第35話 ふたりの妖精女王

 ダナンの王女が冥界へとおもむき、王子が魔法の小道で迷子になっていたころ。

 エリウの丘にある聖域の深奥では、ふたりの妖精女王がとうてい友好的とは言えない面持おももちで向かい合っていた。

 ふたりの間に流れる空気は、流氷を浮かべる北の海よりも冷たい。

(この場にだけは、居合わせたくなかったぜ) 

 間に挟まれたフランは、身の置き所のない思いを味わっていた。


「では、やはりあの子をどこかに飛ばしたのはフィニなのだな」


 黒い髪の妖精女王の、尋問するかのごとき厳しい声音こわね


「確かだ」


 白い髪の妖精女王が淡々と応じる。


不肖ふしょうの妹が申し訳ないことをした」


 抑揚よくようのない口調で述べられる謝罪の言葉に、黒い髪の妖精女王、エリウは眉をひそめた。

 エリウと対峙たいじしているのは、湖の貴婦人と呼ばれる水の妖精女王、ニムである。

 実体ではない。床に置かれた青銅の水盤の上に揺らめいているのは、彼女の影だ。本体はおそらく湖の、緑玉ジェイドの島にあるのだろう。

 

 カエル・モリカの町で使われた魔法は、さざ波のように空をざわめかせ、大地をって、他の地域に住まう魔力を持つものたちに感知された。

 サウィンの祭り日にはこのイニス・ダナエの地全体が魔力に満ちる。どんな些細ささいなものであれ、不用意に魔力を開放すれば、それは当人が意図した以上の異変をもたらしかねない。無関係な遠方の地に災厄さいやくとなって降り注ぐこともあるのだ。危険な行為だった。

 今回は幸いなことに魔力の作用は伝播でんぱせず、一地点だけに留まった。被害は人間の娘一人だけ。ただ、その娘はエリウにとってもニムにとっても特別な人間であった。


「フィニはまだあの男に心を奪われたままなのだ。自分の愛に一度は応えながら、去っていった人間の男に」


 ふうっ、と湖の女王は深い溜め息をついた。涼しげな眉間みけんに皺が刻まれる。

 あの男とは、イニス・ダナエの統一王、クネドを指す。


「もうこの世におらぬ者に執着して何になろうか。もとはと言えば、不死の呪いゲッシュもあれが意図して授けたものではない。あの男のためによかれと思って与えた、癒しの祝福ギフトの副作用なのだ」


 加減もせず、心のままに、赤子の柔らかな魂をもってしても受け取れぬほどの力を注いでしまった結果だ。


「あの頃、男の心はすでに他の女に移ろっていた。心を尽くせば、もう一度取り戻せるとでも思ったのか。そんな無駄なことをするより、さっさと見切りをつけるか、それでも飽き足らなければ直接あの男を呪えばよかったものを。まったく、愚かなことだ」


 もちろん、クネド王の愛が戻ることはなかった。それどころか、自分を王位につけてくれた恩人であるはずの妖精をあからさまにうとむようになった。

 フィニの心の歯車がきしんだ音を立て始めたのはその頃からだ。


「妹にはすでに罰を与えた。この件はもうよかろう。それでエリウよ。エレインの行方は分かったのか?」

「それならば、この男が小細工を仕込んであったらしく―――」


 ふたりの妖精女王の視線が、赤毛の男に向けられる。

 フランがエリウの言葉の先を引き取った。


「今はまだ、居場所を明かすことはできない。だが、無事だ」


 それを聞くと、ニムは髪と同じ色の白いまつげを伏せた。


「無事であるなら、構わない。人間の姫君のために働くのは、人間の男の役目だ」

「そうだな。マクドゥーン、あとはそなたに任せる。あの子を守れ。誰にも渡すな」


 エリウが念を押す。


「分かった」


 フランは神妙な顔で頷いた。


 エリウとニム。

 ふたりの妖精女王の間に視線をさまよわせていたフランは、ようやく気づいた。

(イレーネの姿がない……)

 いつもエリウ後ろに控えている娘がいない。

 先ほどからずっと、何かが足りないような感じはあったのだが、そちらの方に意識を回す余裕がなかったのだ。


「ところで……」

「そういえば、フィニに罰を与えたと言ったな」


 尋ねようとしたフランの声に、エリウの声がかぶさった。 


「ああ。魔力を取り上げて、魔の空間に放り込んである」


 さらりとニムが答えた。

 フランは自分の問いを忘れ、目をいた。とんでもない処置だ。


「お、おい。さすがにそれは」


 魔力を持つものにとって、消滅と同じほど、いやそれ以上に厳しい罰だ。

 すべての世界から切り離された場所に、たった一人。

 魔力を取り上げられてしまえば、自力で出ることも叶わない。その空間に『死』が存在するかどうかも分からない。湖の貴婦人が罪人を顧みる気になるまで、閉じ込められたっきり。永遠の孤独を負わされ、無の世界の囚人めしゅうどとなる。

 フランの表情を読み取って、ニムは目を細めた。血の気の感じられない青ざめた唇に、わずかに表情らしきものが動く。


「案ずるな。われにも肉親への情はある。妹が頭を冷やすまでの間だ。あの男に対して抱いている未練だのなんだのをすっぱり断ち切ることができたら、戻ってこれるようにしてある。このような騒ぎはもうごめんだ」

「ふむ。妥当なところだな」

 エリウが同意した。


「これで目を醒ましてくれればよいが」

 ニムが頷く。


  ――フィニが頭を冷やすまで。


 熱が冷めるまでに、どのくらいの時が流れるのだろうか。

 地上に生きる人間にとって、クネドの時代はとうに伝説となっているというのに。まだ覚めやらぬ妖精の夢。


(何も言うまい)

 彼女たちの価値観は人間とは違う。口を挟む筋合すじあいではない、とフランは思い直した。


(とりあえず、庵に行くか)

 そうして思いを現世に向けた。

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