『少女歌劇レヴュースタァライト』感想 あえて「わかります」といっておく

 今更ながら全部見ました。驚いた。こんな大傑作を今まで見逃していたとは。テレビシリーズ放映時から一応名前知ってたんですが、当時でさえ女子高生がなにかやる類のアニメはもう食傷気味だったし、今更舞台演劇かーとか思ってみてなかったんですよね。ブシロアニメだし。とんでもない。逆になぜこれが今までもっと大きな話題にならなかったのか不思議でしょうがない。以下簡単な感想と少し気になった点を。


 監督の古川知宏は幾原邦彦の弟子らしい。なるほど確かに作品のテーマや映像つくりの随所にそのエッセンスを垣間見ることができる。「アタシ再生産」のキャッチコピーからもわかるように、この作品は70年代から続く本邦大衆消費社会における「少女」がいかに大人になっていくかの物語だ。この鍵括弧付きの「少女」とは大塚英志が『少女民俗学』のなかで指摘した民俗学用語の常民性としての「少女」だ。つまり「少女」とは今日の日本の大衆消費社会に生きている者なら誰しもそうであり普遍的にもっているものだ。幾原邦彦は、その「少女」がいかにして成熟できるかということを今に至るまで考え続け物語としてその都度提示する作家、だと理解している。そしてその主題は弟子である古川知宏にも受け継がれているように思える。主人公愛城華恋がレヴューに立つために変身するバンクでは、舞台の上の「私」は衣装や化粧品などの商品によってつくられていく描写がなされる。これはまさしく「かわいい」商品を消費することにより「私」をつくりあげ「私」を発露した、今日まで続く大衆消費社会に生きる「少女」としての描写だ。そしてその「少女」である主人公愛城華憐を含めた9人の女の子たちが舞台演劇を通していかに成熟していくかがこの作品では描かれる。

 彼女たちは、現実の聖翔音楽学園の舞台とは別にその地下にある謎の劇場でトップスタァになるために謎のオーディションを受ける。そこにはしゃべるキリンがいたり、裏方もいないのに舞台装置が動いたりと浮世離れした世界観となっている。

 ぼくはまず彼女たちがその世界観に最初こそ驚きととまどいは見せるものの、すんなりと受け入れ舞台に立つところが気になった。もちろんそこで大きく動転してしまうと物語としてテンポよく進まないからという作りての事情もあるだろうが、ぼくは視聴者としてこれを解釈して読み解いていきたい。そのために考えたいのはそもそもあの謎のオーディションにおいて彼女たちは何役として舞台に立っているのかということだ。これはテレビ版、総集編版、劇場版、全編にまたがる話でもある。

 シナリオは架空の戯曲『スタァライト』であることが示されておりそれは彼女たちにとっての現実である聖翔音楽学園99期生が聖翔祭にて演じる演目だ。フローラとクレールというふたりの少女が星を摘むために塔へと昇ろうとしそこで塔を守る6人の女神と相対する内容となっている。だが謎のオーディションにおいては『スタァライト』のレビューを演じているとは示される一方で彼女たちはフローラやクレールや女神たちを演じている様子ではなく、「私」として舞台に立っているようにみえる。だが「私」として舞台に立ちながら「私」としてただあけすけにふるまうのではなく彼女たちはあくまで演技をしているのだ。それはつまり「私役」を「私」が演じているということになる。これは例えば私小説における「私」とほぼ等しい。私小説とは、作家自身の「私」がキャラクター化されていることが作家によって自覚され、なにがしかの形でそれが文章として反映されてなければならない。そうでなくては小説には、表現にはならない。私小説が言語空間による虚構であることはいわずもがなだが、しかし私小説における「私」は作家自身によって虚構であることが自覚されず、あるいは無自覚にキャラクター化されそこで屈託なく作家自身の「私」が発露されるということがしばしば起こりうる。確かに彼女たちが現実で語る「私」と舞台上で発露する「私」もほぼ重なりあっているようにみえる。だがまったく同一とも言い切れない。むしろあの舞台でしかいえないことを舞台上の「私」がいうことで現実の「私」が無意識に隠ぺいしていたことをつまびらかにすることもあるし、舞台上での対話が現実の人間関係を変えてしまうこともある。その意味では現実と虚構の二項対立は文学や漫画、アニメをフィールドにするともっともにみえるが、実はまやかしでしかないのではないか。彼女たちは舞台役者としてそのことを無意識的にでも体感しているからこそ、現実と虚構をすんなりと行き来できるのではないか。


 オーディションに合格できるのはひとり。合格できなかった者は舞台少女としていちばん大切なキラめきを失う。それがオーディションのルールだった。テレビシリーズおよび総集編版においては一度はキラめきを失った神楽ひかりがそれでもわずかに残ったキラめきを認められ日本で再戦するが、このキラめきとは舞台少女としてある理由、すなわち「私」を形作るうえで最も大切なものなのだろう。神楽ひかりがトップスタァとなり皆のキラめきを奪わずひとりでそれを引き受けたことにより彼女は虚脱状態で塔に幽閉されるが、しかしキラめきを奪われていないはずの愛城華恋もまたまるでロンドンでキラめきを失った神楽ひかりと同じように舞台に立つ理由を失ってしまう。それは彼女の舞台少女としての「私」が、神楽ひかりという存在によって強固にあれたからだ。

