哲学的眼鏡

伊瀬ハヤテ

第1話

「杉原、ちょっと言いたいことが……」

「ん? なにこれ?」


 僕の話を無視して道端にしゃがみ、立ち上がる杉原雅俊の手には眼鏡が握られていた。銀のフレームに薄いレンズがはまったオーソドックスなタイプだ。

 僕はまたタイミングを逃した、と口の中に用意していた言葉を飲み込み、小さく溜息をついた。


「眼鏡だよ」

「それはわかるよ。でも眼鏡が落ちてるって変じゃない?」


 眼鏡は視力の低下が生活に支障をきたす人が持つもので、落とした時点ですぐに気づくと、杉原は言いたいのだろう。

 しかしその他にも眼鏡には用途がある。例えば。


「あ、これ伊達眼鏡だ」


 どう? かっこいい? と杉原はそこらへんに落ちていた眼鏡をかけてはしゃいでいる。

 こういうところが藤村直樹は友人としてはちょっと気になる。僕ならそこらへんに落ちているものを拾わないし、それを自分の顔にかけるなんて絶対にしない。


「汚いって」

「いや、割と綺麗よ。よく見える」

「そういう問題じゃなくて」


 これ以上言っても無駄だな、と口を閉じると代わりに杉原が大声をあげる。


「犬だ!」


 杉原は急いで僕の後ろへ隠れる。しかしどこを見ても犬の姿はない。


「犬なんていないぞ」

「いやだって……あれ? さっき眼鏡外そうした時に」


 そこへ急に角から柴犬が走ってくる。


「わ! さっきの犬!」


 杉原は再度僕の後ろへ隠れるがピンクの首輪をした柴犬は僕たちに目もくれず道の果てまで突っ走っていった。


「びっくりした……」

 背中にくっついた杉原を引き剥がす。さっきの柴犬、どこかで見た気もするが、それよりも杉原の言葉の方が気になった。


「さっきの犬ってどういうこと?」

「知らねえよ。さっき眼鏡で……あ」


 杉原は手に持った眼鏡をかけ直し、片目ずつ閉じては開けてを繰り返す。友人から下手くそなウインクをされ続け、僕は訳がわからない。


「なにしてんの?」

「これな、左目で見ると直樹がいなくなるんだよ」

「は?」


 ほら、と手渡され嫌々ながらに眼鏡をつまんで覗き込む。しかし両目で見ても左目だけで見ても景色はなにも変わらなかった。やはり度が入っていないただの伊達眼鏡のようだ。


「いや、ちゃんと見える……うわっ!」

 眼鏡を外す途中、右目だけでレンズを見るとそこには杉原が僕めがけて拳を振り下ろす姿が写っていた。慌てて尻餅をつき、尻に鈍痛が走るが、杉原に殴られたはずの右頬は全く痛くない。


「どうした? なにが見えた?」

「杉原に殴られるところ」

「一応言っとくけど俺は殴ってないぞ」

「わかってるよ」


 差し出された杉原の手を掴み、立ち上がる。


「さっき、眼鏡で犬見た時ってどっちのレンズで見た?」


 杉原はうーんと唸りながらパントマイムで眼鏡を外すふりをする。


「多分右だったかな」


 右目のレンズで見た柴犬が数秒したら現れ、左目のレンズで見ると俺がいなくなる。つまり。


「これ、右のレンズは未来の出来事が見えて、左のレンズは過去の出来事を見えるんじゃないか?」

「じゃあなんで両目で見たらなんともないんだよ」

「過去と未来を同時に見ると今が見える、みたいな」

「随分と哲学的ですな」


 バカな庶民にはわかりまへんわ、とわざとらしいコテコテの関西弁を使う杉原は二ヶ月前に修学旅行で大阪に行ってからと言うもの、こういう時になると関西弁を使うようになった。こういう時というのは、大概、俺をバカにする時だ。こいつの方がバカなのに。


「あれ?」


 左目の瞼を無理やり閉じて、顔がしわくちゃになっている杉原は未来を見ている。


「俺と直樹が握手してるぞ」


 杉原から眼鏡を受け取り、顔にかけて左目を閉じると右目にはやはり先ほどと同じように杉原に殴られている僕の姿が見えた。


「やっぱりお前に殴られてるわ」

「じゃああれかな、俺ら今から喧嘩して、男の友情だ、って握手するんかな?」

「さむいな」

「そうか? 俺そういう展開好きよ」


 そんな展開になるのはいやだが、杉原のいう通りかもしれない。

 さっきの柴犬が現れたのは未来を見て十秒くらい。しかし僕たちはここへ二分前にはいたから、僕たちがいない、つまり見えなくなった過去の景色は二分以上前のことになる。

 過去や未来が見えてもそれがいつの出来事なのかはわからないということだ。

 ぶつぶつと思考しているとすぐ隣で杉原は雷に打たれたように体をびくんっと震わせ「あ!」と叫んだ。


「びっくりした……何?」

「いいこと考えた!」

「絶対にいいことじゃないだろうけど、で、なに?」

「でも言ったらお前真似するだろうしなー」

「うるさ……」


 言いかけて急いで口を閉じる。僕はどうやらこいつに殴られるらしい。たとえそのあと仲直りするとしても殴られないことに越したことはない。言動には気をつけよう。


「ま、真似しないから、ぜひ教えて欲しいなー」


 しょうがないなー、とあからさまに調子にのるこいつを僕が殴ってしまいそうだ。もしかしたらあれは僕が殴った後にやり返しとして殴られた時の光景なのかもしれない。


「この過去を見る左のレンズで、放課後の誰もいない教室で瀬山さんの席を見る!」


 は?

