サオリは、看護師の白衣に着替えていた。足元には、輸血用の血液を運搬する大型の保冷バッグが置いてある。

 高木が用意したものだ。ソフトバッグのジッパーを開くと、パッケージから取り出した医療用麻薬が隙間なく詰められていた。思わず独り言が漏れる。

「オタクって、ホント、几帳面なんだよね……」

 後は、階下の適当な部屋に身を潜ませればいい。

 人質を処分する準備は終えている。犯人一味を処分する準備も終えている。

 犯人が逃亡した後に病院で大爆発が起きれば、警察が突入する。救急隊員も救助に駆けつける。人々が行き交えば、混乱が起きる。

 身をくらませる隙は、いくらでも生まれるのだ。


          *

 

 廊下に出た。這いながら、周囲を見渡す。

 ここは、北側の廊下だ。場所が変わってなければ、人質たちは南側にいる。デイコーナーを横切らなければならない。だが彼らを救出できれば、手助けがしてもらえる。彼らからヘリに警告を――。

 だめだ! 私が話せない! まだ言葉を出せない! iPodがなければ、危険を知らせられない!

 いや、今は考えるな!

 助けるんだ! 助けなければ、このまま全員が死を迎える。

 人質さえ救出できれば、何とかできると信じろ……。

 半身で這うことにも身体が慣れ始め、進むスピードも上がっていた。呼吸が苦しくなることも少なくなり、息継ぎの間隔も長くなっている。

 どこかに、つけっぱなしになったテレビがあるようだ。緊迫したアナウンサーの声が聞こえる。

『今、ヘリコプターの離陸が確認されました! 病院の屋上からヘリが飛び立ちました! 犯人グループの二人と、人質一人が同乗しています。人質の女性には、またしても手製のダイナマイトのようなものが取り付けられています。その他の犯人は、どうしたのでしょうか? それとも、犯行はこの二人だけによるものだったのでしょうか? 依然、事件の詳細は確認されていません。警察の発表によると、犯人グループは――』

 テレビの声も、聞き取りにくい。音が、波のように揺らいでいる気がする。時折、ふっと気が遠くなる。

 薬のせいなのか⁉ 出血が多すぎるのか……?

 だめだ! 耐えるんだ!

 まだだ! お願いだ、もう少し待ってくれ! あと少しだけでいい! まだやることがあるんだ!

 デイコーナーに散乱する障害物をよけながら、這い進んだ。その間も、血液は漏れ出ている。脳の血管が破れる危険もある。

 だが私には、もはやこれしか、できることはない……。

 これしか……。

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