第20話 わかんない。

「誕生のドラマは神聖にして美しい。世界が変わる」とみらいは1行だけ書いた。

 それっきり彼女の鉛筆は動きを止めてしまった。

 みらいは400字詰原稿用紙を睨みつけていた。

 彼女が部室に来る前に自動販売機で買った缶ココアのプルタブは閉まったままだった。

 みらいは鉛筆を持っている右手だけでなく、全身を硬直させ、微動だにしなかった。

 彼女の周りの空気が凍ってしまったようだった。

 友永は『コインロッカーベイビーズ』を読みつづけていた。

 小島は詩想でも練っているのか、虚空を見つめていた。

 樹子は部室の本棚から萩尾望都の漫画『ポーの一族』第1巻を見つけて喜色を浮かべ、取り出して読み始めた。

 良彦はウォークマンにカセットテープをセットし、イヤホンを耳につけて、ドビュッシーの『月の光』を聴き始めた。

 ヨイチだけがみらいのようすを観察していた。

「つづきが書けない……」とみらいはつぶやいた。

「歌詞なんて書けない……。どう書けばいいのかわかんない。何を書けばいいのかわかんない……」

 彼女は鉛筆を取り落とした。机の上でカランと音を立てて、細長い六角柱の鉛筆が転がった。

「わたしが歌う詞? イメージできない……」

 ヨイチはドクターペッパーをゴクリと飲んだ。のどぼとけが微かに動いた。

「鉛筆を取れ」

「もう今日は鉛筆を持ちたくない。書けない」

「わかんないって、言ったな」

「うん……」

「『わかんない』というタイトルの歌詞を書いてみたらどうだ? いまのおまえの気分を書け」

 みらいはほけっとヨイチを見た。そして鉛筆を手に取った。

 彼女は1行だけ書いた原稿用紙はそのままにして、別の用紙に『わかんない』というタイトルを書いた。

 みらいの右手が活動的になった。

 手がさらさらと動き、鉛筆がカリカリと音を立てて、原稿用紙のマス目が埋まっていった。

 みらいは途中で手動の鉛筆削り器を使用し、HBの鉛筆を尖らせた。

 それからまた書いた。

 やがて彼女は「書けた」と言った。

 樹子が漫画の単行本を閉じ、机に置いた。

 良彦はイヤホンをはずした。

 ヨイチはみらいを見つめつづけていた。

 友永は関心を持たず、村上龍の長編小説を読みつづけていた。

 小島は虚空からみらいの顔へと視線を移動させた。

 みらいはヨイチに2枚の原稿用紙を渡し、彼はそれを読んだ。


『わかんない』


 わかんない わたしはなんにもわかんない

 わかんない とにかくなんにもわかんない

 わかんない いったいどうすればいいの

 わかんない なにを書いたらいいの


 すべて なるようになる

 そんななぐさめなんにもならない


 わかんない わたしはなんにもわかんない

 わかんない どうでもよくなってしまった

 わかんない いったいなにをすればいいの

 わかんない なにを考えたらいいの


 まよいがすべて消え去る

 日は来るのか 明日かあさってか


 わかんない わたしはなんにもわかんない

 わかんない ついになんにもわかんなくなった

 わかんない いったいどうすればいいの

 わかんない 結局どうだっていいんだ


 ああまた うつむいてしまう

 前を向くのは 明日かあさってか


 わかんない 今日はもうわかんない

 わかんない 明日もきっとわかんない

 わかんない 死ぬまでわかんないままなのか

 わかんない 自分がまったくわかんない


 わたしは頭がおかしいの

 あなたも頭がおかしいの?


 わかんない 人生がわけわかんない

 わかんない 生きてていいのかわかんない

 わかんない 作詞なんてわかんない

 わかんない わかんないってことがわかった


 無知の知というやつなのか

 わたしのことばにまったく意味がない


 わかんない わかんない わかんない わかんない 

 わかんないんだよ


 ヨイチはそれを読み、「なんかすげえ……」とつぶやいた。

「おまえすげえよ。たぶんだけど、作詞の才能があるよ……」

 樹子が彼から原稿用紙を奪い取り、みらいがつくった歌詞を読んだ。

 読み終えて、彼女は全身震えながら作詞者に歩み寄り、抱きしめた。

「これでいいのよ。この歌詞を採用するわ。あなたはあたしの期待どおりの人よ!」

 みらいは感動し過ぎて、無表情になっていた。

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