 少し余談になってしまうが古川知宏へのインタビュー記事で愛城華恋について少し気になる言及があった。


 劇場版が愛城華恋の話になったのも、小山百代さんの華恋を演じることの難しさについての話が影響しています。舞台経験が長く、深い内面性のある小山さんに、作劇の都合とは言えテレビアニメの所謂「主人公的キャラクター」を演じさせてしまった。その結果、愛城華恋が「キャラクター」になってしまったと思います。当然、登場人物は全員「キャラクター」ではあるのですが、特に華恋は作り手の都合に影響された部分が大きかった。愛城華恋だけ人間じゃないままこのテレビアニメが終わってしまったと自分も思っていました。愛城華恋をテレビアニメを進行するための舞台装置として機能させてしまった。(中略)つまり、テレビアニメ・舞台を通して小山さんという「生身の人間」が華恋とともに生きたからこそ、映画で「愛城華恋を人間にする」ことができた。

          (https://creatorsmap.jp/comic-channel/interview/481.html)


 単なる語彙の問題でしかないのかもしれないが、ぼくはむしろ劇場版で愛城華恋は完全なキャラクターになったという解釈だ。

 それまでの愛城華恋は確かに監督も認める通り舞台装置としての側面は大きかったように思う。しかしそれがすなわち監督のいう「生身の人間」ではないということにもならないと思う。なぜならインタビューの中でキリンの「わかります」というセリフが監督自身の口癖であることが明かされているがあのキリンもまた舞台装置としての側面が大きく、つまり愛城華恋と似た存在(正確にいうなら愛城華恋がキリンと似た存在)としてあるが、それはエンターテインメント作品であり集団制作物でもあるアニメーション作品にもかかわらず「私」こと古川知宏自身の自意識が意識的にしろ無意識的にしろ表出されるための器としてあのふたりがあったということだ。それはむしろ「生身の人間」により近かったのではないか? だがまず総集編版において大場ななを語り部に置くことにより愛城華恋が客観的にひとりのキャラクターとしてみられよう仕向け、劇場版で過去を肉付けし神楽ひかりの詰問によって舞台に立つ根本的な理由を絞り出させることで、すなわち愛城華恋にとっての「私」を絞り出させることで、愛城華恋はキャラクターとなったのだ。だが古川知宏が人間を言語空間で生きる人工的な存在と解釈しているのなら人間をキャラクターと言い換えても通じるのでこれはここまでの指摘にとどめたい。ただこれに関連してぼくが最も気になっているのは、ならば劇場版の神楽ひかりはどうだったかということだ。神楽ひかりが露崎まひるとの競演のレビューで愛城華恋のもとから逃げた理由として絞り出した「怖かったから」は、愛城華恋が絞り出す「わたしもひかりに負けたくない」に比べるとどうしても説得力に欠ける印象を受ける。それは劇場版において神楽ひかりが監督のいう舞台装置になってしまっているからではないか。神楽ひかりの「怖かった」は、自主退学してロンドンに戻るくらいのものなのだとすれば、それ相応の説得力をもたせるために監督のいう「生身の人間」としての描写が必要だったようにぼくは思う。


 さて、では愛城華恋は果たしてどのようにして成熟を果たしたのだろうか? そもそもここでいう成熟とはなんなのだろう? 

 総集編版のラストにおいて舞台少女の死なるものが示され劇場版では大場ななが「再演の果てにわたしたちの死をみた」といった。この死とは比喩的な意味合いだろう。たとえ舞台少女として死んだとしても彼女たちの現実の肉体が死をむかえるわけではない。

 しかし「私」は? 肉体は明確にひとつだが「私」はそうとも言い切れない。舞台上の「私」と現実の「私」は舞台演劇を蝶番にして往還しそれぞれに影響を与え合っている。混然一体とまではいかないにしてもほぼ不可分であり容易に分離できるものでもない。繰り返すが現実と虚構の二項対立はやはりその意味でまやかしでしかないのではないか。「私」とは常に外部と接触することによってでしかその輪郭を確かめることはできない。舞台演劇であれば共演者や聴衆がいなければ舞台上の「私」は「私」を確かめるすべがないし、舞台も成り立たない。つまり「私」とは常に他者をみとめ理解しようとすることでしか確認できないものなのだ。愛城華恋が陥っていた隘路とは神楽ひかりを「私」の舞台と思い込むことによって目の前にいる神楽ひかりその人自体を見失うことであり、同時にそれは「私」も見失っていたことを意味している。劇場版ではそれまでのバンクと異なり、愛城華恋は棺ような箱のなかに入れられそれを列車が運ぶという変身シーンとなっていた。箱のなかで彼女が再生産の燃料にしたのはそれまでのような商品ではなく、自らの過去、思い出、自らの「私」を形作る歴史そのものである。新たな「舞台」に立つためにはその都度役作りをしなければならない。それは「私」を形作る歴史そのものを、あるいはシナリオを、その両方を、その都度再解釈し、吟味し、修正を施しながら新たな「私」、「舞台」をつくっていくということだ。愛城華恋は神楽ひかりのキラめきによってようやくそれを思い出したのだ。


 追記

 読み返すと感想といいながらただの読解みたいになってたので。映画についてぼくは云々いえるほどあまり詳しくないんですが、映画の面白さって編集の妙味だと思うんですよね。おもしろさって人それぞれだとは思うんですけどひとつ普遍的にあるのは驚異かなと。この驚異を映画で可能にするのはあるカットとあるカットをつなげてしまうその結節点にあるような気がします。そこをさらに音響で複雑にすることもできる。このアングルからこのアングルへの移行を可能にしてしまう映像編集のマジックというか。『レヴュースタァライト』がすぐれているのは監督が「『体験型』のアニメ」というように、その映像と音響の織り成す驚異そのものなんですよね。まぁここに関してはぼくは言語化するのは今は難しいので他の方にお任せします。いやはやとにかくすごかった。ぼくの今までの映像体験でも1,2争うくらいよかったです。


 追記2(2022/12/26)

 一部誤字と文言を修正し、編集しなおしました。



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