抑圧と鬱屈とした日常

怪物の誕生


私は中学3年生の当時選びうる中で1番良い高校に入り、以来それまで馴染みの深い地元の旧友どもとのよくも悪くも密な人間関係から解放され、新たな人間関係への展望を胸に抱いていた。


が、見事にそれは裏切られる。入学早々私の知らないところで私の知らない人間関係が形作られ、しかし私はその中にはいなかった。


入学早々に行われた校外オリエンテーションのことだった。

「「33、34、35、あ〜」」

クラス対抗の大縄合戦は私が縄に引っかかったことで6位という微妙な結果に終わった。誰も私を責めなかった。それどころかやっと終わったと言わんばかりに雑談し始めた。中学の頃なら名指しでいじられただろうな、と思った。


だけど、曲がりなりにもあの試験を潜った人間の集団は、調和を重んじ、クラスになんの問題もないように振る舞うのが得意だった。だから特段誰からも話しかけられず、話しかけもしなかった私が大縄に引っ掛かるという失態を犯したところで、クラスとしては触れないのが正しい挙動だと無意識に判断したのだろう。


思えばほんの少しの積極性があれば違ったのかもしれない。でも当時の私はそうではなかった。私は物理的にはクラスにいるが、その中にはいない存在だと感じていた。


ささいに重なったこの種の出来事が、「私はこのクラスの中にはいない。私は傍観者でしかない」という観念を育てていった。


私の自尊心は傍観者でしかいられない私を決して認めはしなかった。やがてそれは「クラス対私」という対立を思考し始める。


この頃の私は得意だった学業が不振になり始めた。一緒に勉強する友達できなかったし、そもそも学校にいることに疲れを感じるようになっていたからだ。


クラスに馴染めず、成績も振るわない私は、学校が嫌になった。


ある日、行きの電車が人身事故で遅延を起こした。私は2限から学校に入った。1限が嫌いな数学だったからその日は少しだけ気が楽だった。その日の昼、ふと窓辺で思った。


「学校、無くならないかなあ、なにか全部壊れちゃったりして」


ふと、今朝の電車の中吊り広告を思い出した。


夏休みに公開される映画のポスターだった。怪獣映画だった。


「怪獣かあ」


5限の英語の予習が終わっていなかった。そんなことはどうでもよかった。机に意味もなく開かれていいる予習ノートの右端に、小さく怪獣の絵を描いた。


「こいつ、なんて名前にしよう」


ふと予習ノートを見ると、二つの英単語が並んでいた。


Inner:内側の、内なる、下着

beast:怪物、野獣


痛いなあと思った。でも運命だと思った。


(お前の名前は、インナービースト。私の心の内なる怪物インナービースト


(って痛すぎるだろ私!痛い痛い!正気か?)


私はにやけた。羞恥心に苦笑いするのが9割9分、でもその中には確かに1%の高鳴りがあった。このくだらない日常を打破する、衝撃的な妄想を発明してしまったのだから。


クラスメイトが目の前を通ったので咄嗟にノートを閉じた。いくらクラスでだれも私を意識しないと言っても、ヤバいやつと思われたら嫌だと正気に戻ったのだ。


とにかく、これが私の怪物の誕生である。

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