 瀬山という名前を聞いて、僕の思考は一気に鈍った。瀬山さんはうちのクラスの一番人気の女子だ。


「するとだな、三百六十度どこからでも瀬山さんを眺められるというわけだ。どうだ、すごいだろ! 名付けて、VR瀬山さん」

「くだらない」


 あ。

 つい、心の声がそのまま声に乗ってしまった。

 きっと杉原にとっては世界を揺るがすような大発見だった。それをしょうもないと切り捨ててしまった。杉原の顔がみるみる赤くなっていく。


「お前はな! いつもそうやって頭いいぶりやがって。そういうところがな、ムカつくんだよ!」

「ごめん、だけどそれは良くないんじゃないかな」

「わかってるよ! 本当にそんなことしねえよ! そういうノリとかギャグがわかんねえからお前、俺しか友達いねえんだよ!」


 かちん。

 確かに、友達と呼べる人間は杉原だけだった。だからこそ、本当のことを言われて頭にぐわっと血が上る。


「そんなこと知ってんだよ! お前だってな! バカすぎて周りに引かれてんだよ! それにすら気づかないお前が僕は羨ましいね!」


 一息にいい終わり、息を吸うと頭の熱が冷めていく。

 やばい、言ってしまった。

 殴られてしまうと目を瞑るが、杉原は一向に殴りかかってくる気配は見せない。


「……殴らないのか?」

「もういい。お前とは絶交だ」


 踵を返し歩き出す杉原の背中を見てある言葉を思い出した。

 人生とは選択の連続だ、と。

 きっとこの眼鏡で見たように、僕たちが握手をする未来だってあったはずだ。なのに、僕は一時的な怒りでその未来を手放してしまった。

 しかしまだ、未来は決まっていない。


「ごめん! 言い過ぎた!」


 遠のく杉原に頭を下げる。久しぶりに大声を出して喉が針で刺されたように痛んだ。

 この眼鏡は未来が見える右レンズ、過去が見える左レンズ、その両方を重ねて今、現在が見えている。

 過去と現在と未来。それらすべてが関係しあい、影響しあうのならば、過去の過ちを今償えば、未来を変えることだってできるはずだ。

 頭を上げると杉原は目の前に立ち、腕を上げていた。殴られる、と構えたがその腕はゆっくりと差し出され、握られた拳は優しく開かれる。


「俺も言い過ぎた。ごめんな」


 その手を僕はしっかりと掴む。

 僕たちは今、仲直りの握手をした。

 杉原の手と一緒に、僕は未来を掴んだのだ。


「直樹、またなんか哲学的なこと考えてただろ」

「……別に考えてないよ。てかなんだよ哲学的なことって」


 杉原は笑い、僕もつられて笑ってしまう。


「おーい!」


 遠くから聞こえた声の先には瀬山さんがいた。


「せ、瀬山さん?!」


 途端に杉原は顔を赤らめる。

 瀬山さんは随分と疲れている様子で息遣いが乱れている。呼吸に合わせて胸が膨らみ、前髪が汗に濡れておでこにピタリとくっついている。僕の視線に気づいたのか瀬山さんは恥ずかしそうに前髪を整える。

 そんなところも可愛らしい。


「うちのペットが逃げちゃったんだけど、二人とも見てない?」

「ぺ、ペットっていうか、犬なら向こうの方に……」


 瀬山さんの問いかけに、僕は思い出す。先ほど感じた違和感。柴犬のピンクの首輪に対する既視感の正体を。

 それは先日、初めて瀬山さんの家に遊びに行った時に見たものだった。


「さっきの小春か! なんか見覚えあるなと思ったんだ」

「小春? なんで直樹が瀬山さんのペットの名前……」

「なおくん見たの?」

「なおくん?!」

「小春ならこの道を真っ直ぐ走っていったよ」

「わかったありがとう!」


 瀬山さんは息を整えながら、今更僕の顔の変化に気づいたようにぐいっと顔を近づける。


「眼鏡、似合ってるね」

「そ、そうかな……」


 瀬山さんはふふ、と微笑み、僕の肩に手を置く。


「また明日、家でね」


 そう耳元で囁くと、次の瞬間には瀬山さんは走り出していた。

 僕はぼんやりと遠のく瀬山さんの背中を見送ると、すぐ隣の殺気に気がついた。


「お前、瀬山さんとどういう関係だよ。家ってなんだよ」

「あ、いや……」


 言い訳はたくさん浮かんだ。瀬山さんと交際を始めたのはつい一週間前だとか、みんなには内緒にしてほしいと言われていたこととか、だけど唯一の友達である杉原にだけは伝えておきたいと思っていたがタイミングを逃していたこととか。

 しかし、それらが口をつく前に杉原の腕はすでに高く上がっていた。


「この裏切り者が!」


 杉原の拳が振り下ろされる様子を、僕はレンズ越しの両目で見つめる。


 終わり。

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