邂逅 二

 そんな人間のくだらない思惑の中で、しかし少年は全く何を構っている風もなかった。

 少年は自分を野卑やひの如く見る者達を気にする様子もなく、屈託のない笑みを向けてくる。



「いやぁ、助かったよ。街に着くまでこの雨の中、延々と歩かされるかと思っちゃってさぁ」



 言う言葉が誰に向けられているのか判然としなかったが、彼は着ていた外套がいとうを脱ぎ、ほろの間から出して外套が吸った水を絞り出した。途端、ばしゃばしゃと派手な水音がする。


 その様に、一体どのくらいの間この雨の中を彷徨さまよっていたのか、その場の者は誰も想像などしたくもなかった。

 その時、馬車がまた耳障りの悪い音を立てて街道を進み始めた。


 がたつく車輪の音と振動が舞い戻る。

 動き出した馬車の中から少年は、申し訳程度に自分の髪も幾度か絞った。


 そして彼は唯一空きのある男と老爺の間に割り込み、小さな手荷物を足の間にぽんと置く。

 少年は滴の滴る髪を落ち着きなげに弄りながら、彼を無視するように元の状態に戻っている周囲の客を見渡した。始めに隣に座っている異国の男に目を遣り、それからもう片側の老爺ろうやを見、ほろを支える骨組みに吊された暗いランタンの明かりに浮かび上がる人々に目を向ける。


 辺りを一様に眺め回し、最後に少年はもう一度隣の男に目を向けた。



「なぁ、あんた。あんた、大陸の人じゃないよな」



 声変わりもすんでいない声が男の頬を打つように響く。全く屈託くったくのない声だった。なのに少年の目は男を見てはいなかった。彼の目に映っているのはただ一つ。

 男の持っている刀だった。


 それに対して男は何も返してはこなかった。再び閉じた目を開く事さえしない。


「なぁ、その剣さぁ、何? 見た事もない剣だな」



 その言葉が終わらぬうちに、少年は刀に手を伸ばす。

 だが、少年のまだ細い指先が刀の鞘に触れるか触れないかの僅かばかりのところで、急にそれは拒絶するように位置を変えた。


 少年の大きな琥珀色の瞳が恨みがましく男を見る。そしてねた声音がそれでも刀に注がれた。



「見せてくれるくらいいいじゃんか。別に減るわけでもないだろ」



 ぶつぶつと不平を言う少年を、男の黒い目が鬱陶しげに捉える。


 そして互いの目が合った瞬間、二人の周りから全てが消えた。


 それは不思議な感覚だった。宙に浮くような、沈むような、奇妙な感覚だ。がたつく馬車の中で、振動も車輪の回る音も乗客のひそりと話す声もなくなり、少年の琥珀色の瞳と男の黒い瞳がかち合ってが開く。


 まるで空間に感情がそのまま流れ出るような、そんな不思議な感覚だった。


 そのはほんのわずかばかりだったが、互いに永遠のように感じていた。感覚だけが一人歩きしているような感じだ。


 そうして少年がぱちりと瞬いた瞬間、それまでなくなっていた周りの音も馬車の振動も舞い戻ってきた。


 先に我に返ったのは少年の方だった。



「なぁなぁ、俺、雷韋らいってんだ。あんたは? 出身はどこさ。俺も大陸出身じゃないんだよな。大陸の南の海にあるセネイ島ってところが俺の故郷。時々あるだろ、盗賊組織ギルドが治めてる街って。俺の島もそうなんだ。それでさぁ……」



 一方的にべらべらと喋ってくる少年──雷韋を見て、男は何を言うでもなかった。話の内容はどうでもいい事ばかり。その中でしつこいほどに刀を見せてくれるようにせがみ、そしていつまでも濡れた前髪を手持ち無沙汰にいじっている様がやけに気になった。


 男は何故か、雷韋というこの少年に既視感きしかんを覚えていた。けれどそんな筈はない。こんな見目も珍しい少年なら一度会えば忘れる筈がないからだ。

 そんな事を思いながら少年に一方的に話しかけられ続けて、いい加減うんざりしてきた時だ。


 口を開こうとしたその瞬間、馬車が耳を覆うほどのきしみを上げ、激しい衝撃と共に停止した。乗客達も大きく均衡を崩し、幌の中に悲鳴が溢れる。


 中でもとりわけ激しかったのは赤ん坊の声だった。若い母親の腕にしっかりと抱かれてはいたが、馬車が傾いだのと同時に火がついたように泣き出したのだ。これまで受けた事もない衝撃を感じたのだろう。それは無理からぬ事だった。


 男も馬車の激しい揺れの為に少年を抱えるように床に手をついていた。その拍子に少年の濡れた髪が頬に触れる。


 その瞬間、男の中にまた新たに奇妙な感覚が走った。まるで胸の奥底にしまい込んだ回顧かいこの念がくすぐられたような感じだ。けれど彼がそれと相対する間もなく、次の瞬間にはぱちんと弾けるように消え去っていた。


 馬車が傾ぎ、御者の馬を御する声が聞こえてきた。それに続いて御者が降りてくる気配に、



「おい、一体どうしたんだ」



 同乗している客の中から苛立たしげな声が上がる。



「すみません。車輪が溝に落ちちまったようで」



 それに応えるように御者の声が幌の外から返ってきた。



「動かないの?」

「えぇ、大丈夫です。すぐに出ます」



 そんな遣り取りがあって、御者の足音がばしゃばしゃと前方へ向かって響いていく。

 それを聞きながら日ノ本の男は、雷韋を抱えるように傾いでいた身体を元に戻した。


 だがその途端、弾かれたように雷韋は手にした外套と小さな荷物と共に馬車の外に飛び出して行ってしまった。

 男には馬車が止まったその事よりも、雷韋のその行動の方があまりに突飛であまりに奇妙で不思議に映った。


 少しの間、彼は呆然として揺れる布を見詰めていたが、不意に得物がない事に気付き、はっとした。辺りを見渡したがどこにも彼の刀はない。

 反射的に布を跳ね上げ、馬車から身を乗り出す。雷韋が盗んだのだと気付いたからだ。


 しかし既に求めた姿などどこにもなく、霞んだ視界だけが眼前に広がっていた。



「……やられた」



 舌打ちと共に零した呟きは暗い雨の中に吸い込まれていった。

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