耳を疑った。

 先輩の顔を見ると先輩の顔はまた真っ赤になっていた。

 だが僕の顔も火が出そうなほど熱くなっている。

 沈黙が続き、時計の針が動く音だけが研究室に響く。

 だが次の瞬間、ジリリリリとスマホのアラームが鳴った。

「あ、時間……」

 アラームを止めようと手を伸ばすと、先輩の手と重なる。

「うわっ!すまん!自分で止めるよな!あははは!食べよう食べよう」

「た、食べましょう」

「いただきます!」

「い、いただきます!」

 僕らは慌ててそばを食べ始める。

 だが、そばと天ぷらを口に入れるとそちらに意識が持っていかれる。

「あれ、こんなにおいしかったでしたっけ?」

「だろ?うまいだろ?」

 先輩は自慢げだ。

「先輩はよく食べてますよね?飽きません?」

「飽きないね。特に冬に食べると暖まるし、年越しそばとして食べるのもまた一興」

 口にそばを頬張り、さらにそこへ天ぷらをサクサクと詰め込みながら答える。

 その様子はなんだかリスのようで……

「かわいい」

 思わず口からその一言が出てしまった。

 先輩は口から麺を垂らしながら固まっている。

「あのっ!かわいいっていうのは今のことで!いや、いつもかわいいですけど!」

「わ、わかったから!いったん落ち着け!」

 そこから僕らは無言でそばをすする。

「あのさ……」

 不意に先輩が口を開く。

「来年もよろしくな」

 先輩はそっぽを向きながらそう言った。

 だがこちらから見える耳は依然として赤い。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 気づくとそばはもうほとんど残っていない。

 次の年末も先輩と年越しそばを食べたいと思いつつ、残ったつゆを一気に飲み干した。

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年越しそば 川上龍太郎 @Ryukpl

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