世界の終わりと逃走劇

知らない人

カーチェイス

 世界の終わりを前借したような静寂を引き裂いて、バイクのエンジンが唸る。フロントガラスの向こう側で爆発的な加速を得た母とその愛車は、法定速度を嘲笑う勢いで私達から遠ざかった。

 私の視線に応えた父は、険しい表情のままアクセルを押し込む。スピードメーターが振り切れるのを私は初めて見た。助手席から慣性が取り払われるまで、さほど時間はかからなかった。

 人影も車通りもないファッションストリートの闇を照らす街灯が、視界の端へと次々流れていく。

 暗がりに繰り返し現れる母の白い背中は、切れかけの電球に似ていた。遠い。でもまだ時間はある。窓を開ける。荒れ狂う冬の大気が直接瞳に吹き付けた。私は瞼をほとんど閉じながらも、膝上のメガホンを口元によせて母へ叫ぼうとした。


 突然、前方の母が勢いそのままに角をほぼ直角に曲がった。助手席の私ではなく運転席の父が叫ぶ。


「掴まれ!」


 アスファルトに擦れるタイヤの高音と焦げ臭い匂い。続いて強烈な遠心力が私を襲った。視界が滑り、回る。シートベルトが痛いほど体にめり込んだ。角を曲がりきったところで、痛みはなくなり、ようやく回転が止んだ。その矢先、私は突如として背もたれに押し付けられた。強烈な加速に体を拘束される。車の前方、はるか遠くの赤信号にバイクを見た。すぐに右折して消えた。


 信号無視を繰り返して精一杯後を追うけど、角を一つ曲がるたび母の姿は小さくなっていく。追いつくのは厳しそうだ。昔、凄腕の走り屋をやっていたらしいだけはある。

 住宅街を抜けた母の背中は高速道路に進んだ。私たちも後に続いた。閑散とした長い直線に入ったのを見計らって、私は父に話しかけた。


「お母さん、私が産まれるほんの数年前まで走り屋やってたんだよね」


「それを父さんが捕まえた。今回もやれる」


 父は誇らしげに笑った。私は笑えなかった。


「本当に連れ戻してもいいの?あと一時間で終わるのに」


「だからこそ追いかけるんだ。香織も世界の終わりを父さんなんかと迎えたくはないだろ」


 頷くしかない。私と父はあまり仲が良いとは言えない。父は加齢臭がとんでもないし、口臭もひどい。近寄られるだけで気分が悪くなる。だからつい数時間前までは、顔を合わせても無言でやり過ごすような相手だった。かといって別に母とも仲がいいというわけではなかったけど、朝起きるといつもリビングで座ってる後姿や、帰ってきた私達を出迎えてくれるごちそうの匂いと微笑み、全てがかけがえのない物だったことに気付いた私は「お母さん」を「走り屋」から取り戻すために、仕方なく父と結託したのだ。

 だけど母が求めているのは私たちではなく、「走り屋」としての心の底からの自由だった。そんな人を仮に連れ戻せたとしても、誰も幸せにはなれない。まず間違いなく母は不幸になるし、大切な人が辛そうにしているのを見て、幸せになれる人もいない。だったらせめて、母にだけは幸せになってもらいたい。リビングに響いた十六年分の怒鳴り声が、私に望まぬ言い訳と善行を強いてくる。


「でもお母さんは十六年間も……」


「耐えてきた、とでも言うつもりなのかお前は」


 父は遠い目をしていた。無言のままに無精髭の横顔を見つめていると、後悔のにじむ暗い声が聞こえた。


「分かってる。今日分かった。今日まで気付けなかった父さんは鈍すぎた。行動にされるまでわからないんだもんな。あいつのことはなんでもそうだ。「バイクは危ないから降りろ。お前はもう親なんだぞ。死なれたら香織も悲しむ」。こんなことを十六年前言わなければ、違う終末もあったのかもしれない」


 母はどちらかと言えば感情の起伏の薄い人だった。あれこれ伝えるたびに、嫌な顔一つせず要求を呑んでくれるものだから、私たちは少なからず傲慢になっていた。母は今の生活に満足しているはずだ、なんて根拠のない思い込みを正当化できる程度には。


「もし今日隕石が降ってこなければ、あいつはどうなってたんだろうな。また警察の世話になってたのか、死ぬまで我慢してたのか」


どちらにせよ碌でもないことだ。言い終わってから父も同じことを思ったようで「世界が滅んでくれて良かった」と独り言みたいにささやいた。


「だがあいつは必ず連れ戻す」


 強い意志のこもったひとみがこちらをぎらりと見た。私は拒否するように視線を下げた。だけど言葉は出なかった。結局私も父と同じ穴の狢なのだ。大切な人を籠から逃げた鳥みたいに扱い、終わりの間際まで追い回し、その本心をねじ伏せようとする。どうしようもない人種だ。


