年越し

あんどー春

年越し

 たぬきとケンカをしたきつねは、単身人里におりてきた。しっぽをマフラー代わりにして首に巻きつけ、雪の降り積もった道にさく、さくと小さな足跡をつけていく。寒さに強いとよく言われるけれど、強いだけであって、寒くないわけでは断じてない。おまけに勢いで飛び出してきてしまったから、昼から何も食べておらず、さっきからお腹が鳴りっぱなしだ。こんなことなら、ちょっとした木の実だけでも持ってくるんだったといまさらながら後悔した。あいつのせいでこんな目に、と、まるまる太った垂れ目の幼なじみに悪態をついてみるけれど、想像の中でさえ、たぬきは挑発するようにお腹をぽんぽこ叩きながら、憎らしい笑みを浮かべるばかりだ。

 きっかけはささいなことだった。いつものように、山で化かし合いをして遊びながら、テンションがあがってコンコン鳴いていたのだが、咳と勘違いしたたぬきが眉をひそめ、「お前、コロナにかかったんじゃないか?」と疑ってきた。

「違うよ。鳴いてるだけだよ。昔からそうじゃん」

 必死に弁解したものの、「うわっ、寄るな寄るな。アクリル板拾ってこなきゃ」とソーシャルディスタンスをとられ、ばい菌扱いされた。

「ワクチン打ったもん。副反応だって出たもん」

 泣きながら訴えても、「やーい、やーい。陽性陽性」と小石を投げられ、「PCR検査受けるまで遊んでやらないからな」と突き放された。

「わかったよ。受けてくればいいんだろ」

 啖呵をきって下山したものの、どこへ向かえばいいのか皆目見当がつかなかった。動物病院は飼い主同伴でなければ受け付けてくれないだろうし、保健所に行ったらそのまま殺処分されてしまいそうだ。それに今日は大みそかだけあって、いつもは閑散としている村にも頻繁に人が行き来していたから、見つからないようにうろつくだけでも普段以上に神経をすり減らした。いまはすっかり夜が更けて人通りこそなくなったものの、心身ともに疲弊しきっていた。

「腹減ったな」

 温かいスープが飲みたい。できれば好物のおいなりさんもつけて。朦朧とする意識の中で、理想の食事を浮かべながら集落をさまよっていると、自慢の耳がピンと立った。通りかかった民家から、ズズズ、ズズズと誰かがなにかをすする音が聞こえたからだ。魚介系の出汁の匂いもした。鍋だろうか。締めに麺類をぶち込んだのかもしれない。上から卵を落としてたら最高だな。

 壁に耳を当て、ASMRをおかずによだれをたらしていると、寄りかかっていた引き戸が開いてしまった。

「うわっ」

 あわてて距離を取る。一目散に逃げ出せば良かったのだが、びっくりしすぎて体が固まってしまった。

「おやおや、珍しいお客さんだ」

 出てきたのは腰の曲がったおばあさんだった。じりじりと後ずさりながら懸命に威嚇する。しかしおばあさんは、野生動物と相対しているのにひるむ様子はなく、敵意もまったく感じられなかった。

「外は寒いだろ。こっちおいで」それどころか、笑顔で手招きしてきた。

 だまされてはいけない。人間は決して信用するなと、猟師に撃たれて亡くなった父が生前、口を酸っぱくして言っていた。

 ただ、漏れてくる香ばしい匂いが気になって仕方がなかった。どうせこのままさまよっていたって野垂れ死ぬだけだ。中に入って撃たれても同じじゃないか。それにおばあさん相手なら、最悪取っ組み合いになっても勝てるだろうし。自身に言い訳しつつ、敷居をまたいで土間にあがった。戸を閉めると暖気が体を包み、思わず頬がゆるむ。もし安全なら、夜が明けるまでここで休ませてもらおうか。もちろん、迷惑はかけないようちゃんと距離は保ってアルコール消毒もして。そんなことを考えながら、寝床になりそうな場所はないか室内を見回していると、おばあさんが居間から何かを持ってきた。

「ほら。もうすぐ年越しだからおすそわけだ」

 手にしていたのは、緑のたぬきと印字された容器だった。どうやら、外で感じ取った匂いの正体はこれだったらしい。

「年寄りで全部食べれんからちょうどよかった。半分こしようか」

 そういって取り皿に分けてくれた。まだ警戒しているのを察してか、「ちゃんと温まっていけよ」と部屋の中に戻っていく。

 土間に残された皿を遠目から覗き込んだ。だまされるな。再度心の中で葛藤する。きっと中には睡眠薬が混ぜてあって、食べた瞬間ころっと意識を失うのだ。そして父のようにマフラーにされ、どこかのセレブに売られるに違いない。何より、このコロナ禍でひとつの食べ物を他人とシェアするのはいかがなものか。自分の中で食べない理由をあげつらってどうにか自制しようとしたものの、理性を保つには空腹が限界だった。なかば無意識のうちにふらふらと近づいていき、汁をペロッとなめてしまった。

