第102話 漫画家の卵の憂鬱

 ゆいが漫画家という夢に向かって頑張り始めてから三カ月。季節はすっかり秋になったどころか、最近では冬の気配も感じられるようになってきた。


 あの日から、ゆいは毎日すぐに家に帰り、漫画の練習に没頭するようになった。その集中力はすさまじく、毎日遅くまで練習していた。それこそ寝食を忘れてしまうほどに。


 体育祭の時に頑張っていた姿を見てたから、努力家なのは知っていたけど、正直ここまで没頭するとは思ってなかった。


 だから、俺はゆいの生活を全面的に支えることを決めた。具体的言うと、ゆいの食事の用意をしたり、掃除をしたり……身の回りの世話って感じだ。


 とはいえ、俺は家事能力は高くない。だから、ソフィアに頼んで色々教えてもらう事で、何とか今日までゆいを支える事が出来た。


 そんなある日の放課後、いつも元気なソフィアが、真剣な表情でやってきた。


「ねえハル、ちょっと気になったんだけど」

「なんだ?」

「最近のゆいちゃん、なんか少し変じゃない?」

「……ソフィアもそう思うか?」


 実は、ここ一週間ほどゆいの元気がない。上の空だし、時折溜息も漏らしている。でも、聞いても顔を赤くするだけで答えてくれないんだ。


「なにかあったの? あ、もしかして! ハルがゆいちゃんに酷い事をしたとか!?」

「そんなわけないだろ」

「だよねぇ……ゆいちゃん大好きっ子のハルが、ゆいちゃんの嫌がる事をするわけないもんね」

「そうだな」


 大好きっ子って……間違ってないけど、なんか体がむずがゆくなる呼び方だな。


「ちゃんとゆいちゃんを支えないとメッ! だよ。それと、最近も夢のために頑張ってるんでしょ? 頑張るのは凄いけど、たまには息抜きは必要だよ」


 ゆいの漫画家になるという夢を知っているソフィアは、俺の胸元を指でぐりぐりしながら言った。ちなみに、夢については西園寺先輩も知っている。


「ああ、わかったよ」

「わかればよろしい! それじゃアタシは帰るね~。あ、今日もゆいちゃんの家に行くでしょ? あんまり遅くならないようにね~」


 そう言いながら、ソフィアは手を振って教室を後にした。


 ゆいの元気のない理由か……考えてもわからないんだよな。天条院にいじめられてるわけでもないし、毒親が接触してきた感じもしないし。


「……うーん、わからん……」


 ゆいを迎えに行くために、ゆいの所属するクラスまで向かう途中に考えてみたけど、見当がつかない。やっぱり本人に聞くしかないか。


「おーい、ゆいー」

「あ……陽翔さん……一緒に帰りましょう」

「ああ」


 迎えに行くと、ゆいはいつもの様に微笑みながら、俺を出迎えくれた。でも、よく見ると……やっぱりいつもより元気が無さそうに見える。


「陽翔さん……? どうかしましたか?」

「いや、なんでもないよ。帰ろうか」

「はい」


 咄嗟に誤魔化した俺は、ゆいと一緒に学園を後にする。帰り道は、当然のように手を繋いで帰っている。別に学園でも隠してないしな。


「あ……あの車……」

「今日も守ってくれてるみたいだな」


 ゆいの視線の先には、閑静な住宅街には全く似合っていない、黒の高級車が停まっていた。


 あれは西園寺家に仕える特殊部隊の人の車だ。以前にゆいを守るためについてくれた人達が、今もこうしてゆいを守ってくれている。


 ゆいが襲われた日以降、一度も襲われてないから、もう護衛はいらないんじゃないかって思うかもしれないけど、あの天条院の事だから、いつ仕掛けてくるかわからない。用心に越した事はない。


「ゆい、今日食べたいものはあるか?」

「きょ、今日も用意してくれるんですか……? 今日はゆいがやりますよ」

「なに言ってんだ。ゆいには夢のために頑張ってほしいんだから、これくらいはさせてくれ」

「夢……」


 元々あまり元気がなかったのに、夢という単語に反応するように、ゆいは更に暗くなってしまった。


 もしかして、元気が無い理由は漫画関係か? それならどうして隠しているんだろうか? 別に隠すような内容とは思えない。


「なあゆい、最近元気が無いけど……なにか漫画の事で悩んでるのか?」

「ふぇ!? そ、そんな事ないですよ!?」


 わ、わかりやすすぎる……こんな露骨に動揺する人っているんだな。俺の彼女可愛すぎないか?


「力になれる事なら協力したいから、話してくれないか?」

「いいんですか……? ご迷惑じゃ……」

「恋人の力になれないなんて、彼氏として失格だからな」

「こいっ……かれ……にぇひひ……」


 普通に答えただけなんだけど、ゆいは表情を緩めまくり、終いには立てなくなってしまった。


「大丈夫か?」

「はい……陽翔さんが嬉しい事を言ってくれたから……体から力が抜けちゃいました」

「そ、それは申し訳ない」

「いえ、嬉しかったですから。さあ、早く帰って今日も練習です。それと……帰ったら、お話します」


 ゆいは俺の手に指を絡めて恋人繋ぎをすると、一緒にゆいの家に向かって歩き出した。



 ****



「ただいま」

「おじゃまします」


 今日もボロボロな、ゆいの住むアパートについた。初めて来た時から比べると、物が増えて少し散らかっちゃってるな。


「それで、話って?」

「元気のなかった理由です。実は……漫画の事で悩んでて」

「うん」

「甘酸っぱい恋来漫画で……よくあるんですよ。お約束みたいなの! でも……ゆいはされた経験も無いですし……恥ずかしくて……」

「ちなみに、そのお約束は?」

「……壁ドン、顎クイ、お姫様抱っことか……」


 そうそうたるメンバーが揃ったな。確かにこれは普通の人間じゃ、してもらう機会の方が少ないだろうよ。


「実際にしてもらうのが一番ですが、そんな恥ずかしい事……頼めなくて……」

「俺に任せてくれ! これでも彼氏なんだから、やる資格はある……と思う。あってほしい!」

「……いいんですか?」

「もちろん」

「ではお願いします! 後で見返したいので、スマホで撮っておいてもいいでしょうか?」

「お、おう」


 記録を残しとくのか……ちょっと恥ずかしいけど、これもゆいのためと思って我慢我慢。


 そうと決まれば、まずは壁ドンからだ。えっと、確か女の子を壁の方にやって、逃げられないように壁に手をついて……こうでいいのか?


「これでいいか?」

「は、はい……」

「…………」


 あ、あれ……? 壁ドンって存在は知ってるし、こんなの別にドキドキしないだろなんて思ってたけど、ゆいの顔が間近にあって、体温や鼓動も感じて……そ、想像以上に緊張する!?


 この状態から顎クイにお姫様だっこって……た、耐えられるのか俺!?

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