 私は日曜日午後十時の閑散とした高速道路を見渡した。きっとみんなはそれぞれの家にこもって、最期の家族団欒を楽しんでいるのだろう。世界はあと一時間で終わるというのに、母の背中はまだまだ小さい。


「間に合うさ。捕まえて十六年分謝ればいい。感謝すればいい。あいつならうんうん頷いて、また父さんたちのそばに帰ってくれる。プロポーズの時もそうだった。戻ってくるさ。きっと戻ってくれる。バイクなんか捨てて、ちゃんと香織と父さんを選んでくれる」


 自分に言い聞かせるように父は繰り返した。確かにそうかもしれない。だけどそれが真に母の意志なのか、私たちに推し量るすべはない。あの人は押しに弱い。頼めば何でもやる。バイクもやめろと言えばあっさりやめてしまったらしい。だからこそ十六年かけても見抜けなかったのだ。世界が終わるまで、縛り付けていたことにも気付けなかったのだ。


「父さんは手が離せないから、代わりにそのメガホンで叫んでくれ。頼む」


 母を引き留めるための言葉は分かる。ごめんやありがとうを伝えれば私たちの所へ戻ってくれるだろう。だけど、メガホンは私の膝上でわだかまったままだった。


「どうした。早く伝えてくれ」


 手はしっかり握っているけど腕が上がらない。私の一言で、母は再び籠の中に戻されてしまう。そう考えた瞬間に、何倍にもなった重力が私を縛り付けた。

 最期は母と父三人で過ごしたい。でも十六年間、籠の中で焦がれ続けた母が、世界最後の空ですら自由に飛び回れないなんて不幸はこの世に存在していいはずがない。


 相変わらず、切れかけの電球のように、母の儚い後姿は現れては消えを繰り返している。ふと全身を悪寒が襲った。今日世界が滅ばなければ、いつか母は自殺をしていた。そんな確信めいた未来予想図が降って湧いたのだ。


「言いたくないよ」


 ようやく出した声は震えていた。


「私、お母さんを不幸にしたくない。幸せになってもらいたい」


 父も似たようなことを考えていたのだろう。ありがとう、と叫ぶだけで母が不幸になる理由を、すぐに理解した様子だった。母の背中を見据えたまま、声をこぼした。


「香織は本当に良くできた子だ。父さんじゃなくてあいつに似たんだろうな」


「違う。怖いだけ」


「それでもあいつの幸せを願ったことに変わりはない」


 父は大きくため息をついた後、ピンと気張った背を曲げる。アクセルからも足を離したようで、さっき右端まで振れていた針は、今や100の数字を指していた。気が付くと母は夜の闇に消えていた。しばらく父は名残惜しそうに遠くを見つめていたが、車載時計が午後十時三十分を示すと同時に私の方を向いた。


「あと三十分しかない。家に帰るには足りないし、どうする。香織はどこか最期に行きたい場所でもあるか?」


 行きたい場所と言われても、特に心当たりはなかった。視線をあちこちに巡らせて捻りだそうとしたけど、高速道路の代り映えしない景色では何の刺激にもならない。思い浮かぶのはせいぜい母の顔くらいだ。らちが明かないと、私はあきらめ混じりに夜空を見やる。フロントガラス越しに満月が輝いていた。綺麗な月だ。


「お父さんがお母さんにプロポーズした場所に行ってみたいかな」


 瞬きするほどの刹那にやけた後、父はまた元の暗い表情に戻って軽く頷いた。


「分かった」


 母の影を残しているかもしれない場所なら、どこでもよかった。言わずもがなの期待も、もちろんあった。だけどほとんど諦めていた。瞳からは涙がこぼれた。


 自分がここまで母を好いていることを知らなかった私は、マザコン万歳、なんて笑い飛ばすことができないほど衰弱しきっていた。泣いても叫んでも今後一生母には会えない。きっと死んでからも会えない。誤魔化しようのない事実を前に嗚咽が漏れる。

 悟られたくなかったから運転席に背中を向けたけど、私はもうほとんど自暴自棄になっていた。


 着いたぞと肩を叩かれて足を下ろした白い砂浜の向こうで、遠くぼやけた月がたった一人、油みたいに海を漂ってるのを見た瞬間に、決壊してしまった。

 泣き声は隠さず、涙もぬぐわず海岸を歩く。潮の匂いばかりで母の姿はない。望み薄なのは分かっていたけど、現実を突きつけられると、揺らぐ。

 私は平衡感覚を捨てて、砂浜に背中を預けた。夜空も見ずに、ただ目を閉じる。さざ波の寄せる音が聞こえた。雫が頬を下っていく。あとは待つだけだ。隕石が衝突して、地球もろとも人類を吹き飛ばすのを。大切なお母さんを殺すのを。


