獣吠譚 覇界世紀(じゅうこうたん はかいせいき)巻の一『はじまりの物語』

杏月飛鳥(きょうげつ あすか)

第一章

邂逅 一

 重たい雨音と重たい無数の雨滴うてきが、夜の暗い街道を支配していた。

 霞んだ視界の向こうからは、馬車のがらがらと足場の悪い道を行く音が響いてくる。


 アルカレディア大陸西方の一王国、イシュダール国。その中の一つの領地、コレエーン領の街を夕刻に出た今日最後の乗合馬車だ。これが夜をなべて街道を行き、翌朝にはグローヴ領、エウローン領を越えて、ローラン領の街へと到着する。


 馬車は昨日から続く激しい雷雨の中を進んでいた。雨でぬかるみの多くなった街道を、乱暴なまでに揺れながら走っている。

 馬車の中には十人ほどが乗り込んでいて、皮のほろを形作る木枠に吊されているランタンの仄暗い明かりが乗客達を照らしていた。


 連れなのか、それとも居合わせただけの者なのか、幾人かの者がひそひそと言葉を交わしている。

 時折、車輪の耳障りな音と激しい揺れのせいでか、若い女に優しく抱かれた腕の中で赤ん坊がぐずった。


 風はほとんどないが、幌の厚い皮面ひめんを雨滴が嬲る音と遠鳴りに鳴る低い雷の音は、聞く者を自然と不安にさせる嫌な音だった。


 馬車の入り口近くにいる黒髪の若い偉丈夫も少し疲れた顔をして目を閉じている。男は二十四、五だろうか。大陸ではあまり見かけない細身の剣を抱えるように肩にもたせているのが酷く印象的だった。


 その男には連れがいないのか、馬車に乗っている誰とも言葉を交わしてはいなかった。隣に座る老爺ろうやも彼とは少しを置いている。


 いや、老爺は彼と関わり合いになりたくなかったのだ。男には少し異様な雰囲気がある。風変わりの剣を持っているところからして、老爺には彼がアルカレディア大陸の東の果てにある島国、日ノ本から流れてきた雇われ侍なのだと分かっていた。


 雇われ侍とは、傭兵と同じに金を貰って国に雇われる侍の事だ。

 だが、それだけの理由で避けているのではない。


 大陸には傭兵はごまんといるし、これまでの人生の中でやはりごまんと傭兵を見てきた。たちのいい悪いも含めて様々な傭兵をだ。その中には侍もいた。

 しかし隣の男はこれまで目にしてきた侍達と何かが違っていた。金の為に動く者ではなく、殺す事を求めて動く男のように思えたのだ。だから残念な事に隣り合わせてしまった今も、老爺は男と距離を置いていた。


 悪戯いたずらに刺激さえしなければ何もしないだろうと思って。

 不意に入り口を覆っている麻布の間から雷の真っ白な光が射し込み、瞬間、幌の中を明るく照らした。そして同時に馬車が止まる。誰ともなしに幌に隔てられた御者に注目が集まった。


 何かよからぬ事が起こったように感じたのだ。

 街道とは言え、夜になれば旅人を襲う夜盗が出る事もある。


 乗合馬車は彼らの格好の標的だった。個人的にはそれほど金目のものを持っていない乗客だが、複数人ともなると話が違ってくる。ある程度のまとまった金が手に入る上に、上手くいけば女や子供も乗っている。それを人買いに売れば相当な儲けになるのだ。


 だから嵐の中という絶対的な不安感も手伝って、乗客達は肝を冷やして御者の様子を窺っていた。

 異国の剣を持つ男でさえ、うっすらと目を開けて様子を窺っている。


 けれど幸いな事に、起こった事は彼らの予想したものとは違うものだった。

 馬車の中から見える筈のない御者が、落ち着いた様子で何事かを話している声が聞こえてくる。何を言っているのかは分からなかったが、



「悪いねぇ、ほんと!」



 と言う変声前の少年の声が声高に乗客達の耳に飛び込んで、場に満ちていた刺々しい緊張感を薄れさせた。

 そして程なく届いた遠雷の低い轟きと同時に、麻の布を跳ね上げて乗り込んできたのは御者と話していたのだろう小柄な少年だった。


 年の頃は十四、五。長い飴色の髪を高く結い上げた、見目も珍しい深い琥珀色の瞳をした少年だった。


 いつから雨に当たっていたのか、羽織った外套がいとうもその役目を果たさぬくらいに彼は哀れな濡れ鼠の風体ふうていになっている。雨に打たれたせいで巻きが強くなっている髪が頬に張り付いているのも、見る者に余計な哀れさを誘った。


 しかし馬車に乗り込んできた少年は人間族ではなかった。異種族特有の尖った耳をしている。幾人かの人間達はそれを見るなり露骨に嫌な顔をしてみせた。


 人間族は昔から他の人族ひとぞくを嫌っているのだ。

 人間族を創造した光神こうじん天慧てんけいを崇める宗教、『天主神神義教てんしゅしんしんぎきょう』の教えが酷く差別的だからだ。



 ──主は唯一であり、神の生み出しし子は人間族だけである。他の人族は混沌から生まれ出でた種であり、交わる事を禁じる──



 それが人間族に根付く教えだ。


 いや、それだけではないのかも知れない。もしやすると、それは嫉妬なのかも知れなかった。


 人間族は魔術が少々苦手なのだ。それに比べ、異種族は魔術を思いのままに使う事が出来る。それに寿命も人間族に比べると長く、美しい姿もしていた。

 目の前に現れた少年も子供ながらに相貌は美しく整っている。吊り目気味の大きな琥珀色の瞳を更に際だたせるように、目尻には紅を刷いていた。そして少年にはそれがよく似合っている。


 だから彼を嫌がる者達には余計気に障る存在になったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る