第34話 神の如き舌を持つ彼女の前では
木製の深底の器にたっぷりと海の悪魔の地獄鍋を装ったタラサさんが、笑顔で俺たちに器を差し出してくれる。
「さあ、どうぞ。熱いので気を付けてお召し上がりください」
「はい、ありがとうございます」
「うむ、いただくのじゃ」
ホカホカと湯気を立てている木の器を受け取った俺とエレナは、同じように手渡された木の匙を使って赤いスープをかき混ぜる。
ややとろみがついたスープをかき混ぜると、程よく柔らかくなった野菜の中からゴロリとしたカイナッツナの身が出てくるので、俺はひと口大となった赤い身を掬ってスープと一緒に頬張る。
「――っ!?」
その瞬間、濃厚な潮の香りが鼻孔から脳へ突き抜け、目の前に広大な海が広がった……ような気がした。
まるでグルメ漫画にありがちな衝撃の光景を垣間見た俺は、一体何事かと目を白黒させるが、
「――っ、はふっ! はふっ、はふっ……」
思い出したかのように熱々のスープが口内を支配し、俺は慌てて口内に空気を取り込みながらスープを冷ます。
予想はしていたのだが、スープは片栗粉等でとろみを付けた時と同じように、かなり冷めにくくなっているようだ。
「はふはふ……」
少しびっくりしたが、十分にスープを冷ました俺は、改めてカイナッツナの身を舌に乗せてゆっくりと味わう。
あまり火は通っておらず、レア状態のカイナッツナの身は、歯で簡単に噛み切れるほど柔らかく、噛むほどに赤身魚の味がしっかりと感じられる。
しっかりとよく噛んでカイナッツナの身を飲み込んだ俺は、それが事前に予想していた通りの味だと知り、頷いてその正体を告げる。
「うん、これは……マグロに非常に似ていますね」
「そうです。流石ですね」
俺の感想に、ヒンメルさんが大きく頷きながら説明してくれる。
「実はカイナッツナはマグロの仲間なんです……ただ、その中身は他のマグロとは随分と違いますけどね」
ヒンメルさんは苦笑しながら埠頭の方へと目を向けると、懐かしむように静かに話す。
「私が子供の頃はカイナッツナに一方的にやられるばかりでしたが、ミスラル銀の普及のお蔭で、私たちでもあの海の悪魔に一矢報いることができるようになったんです」
「なるほど……」
どうやらここでもミスラル銀の恩恵が活きているようだ。
俺はヒンメルさんたちフロッセの街の漁師たちが、どうやってあの巨大なマグロを捕獲できるようになったのだろうと考えながら、再び赤いスープを口にする。
「うん、おいしい」
さっきは謎の景色を見たことの驚きと、カイナッツナの身に夢中になっていたが、この赤いスープも非常に美味なことに気付く。
実を言うと、調理をしている最中からこの『海の悪魔の地獄鍋』はある料理と似ていると思っていた。
その料理とは、スペインはバスク地方で食べられる郷土料理、マルミタコだ。
マルミタコはマグロのぶつ切りを野菜と一緒に煮て作る料理で、俺も実際に食べたことがあるが、一言で言うとマグロのあっさりトマトスープだ。
ただ、調理方法や色味や風味はマルミタコと似ているのに、この地獄鍋は一味違っていた。
マルミタコと似た調理工程から優しい塩味のスープかと思っていたが、意外なことに赤いスープの見た目に負けないほど攻撃的な魚介の味がして、むしろトマトは風味程度にしか感じられない。
どうして同じような調理方法なのに、ここまで味わいが違うのか? 疑問に思った俺はタラサさんにその秘密を尋ねることにする。
「なんていうか……魚介が凄く味わい深いんですけど、これはマリーゼが入っているからですか?」
「ハルトよ。ただ味わい深いだけじゃないぞ」
俺の感想に、優れた舌を持つエレナから注釈が入る。
「確かにこの味を生み出している多くはマリーゼじゃが、それだけじゃない。このスープの塩気の中に仄かに海を感じるのじゃ」
「海を感じるって……それがマリーゼの効果じゃないの?」
なんてったって、マリーゼは別名「海の恵みの結晶」と呼ばれるくらいだからね。
「だから違うといっておろう!」
だが、エレナは大きくかぶりを振ると、タラサさんに木の器を差し出しながら尋ねる。
「おい、タラサとやら、このスープの中にはマリーゼ以外に何か……そう例えば海水そのものが入っておるじゃろう」
「……驚いたわ」
エレナの指摘に、タラサさんは目をまん丸に見開いて彼女の疑問に答える。
「エレナちゃんの言う通り、実はスープの一部に海水を使っているの。そうすること
で普通に塩を入れるより、カイナッツナの身からより多くの旨味が出るだけじゃなく、全体的に味に締まりがでるのよ」
「えっ、そうなんですか? でも、いつの間に……って、あっ!」
そこで俺は、ヒンメルさんが鍋に入れた三本目の瓶の存在を思い出す。
それまでの二本に比べて若干量が少なかったあの瓶の中身は、水じゃなくて海水が入っていたようだ。
そしてスープに海水を使うと聞いて思い出すのは、沖縄で有名なマース煮という料理だ。
マース煮とは、水に塩と泡盛だけ入れて魚を煮る料理で、非常にシンプルな味付けにも拘わらず、とびきり新鮮な素材を使えば、普通の煮魚より美味いと言われている料理だ。
漁師の中にはマース煮を作る時に泡盛も使わず、海水だけで作る人もいるそうで、好みは分かれるそうだが好きな人には溜まらない料理だ。
だが、よくよく考えれば、海で取れた魚を海そのもので煮れば、その親和性もあって何かしらの相乗効果があっても不思議じゃない。
その真偽のほどは定かではないが、この料理には海水という隠し味によって旨味がますことは間違いないようだ。
「なるほどね……」
地獄鍋の味の秘密を聞いた俺は、再び赤いスープをスプーンで掬って食べる。
「うん!」
しっかりと味付けされた濃厚なスープに炒められた野菜とカイナッツナの身、そのどれを食べても美味で、いくらでも食べられる。
惜しむらくは、そのおいしさの秘密をエレナは気付いて、俺は気付くことができなかったことだ。
プロの料理人としてエレナに舌で負けるのは悔しいが、そこは彼女の実力を認めざるを得ない。
ただ、このまま終わりにしてしまうのは、それはそれで面白くない。
「…………」
「ハルト、どうかしたのか?」
カイナッツナの身を凝視したままいきなり動きを止めた俺を見て、エレナが心配そうに声をかけてくる。
「どうした? 腹でも痛いのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
カイナッツナの身を見つめていた俺は、
「よしっ!」
気合を入れて一気にスープを食べ切ると、木の器を置いて立ち上がる。
「ごめん、ちょっと行ってくる」
「行くってどこにじゃ? って、おい、ハルト!?」
「すぐ戻るからちょっと待ってて」
背後からエレナの驚いたような声が聞こえたが、俺は振り返ることなく目的のものを集めるために動き出した。
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