 足音が近づいてくる。私は涙声で「あと何分」と問いかけた。「十分」と低い声が返ってきた。

 十分か。あとたったの十分で、永遠に会えなくなるのか。暗闇に怯えて目を開けた私は、さらに真っ黒な夜空を見た。月の白さはごくわずかで、大部分が底のない深淵へと通じている。隕石が落ちれば、私たちの亡骸はあそこに放り出される。やっぱり、再会なんて無理なんだろうな。宇宙は広いから。


 私は寝ころんだまま、なんとなく「お父さん大好きだよ」と呟いた。すると父は照れくさそうに「そうか」と話したきり黙りこくってしまう。私の頬は燃えてしまいそうなほど熱くなった。

 大好きだなんて直接的な言葉を使ったのは今日が初めてだ。思えば私は感情を伝えるのが苦手だった。お父さんも多分似たようなものだろう。お母さんもか。あの人も表情と感情に揺らぎが少ないから、今日爆発するまで何も分からなかった。口臭や体臭のひどさに違いはあれど、こうしてみると、なんだかんだみんな似た者同士だ。

 私は立ち上がって、砂を払った。父の隣を抜けて車へ歩く。助手席の上のメガホンを取った。小学校の運動会で、母が私を応援するためだけに買ったメガホン。あの頃の私も馬鹿だった。不器用な母の精一杯の愛さえ私は拒絶していた。

 朝のおはようも最近は一方通行で、夕方のおかえりにもただいまはなかなか帰らなかった。ずっと与えられるままで、ほとんど返してあげられなかった。それが当たり前だと思ってた。気付かないふりをして、無関心に時を流れてきた。それでも今日は今日で終わる。


 私は力いっぱい叫んだ。


「お母さん大好きだよ!」


 伝えられなかった言葉が寂しい海に響いた。細やかに波打つ海面は月を照り返して輝いた。振り向いた父が、私を強く抱きしめる。私も抱きしめ返した。やっぱり臭い。だけどこれが最後だと思うと、悪臭ですら名残惜しい。父も泣いていた。母も泣いていた。


「ちょっと見ないうちに、ずいぶんと仲良くなったのね」


 涙声に振り返ると母がいた。月明かりに映える白い肌が、暗がりに浮かび上がっている。涙が、底抜けにあふれ出した。メガホンと父を投げ捨てて、母に抱き着く。柔軟剤のいい匂いがした。父よりも柔らかかった。背中まで伸びたサラサラの髪が、こそばゆく手の甲を撫でた。ふと気付いた時にはもう手遅れだった。がっしりと掴んだ私の腕は、お母さんを「お母さん」の立場に再び縛り付けていた。


「ごめんねお母さん。ごめんね」


 私の背中にも腕が回る。謝るくらいなら手放せばいいのに、むしろ何度も母の胸の中で「お母さん」と繰り返した。わんわんと泣く私を撫でるお母さんの手は、世界で一番優しかった。

「お前、俺たちに縛られたくないって。でもこの場所は」

 父の声は、風をはらんだ帆みたいに小刻みに揺れていた。母は私の髪を梳きながら耳元で話す。


「自由に走るのは爽快よ。だけど寂しい。完璧な自由はいつだって孤独と共にある。私は縛られたくないわけじゃないのよ。むしろ縛られたかったの。大好きって言葉に」


 近づくほどに、寄り添うのは難しくなる。もう十分に理解できているから大丈夫だ。そんな思い込みが、私たちから思いやる能力を奪ってしまっていた。愛してもらいたいという当たり前の願いにさえ、私たちは気付けなかった。私も父も馬鹿だ。途方もない馬鹿だ。どうしようもない。世界が終わる間際のどうしようもなく貴重な余生を、ほとんどふいにしてしまった。だからせめて、今だけは無駄にしたくない。私は母に繰り返し大好きをぶつけた。父も叫んだ。


「愛してる。お前を愛してる」


 すると母はくすくすと笑った。涙の雫が私の耳に落ちた。


「私もよ。懐かしいわね。あの日もそうだった。寡黙なあなたからどんなセリフが飛び出すかと思えば、随分と直球で、驚いたのを覚えてるわ。本当に嬉しかった。あぁ私もう自由じゃないんだ、ってね」


 名残惜しさを感じながらも私は母から離れた。ここからは大人の時間だ。だけど歩み寄ってきた父は、私もろとも母を抱きしめた。温かい。とはいえ父の加齢臭はやっぱり鼻にしみる。ほんのちょっぴり冷静さを取り戻した私は、視点を夜空に飛ばしてみた。夜の砂浜で泣き叫び、抱き合う大人二人と中学生一人。夜が明けて日が昇れば、恥ずかしさにのたうち回りたくなるだろう光景だ。だけど私たちに明日は来ない。思う存分に今を生きることができる。

 世界が滅んでくれてよかった。

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