「うまっ」

 昔、山のキャンプ場で藁焼きの残骸を食べたことがあるからわかる。これはカツオの味だ。カツオの出汁がきいているのだ。

 そのまま麺も食べた。長くて、全部口に入れたら喉に詰まりそうだったので少しずつ嚙みちぎった。硬さがちょうどよく、絶妙に汁とからんで喉ごしもなめらかだった。体の芯から温まっていくのを感じた。

 そこから先はもう止まらなかった。麺の下にかき揚げが隠れているのを発見したときは狂喜乱舞しそうになった。出汁をたっぷり吸い込んだ柔らかい部分と、わずかに残ったサクサクとした食感が同時に楽しめて、盆と親族の嫁入りがいっぺんに来たようなめでたい気分になった。なりふり構わず音を立ててすすった。ちょっと行儀は悪いと思ったが、最後の一滴がなくなるまで皿も舐めた。

「ふぅ」

 すっかり胃袋を満たし、ふくれた腹をさすりながら思った。人間は年を越すたびにこんなおいしいものを食べているのか。きつねの寿命は、事故や狩りに遭わず過ごせたとしても十年ほどしかない。だから毎年誕生日を迎えるのは憂鬱でしかなかったけれど、歳をとるのも悪くないと思えるくらい満足できた。お腹だけでなく、初めて触れた人間の優しさに胸までいっぱいになった。

 来年も来たいな。

 完食して最初に浮かんだのはそんな感想だった。おばあさんに頼んでみようか。もし叶うなら、今度はたぬきも連れて。一年間、おばあさんは病気などせず、僕らも猟師に撃たれたりしないで、お互い健康でいられたら、また一緒に年を越させてもらえないだろうかと。図々しいのは百も承知だ。それでも、どうしてもたぬきに食べさせてあげたいと思った。都合が悪くなるとすぐに寝たふりをしてごまかすし、捕獲する前から皮算用されるくらい人間にもなめられている奴だけれど、化かし合いでは一度も勝てたことがないほど強いし、世話になった人間のために、茶釜の姿で大道芸を披露してまで恩返しする男気もある。ケンカしてばかりでも、結局はそんな幼なじみのことが大好きなのだ。

「ばあさん。起きてるかい」

 突然戸が開いた。夢中で食べていたせいで、不覚にも近づいてくる足音に気づかなかった。

「あっ」

 人間の男と目が合った。「こいつ、いたずらしに来やがって」

 男が襲いかかってきたので足の間をすり抜けて玄関を飛び出した。そのまま夢中で走った。体力が尽きるまで走り抜けたところでようやく振り返った。もちろん誰も追っては来なかったけれど、おばあさんの家がどこにあったのかもわからなくなってしまった。肩で息をしながらその場に立ち尽くす。生き延びた安堵と時間差でよみがえってくる恐怖と、結果的に食い逃げのような形になってしまった申し訳なさと。さまざまな感情がない交ぜになってなんとも複雑な気分だった。

 雪の上にわずかに残っていた自分の足跡を、さかのぼる形で山へ向かってとぼとぼ歩きだす。やっぱり人里をうろつくのは危険だ。人間と鉢合わせたら、必ず狩られると教えられてきた。いまだって、何も悪いことをしていないのに有害鳥獣扱いだった。動物が共存しようなんて夢物語でしかないのだ。淡い希望を抱いた自分が滑稽だった。なにが来年の年越しも、だ。あの味を二度と堪能できないのは残念だけれど諦めるしかない。それがきつねに生まれたさだめなのだ。

 でもーー。

 足を止めた。おばあさんにお礼を言えなかったことは心残りだ。いま引き返したらあの男が待ち構えているだろう。後日人間に化けて、あのとき助けていただいたきつねです、と名乗り出るのは簡単だが、こんなご時世に他人を家にあげるのはきっと田舎でも敬遠される。それに、再訪したところで差し出せるものが何もない。木の実を採ってきたって食べないだろうし、自分の毛をむしり取って毛皮を編んだりしたらかえって気を遣わせてしまいそうだ。直接できることはないかもしれない。ただ、せめてひと言だけでも。

 ふもとのお寺から、除夜の鐘が聞こえてきた。ひとつの音が、長く、重く、村中に響き渡っていく。百八つもあるのだから、ひとつくらい音がぶれたって気にする人はいないはずだ。

 後ろを振り返った。耳をすませ、間合いをはかる。おばあさんの家まで届くことを願いながら、深く息を吸い込んだ。そうして次のひと突きがくるタイミングに合わせて、その音に重ねるように、目一杯の感謝を込めて、コーン、と鳴いた。

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