第42話 ただいま。いただきます。

 みらいが帰宅したとき、母はキッチンで夕食をつくっていた。鍋で鶏肉、じゃがいも、にんじん、たまねぎを煮込んでいる。

「ただいま……」とみらいは小さな声で言った。

 久しぶりに母に伝えたあいさつだった。もう何日もまともなあいさつを交わしていない。

 母は目を見開き、みらいを見た。

「おかえり……」と母も小さな声で言った。

 みらいはリビングにあるテレビをつけた。ニュース番組をぼんやりと見た。

 母が鍋にカレールーを投入した。やがて、隣接しているキッチンとリビングにカレーの香りが漂い始めた。

 みらいはふと、我が家のカレーが学生食堂のものより美味しいことを思い出した。

 母はふたり分のカレーをよそい、食卓に置いた。

 みらいはテレビを消し、黙って席についた。カレーを見つめた。鶏肉、じゃがいも、にんじんがゴロゴロと入っている。玉ねぎはトロリと溶けていた。

「いただきます」と彼女ははっきりとした声で言った。

 母が一瞬泣きそうな顔になった。

「いただきます」と母も言った。

 ふたりは黙々とカレーを食べた。みらいはやっぱりうちのカレーは美味しい、と思った。自分でおかわりをよそって食べた。

 食べ終えて、「ごちそうさま、美味しかった」と言った。それから「お母さん、いつもごはんをつくってくれてありがとう。昨日はレコードを割ってごめんなさい」と伝えた。

 母の目が微かにうるんだ。

「私の方こそ悪かったわ……。テープを焼いてごめんね……」

「また録音してもらった」

「そう……。よかったわ……」

 みらいが席を立とうとした。

「ちょっと待って」と母が引きとめた。

 娘は座り直した。

「お母さん、家事をして感謝されたのは初めてよ。嬉しいわ……」

「そう言えば、そうだね。わたしもお父さんもあたりまえだと思って、何も言ってないね」

「お母さんは、感謝されたかったのかもしれない……」語尾が震えていた。

「…………。ありがとう、お母さん、掃除と洗濯をしてくれてありがとう」

 母がぎこちなく微笑んだ。みらいはお母さんの笑顔を見たのはいつ以来だろう、と思った。思い出せないくらい遠い……。

「大変なのよ、家事って……」

「うん」

「みらいはしっかりと勉強しなさい」

「うん。なるべくがんばるよ」

「東大へ……。ううん、なんでもない」

 母はキッチンへ行って、洗い物をした。

 みらいは自室へ行き、ラジカセでブライアン・イーノの環境音楽『アンビエント2』を聴いた。

 静かな雨音にも似た穏やかなピアノ……。

 彼女はしばらく音に身をゆだねてから、英語の教科書を開いた。


※第2部完結です。

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